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黒猫年代記  作者: @12
第二部 ~Ⅱ~ FENRIR ― 戦狼となった黒猫 ― Season 4 #067~
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118/189

Season 6「門の彼方へ」  #118

第118話「門前防衛線」

 東の水平線を裂いた紫色の亀裂は、夜になっても閉じなかった。

 時間が経つにつれて薄れるどころか、その輪郭はむしろ鮮明になり、連邦共和国東部の地上から見える空間異常だけでなく、独立海上作戦群《KRAKEN》が洋上で観測している歪曲領域と、独立特殊作戦航空団《SKY LANCER》が高空から捉えている異常も、それぞれ独立した反応として残り続けていた。

 当初は一つの巨大な門を異なる方向から観測している可能性も考えられたが、HUGINNが集めた広域情報と、ノア・ヴェルナー〔Cipher〕が各方面から送られてくる観測記録を重ねたことで、その可能性は急速に低くなっていた。

 少なくとも三つの異常領域が存在している。

 地上では異界軍地上部隊がその周囲へ集まり、海上では艦隊が一定の距離を保ったまま展開し、高空でも航空戦力と飛行魔獣群が空間異常を囲むように動いている。

 そして、それら全てが偶然同時に発生したとは、もはや考えにくかった。

 だからこそレイブン・S・クロウ〔無名(ノックス)〕は、門へ向けた進軍を許可しなかった。

「前へ出るなと言ってるわけじゃない。ただ、あれを次の攻略目標にはするな」

 東部前進指揮所では、連邦共和国軍と帝国軍、FENRIR各部隊を結んだ通信会議が続いていた。

 戦況図の東端には、三つの紫色の領域が表示されている。

 連邦共和国軍の指揮官が低い声で問い返した。

『異界軍は門の周囲へ戦力を集めている。完成する前に叩くという選択肢もあるはずだ』

「あります」

 レイブンは即座に否定しなかった。

 黒い猫耳が通信機越しの声を拾う一方で、金色と黒のオッドアイは戦況図から離れない。

「ただし、それは俺たちがあれを何だと理解しているのか、その前提が成立している場合です」

『ベルガで確認された門とは違うと?』

「同じ可能性もあります。でも、同じだと証明できていません」

 レイブンは胸元へ手を触れた。

 そこには今も微かな熱が残っている。

 ベルガで門が開いた時にも感じた。

 ルナとともに紫色の空を持つ世界へ引き込まれた時にも、似た感覚があった。

 しかし、完全には一致していない。

 戦場で最も危険なのは、分からないものを分かったことにすることだった。

「敵が門を守っているのか、門から来る何かを待っているのか、それとも俺たちを門の近くへ誘導しようとしているのか。それすら分からない状態で踏み込めば、敵の意図が何であれ、こっちから相手の都合のいい場所へ入ることになります」

『では、防衛へ戻るのか?』

「いいえ」

 レイブンは戦況図上の線を指した。

 それは第116話以降、数日をかけて東へ押し出してきた新しい防衛線だった。

「ここで守ります」

 その言葉には、すでに現地で積み重ねられた現実が伴っていた。

 DVERGRが損傷した道路を確認し、BIFROSTが補給路を繋ぎ、IDUNNが負傷者を後送できる救護拠点を移している。EINHERJARは前線後方に残る住民と避難経路を確認し、HUGINNは通信と観測の範囲を前へ伸ばしていた。

 北部と中央には連邦共和国軍が入り、その間を帝国軍部隊とFENRIRが支えている。

 ただ兵士だけが前へ出た線ではない。

 人を支え、負傷者を戻し、弾薬と食料を運び、必要なら全員が撤収できるところまで含めて前へ出した線だった。

「進軍する防衛で確保した場所を、正体不明の門が開いたからという理由だけで捨てる必要はありません。ただし、敵が用意した場所まで付き合ってやる必要もない。今の位置で状況を見ます」

 別回線からエリシア・L・クロウ〔Valkyrie〕が加わった。

『EINHERJARは前線後方の集落を再確認するわ。すでに住民が戻り始めている場所もあるから、門の反応が拡大した場合に備えて避難経路を先に整えておく』

「頼む」

『避難命令そのものは?』

「まだ出さない」

 レイブンは少し考え、戦況図の後方へ視線を移した。

「何が起きるか分からない段階で、ようやく帰ってきた人たちを何度も家から追い出したくない。車両と経路だけ準備しておいてくれ」

『同感。準備だけ進める』

 そこへCipherが新しい情報を割り込ませた。

『NoX、もう一つ気になることがある。異界軍側の通信量が増えてる』

「前線同士?」

『それが違う』

 ノアが戦況図へ通信方向の推定を重ねる。

 地上部隊から東へ向かう反応があり、海上の艦隊からも、高空の航空戦力からも同じ傾向が見える。内容を完全に解読できているわけではなかったが、少なくとも前線部隊同士が互いに連絡を取り合っているだけの通信には見えなかった。

 Houndが腕を組んだ。

「門の向こうと話してるってことか?」

『そこまでは言えない。門そのものへ送っているのか、その周辺に別の通信拠点があるのか、向こう側と繋がっているのかも分からない。ただ、こっちじゃない何かへ情報を集めてる可能性はある』

 レイブンは三つの紫色の領域を見つめた。

「なら、なおさら近づかない」

 Houndが横目で彼を見る。

「怖いか?」

「ああ」

 あまりにも迷いのない返答だったため、Houndの方が僅かに目を見開いた。

「即答するんだな」

「一度、正体の分からない門に飲まれてるからな。怖くない方がおかしい」

 紫色の空の下で目を覚まし、黒い川を見て、言葉も通じない土地をルナと歩いた。

 アーシェやセイルと出会い、エルネから紫脈の石を受け取り、帰還できる保証など何一つない夜を過ごした。

 未知であることそのものが、どれほど危険なのかをレイブンは知っている。

「怖いから見るんだ。怖くないふりをして突っ込むより、その方が生きて帰れる」

 Houndはそれ以上からかわず、静かに頷いた。

     ◇

 同じ頃、東方海域ではエリック・ヴァルナー〔Leviathan〕が、KRAKEN旗艦の艦橋から巨大な空間歪曲を正面に捉えていた。

 水平線近くの空が縦に裂け、紫色の光が亀裂の縁を走るたび、その色が黒い海面へ細長く映り込む。

 異様な光景だった。

 しかしエリックが注意を向けているのは、門だけではない。

「敵艦隊、まだ撃ってこないな」

「はい。距離もほぼ維持したままです」

「海洋魔獣は?」

「複数の反応を確認していますが、前面には出てきていません」

 エリックは艦長席へ身体を預けながら、海図と水平線を交互に見る。

 これまでの異界軍の行動から考えれば、門を守るためにKRAKENへ攻撃を仕掛けても不思議ではなかった。

 ところが撃ってこない。

 KRAKEN側も撃っていない。

 広大な海の上で二つの艦隊が互いを視界に置きながら、奇妙な距離を保ち続けていた。

「待ってるな」

 参謀が顔を向ける。

「何をでしょう」

「それが分かったら、こんなに気味悪くない」

 エリックは双眼鏡を上げた。

 紫色の裂け目の向こう側は見えない。

 膜のような光が揺れ、その奥に何かがあるようにも、ただ暗いだけのようにも見える。

「FJTFより方針共有。空間異常への接近を避け、現在の海上防衛線を維持するとのことです」

「賛成だ」

「即答ですね」

「正体不明の穴を海で見つけて、とりあえず近づいてみようって奴に艦隊を預けたら、その時点で終わりだろ」

 参謀が苦笑した。

「NoXにも同じことを言いますか?」

「あいつはもう一回入ってる実績があるからな」

「事故で、ですが」

「だから余計に言うんだよ」

 エリックは艦隊回線を開いた。

「LeviathanよりKRAKEN全艦。あの門を間近で見物したい奴は戦争が終わってから観光船で来い。今は距離を維持しろ」

 各艦から返答が重なる。

 その直後だった。

 紫色の亀裂の表面が、大きく波打った。

「空間異常、増大!」

 艦橋の空気が変わる。

 エリックは立ち上がり、双眼鏡を再び向けた。

 門の中央。

 光の向こう側を、巨大な何かが横切っている。

「艦か?」

「判別できません!」

 海洋魔獣にも見える。

 船体のようにも見える。

 だが、どちらだと決められるほど明瞭ではない。

 その巨大な影は境界を越えることなく、紫色の膜の向こうをゆっくりと移動していった。

 エリックは通信回線を切り替えた。

「KRAKENから地上司令部およびSKY LANCERへ。海側の門の向こうに大型影を確認した。種類は不明、まだこちら側へは出ていない」

     ◇

 高空ではアメリア・ローゼン〔Artemis〕が、海上とは異なる形の異常を見ていた。

 SKY LANCERの前方で、厚い雲が巨大な紫色の渦へ引き込まれている。

 海上の門のように輪郭が安定しているわけではなく、空そのものがねじれ、雲と光がその周囲を絶えず流れているように見えた。

 SKY LANCERは不用意に接近せず、複数方向から観測を続けている。

『Artemis、魔力反応上昇』

「敵航空群は?」

『大きな移動なし』

「本当に嫌な静けさね」

 異界軍の航空戦力も飛行魔獣も門の周囲に存在している。

 だが攻撃してこない。

 こちらを待ち伏せているというより、彼ら自身も何かを待っているように見える。

「早期警戒、門の向こう側は拾える?」

『通常観測では判別困難です。複数の反応らしきものがありますが、歪曲と重なっています』

「数は出さなくていい。見えないものを無理に数字へ変えないで」

『了解』

 アメリアは機体を門へ向けて加速させることなく、現在の観測位置を維持した。

 その時、紫色の渦の奥で青白い光が走った。

「……何?」

 直後、何かが境界を抜けた。

「全機、警戒。ただし撃つな!」

 アメリアが叫ぶ。

 飛び出してきたのは航空機ではなかった。

 鳥に似た輪郭を持ちながら翼は四枚あり、細長い身体の表面には青白い発光が走っている。

 それはSKY LANCERへ向かってこなかった。

 門の周囲を大きく一度旋回する。

『敵性判定は?』

「まだしない。向こうを見て」

 異界軍側も撃っていなかった。

 それどころか、門の近くにいた飛行魔獣の一部が、青白い生物から距離を取っている。

 アメリアの表情から軽口が消えた。

「……あいつらも知らないの?」

 青白い生物が鳴いた。

 機体の外から聞こえるはずの音なのに、その響きは奇妙なほど近く感じられた。

 次の瞬間、生物は身を翻し、再び紫色の渦へ飛び込んで消えた。

 SKY LANCERは追わない。

 異界軍も追わない。

『Artemis、敵側に攻撃行動なし』

「攻撃してないだけで、反応はしてる」

 アメリアは距離を取った飛行魔獣群を見ていた。

「この門、少なくとも連中が完全に制御してるものとは限らない」

 それを結論にはしなかった。

 観測された事実と、そこから生まれた可能性を分けたまま、アメリアは地上とKRAKENへ情報を送った。

     ◇

 後方海域でも、ほぼ同じ時刻に異変が起きていた。

「Nyx、反応が上がっています!」

 日本側観測員の声を受け、ルナ・S・クロウ〔夜(ニュクス)〕が表示へ視線を向けた。

 第一航路を閉鎖する原因となった未確認海底物体。

 門の残留反応と部分的に似た波形を示していたそれらが、東方の空間異常と呼応するように活性化している。

 暗い海面の下から、紫色の光が滲み始めた。

 これまで物体の周囲を泳いでいた青黒い小型魔獣たちは、すでに離れている。

「全船、距離を取ってください。日本側も同じです」

 ルナの指示に迷いはなかった。

 STYXと日本側掃海支援部隊が、観測を維持できる範囲でゆっくりと離れる。

 やがて海底物体から伸びたのは、爆発でも攻撃でもなかった。

 水中へ細い紫色の光が伸びていく。

 一つの物体から現れた線に、別の物体からの光が続き、さらにその隣も同じ方向を示した。

「方位は?」

「東です」

 Drakeがルナを見る。

「門の方向か?」

「可能性はあります。でも、まだそれだけです」

 ルナ自身も、胸の奥で強くその関連を感じていた。

 海底物体そのものが門とは考えにくい。

 それでも、門が開いたことをきっかけに反応しているのは確かだった。

「観測データを全部Cipherへ。加工前のものも送ってください」

「了解」

 ルナは水平線へ目を向けた。

 ここから門そのものは見えない。

 それなのに胸の奥に残る熱は、ベルガで兄と引き離された時よりも強く感じられた。

 紫色の空の下で、エルネから渡された石が反応した時の感覚にも似ている。

 その時だった。

 意識の奥へ、何かが触れた。

 ルナの呼吸が止まる。

「……帰りたい」

 自分の口から零れた言葉に、ルナ自身が驚いた。

 Drakeが振り向く。

「Nyx?」

「違います」

「何が?」

「今のは……私の気持ちじゃない」

 白い猫耳が僅かに立つ。

 音ではなかった。

 誰かが耳元で喋ったわけでもない。

 言葉より先に、意味になりきらない感覚が流れ込んでくる。

 焦燥。

 孤独。

 暗い水の感覚。

 遠く離れた場所。

 そして、そこから離れたいという強烈な意思。

 紫空の世界で触れた思念伝達とよく似ていた。

「誰かがいる」

 ルナは暗い海面を見つめた。

「この反応の向こうに……帰りたがってる誰かがいます」

     ◇

 ほぼ同時刻、前線にいたレイブンも胸元へ手を当てていた。

 地上側の紫色の門が脈動するたび、身体の奥へ熱が走る。

 隣にいるエリシアも同じ場所へ手を触れていた。

「聞こえた?」

 エリシアが小さく尋ねる。

「お前もか?」

「言葉じゃない。でも、何かが流れてきた」

 レイブンは門を見る。

 紫色の裂け目の向こうに、これまで光に隠されていた景色が少しずつ浮かび始めていた。

 以前レイブンとルナが迷い込んだ世界の黒い川ではない。

 紫色の空でもなかった。

 そこに見えるのは薄暗い平原で、その遥か奥には巨大な構造物が立ち、手前では無数の影が動いている。

 Houndが双眼鏡を上げた。

「敵か?」

「分からない」

「かなりいるぞ」

「ああ。だからまだ撃つな」

 その時、異界軍前線にも変化が生じた。

 門の周囲に展開していた部隊が、ゆっくりと後退を始めている。

 FENRIRへ向かってではない。

 門から距離を取っている。

 レイブンの金色と黒のオッドアイが、その動きを追った。

「……違う」

 エリシアが彼を見る。

「何が?」

「あいつら、門を守ってたんじゃない」

 異界軍は門の防衛線を作っていたのではない。

 門が開く場所を予測し、その周囲から自軍を退避させていたのだとすれば、これまでの不自然な撤退にも説明がつく。

 地上部隊が少しずつ後退し、艦隊が一定の距離へ集まり、航空戦力まで空間異常の外側へ再配置された理由。

 彼らは逃げていたのではなく、空けていた。

 何かが出てくる場所を。

『NoX!』

 Cipherの声が通信へ飛び込んだ。

『海側の門で大型影を確認。空側では未知の飛行生物が一度だけ境界を越えた。Nyx側の海底物体も一斉に活性化してる!』

「三つは繋がってるのか?」

『関連してる可能性は高い。でも同一の門か、同じ場所へ繋がってるのかは分からない!』

「それで十分だ」

 レイブンはISG-42A3《RAVEN》を手に取った。

 今すぐ撃つためではない。

 何が境界を越えてきても対応できるようにするためだった。

「全軍へ。異界軍も門から離れてる。こちらも現在線を維持して接近するな。門から何かが出ても、敵性を確認するまで撃つな」

 Houndが双眼鏡を下ろした。

「異界軍の敵なら味方、って判断もなしだな?」

「当然だ。敵の敵が何者かなんて、まだ誰も知らない」

 門の向こうに見えていた影が近づいてくる。

 人型のものがいる。

 四足で走るものもいる。

 巨大な影も、小さな影も混じっており、少なくとも統一された軍隊が整然と進んでいるようには見えなかった。

 その中で一つの人影が、他より早くこちらへ向かってくる。

 走っている。

 いや、何かから逃げている。

 紫色の境界へ到達した瞬間、門の表面が大きく揺れた。

「来るぞ」

 レイブンの声とともに、前線全体へ緊張が走る。

 人影が境界を越えた。

 勢いを失って泥の上へ転がり、激しく咳き込みながら、それでも必死に身体を起こそうとする。

 異界軍は撃たなかった。

 FENRIRも撃たない。

 連邦共和国軍も帝国軍も、事前に共有された命令を守った。

 門から現れた人物は軍服を着ておらず、目立った武器も持っていなかった。服は何かに引き裂かれたように傷み、露出した腕にも傷が走っている。

 そして、その頭部には獣の耳があった。

 猫系でも犬系でもない。

 少なくともレイブンの知る種族ではなかった。

 その人物は恐怖に引きつった顔で背後の門を振り返り、次にこちら側へ並ぶ兵士たちを見た。

 何かを叫ぶ。

 知らない言語だった。

 しかし、声とは別のものがレイブンの意識へ流れ込んできた。

 巨大な都市の景色が一瞬だけ浮かび、次には塔が崩れ、その下を大勢の人々が逃げている。空には巨大な黒い影が広がり、逃げ場を失った人々が門へ殺到していた。

「思念伝達……」

 エリシアが息を呑む。

 倒れていた人物が震える手をこちらへ伸ばした。

 その瞬間、乱れていた感覚の中から一つだけ、明瞭な意思が伝わった。

 助けを求めている。

 そして、自分たちだけでは帰れない。

 レイブンは《RAVEN》の銃口を静かに下げた。

「Sageを呼べ。EINHERJARの救護要員も一緒に」

 Houndが横を見る。

「接触するのか?」

「武器は見えない。今のところ敵意も感じない。ただし不用意に囲むな」

「門の向こうはどうする?」

 レイブンは紫色の裂け目から目を離さなかった。

 さらに多くの影が近づいている。

「だから最初の一人から確認する。分からないものを増やす前に、分かることを一つずつ増やす」

 Sageたちが慎重に距離を詰める。

 レイブン自身は先頭へ飛び出さず、周囲の射線と味方位置を確認しながら、〔殺気看破(アタック・シールド)〕が拾う反応にも意識を向けた。

 明確な敵意はない。

 伝わってくるのは、ひたすら強い恐怖だった。

 その時、門の向こうから低い音が響いた。

 紫空の世界で聞いた鐘の音とは違う。

 もっと重く、地面の奥から巨大な何かが世界そのものを叩いているような響きだった。

 救護を受けようとしていた人物が激しく震え、門から逃れようと泥の上を這う。

 そして異界軍側の部隊も、さらに後退した。

 その光景を見た瞬間、レイブンは一つの可能性を理解した。

 異界軍が東部戦線から少しずつ戦力を退かせていた理由は、FENRIRへの反撃準備だけではなかった。

 彼らも、この門の向こうから何が来るのかを知っている。

 少なくとも、距離を取るだけの理由を持っている。

「全軍へ」

 レイブンは通信を開いた。

 視線だけは門から外さない。

「防衛対象を更新する」

『敵軍じゃなく?』

 Cipherの問いに、レイブンは首を横へ振った。

「違う」

 最初に現れた避難民を、SageとEINHERJARの救護要員が慎重に後方へ移していく。

 門の向こうでは、さらに多くの人影が走っている。

 武装した兵士の隊列には見えなかった。

 負傷者を肩で支える者がいて、歩くことすら難しそうな老人を連れる影があり、その足元には子供ほどの小さな姿まで混じっている。

 さらに遠く。

 逃げる人々の背後に、巨大な黒い輪郭が浮かんだ。

「門からこちら側へ到達した避難民を保護する」

 Houndの表情から最後の軽さが消えた。

 エリシアもすでにEINHERJARへ救護区域と誘導経路の確保を指示している。

「ただし門の中へ入るな。向こう側まで助けに行こうとするな。こちらへ到達した者を受け入れ、救護して、後方の帰還線へ流す。今ある道を絶対に詰まらせるな」

 それはレイブンが何度も繰り返してきた原則だった。

 救いたいからこそ、自分たちまで帰れなくなる場所へ無制限に踏み込まない。

 今ここへ辿り着いた一人を確実に救い、その人間を後方へ送ることで、次の一人を受け入れる余地を作る。

 紫色の門がさらに広がった。

 今度は一人ではない。

 何十もの人影が、互いを支えながら境界を越えてくる。

 東部戦線で対峙していた異界軍も、FENRIRも、連邦共和国軍も帝国軍も、その光景を見ていた。

 これまで互いに武器を向けていた二つの陣営の間へ、さらに別の世界から逃げてきた人々が流れ込み始める。

 その背後では、巨大な黒い影が門の向こうでゆっくりと頭を上げた。

 領土を取り戻せば終わるはずだった戦争の前線に、いま新たな境界が重なっている。

 レイブンは《RAVEN》を握りながらも、引金へ意識を急がせなかった。

 撃つべき相手が誰なのか。

 守るべき相手が誰なのか。

 それを見誤らないことこそ、今この瞬間に求められている戦闘だった。

 第二次異界大戦の東部戦線は、こうして単なる領土を巡る戦場ではなくなった。

 その前方には、もう一つの世界の戦場が繋がっていた。

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