Season 6「門の彼方へ」 #117
第117話「三つの戦線」
異界軍の後退が再編のためだったと判明してから、東部戦線の空気は明らかに変わった。
数日前まで、連邦共和国軍と帝国軍、そしてFENRIRは敵が放棄した地域を慎重に埋めるように前進していた。DVERGRが道路を確認し、BIFROSTが補給を繋ぎ、IDUNNが救護拠点を移し、その線が確実に後方へ繋がったことを確かめてから、ようやく次の土地へ足を踏み入れる。
レイブン・S・クロウ〔無名〕が「進軍する防衛」と呼んだ戦い方は、派手さとは無縁だった。
敵を追い回すための進軍ではない。
守れる土地を増やしながら、防衛線そのものを押し出す。
だからこそ、異界軍が一か所へ集まり始めたという情報が届いても、レイブンは前線を元の位置へ戻そうとはしなかった。
むしろ逆だった。
「ここまで来た意味がある」
夜明け前の前進指揮所で、レイブンは大型戦況図を見ながら言った。
雨は止んでいる。
しかし空は重い鉛色の雲に覆われ、東から吹く風には海の湿気が混じっていた。
隣にはエリシア・L・クロウ〔戦乙女〕が立ち、その向こうではCipherがHUGINNから届く情報を整理している。
地図上には、三種類の情報が重ねられていた。
地上を東へ後退していた異界軍。
海上でKRAKENと対峙する艦隊。
空から接近を繰り返す航空戦力と飛行魔獣群。
それらが、連邦共和国東岸を中心とする広大な地域へ集まりつつある。
「敵の地上部隊はまだ移動中」
Cipherが画面を切り替える。
「北部から下がった部隊は沿岸北東部。中央正面から下がった部隊は旧港湾工業地帯のさらに東。南部の一部は海岸方向。ただし全部が合流したわけじゃない」
「海は?」
「KRAKENから最新情報。昨夜までに確認していた敵艦隊とは別に、新しい艦影が東から入ってる。数はまだ確定できない」
「空も同じね」
エリシアが航空状況を見る。
「SKY LANCERが確認した大型反応も増えてる」
「地上で押し返されたから、残ったものを全部海岸へ寄せた……だけなら分かりやすいんだけどな」
レイブンは腕を組んだ。
Houndが後ろから口を挟む。
「違うと思ってる顔だな」
「異界軍がそんな親切だったこと、一度でもあった?」
「ない」
「即答するなよ」
「聞いたのお前だろ」
僅かな笑いが生まれたが、すぐに消えた。
レイブンは地図の東端を見る。
敵は撤退しながら戦力を温存した。
こちらが追撃してこないと見ると、さらに下がった。
それから海上戦力と航空戦力が増え始めた。
これが単なる敗走の末の防衛なら、地上戦力を海岸から逃がす動きがもっと見えるはずだった。
だが実際には違う。
海へ逃げているのではない。
海の戦力と合流しようとしている。
「来るなら、地上だけじゃない」
レイブンが言った。
「海と空も同時だ」
エリシアが頷く。
「三方向でこちらの判断を分散させる」
「たぶんな」
レイブンは断定しなかった。
敵の計画書を読んだわけではない。
今あるのは、観測された事実と、そこから導ける可能性だけだ。
「だから俺たちも三つを別々に考えない」
Cipherが顔を上げる。
「統合する?」
「指揮系統まで一つにする必要はない。KRAKENにはLeviathanがいる。SKY LANCERにはArtemisがいる。地上は連邦軍と帝国軍、それにFJTF。全員を俺の下へ置くなんて馬鹿なことはしない」
Houndが笑う。
「珍しく権力欲がない」
「お前、今日から一番前な」
「ほら独裁者」
「黙れ」
レイブンは地図へ視線を戻した。
「必要なのは、互いが何を守ってるか分かってることだ」
海が崩れれば敵は上陸する。
空が崩れれば海上部隊も地上部隊も上から圧力を受ける。
地上が崩れれば、港と航空拠点を失う。
後方航路が閉じれば、それら全てへの補給が細る。
三つの戦線は独立していない。
同じ戦争を、異なる場所から支えている。
◇
その日の午前、東方海域ではエリック・ヴァルナー〔Leviathan〕が同じ地図を別の角度から見ていた。
独立海上作戦群《KRAKEN》の旗艦艦橋から見える海は、奇妙なほど穏やかだった。
前夜までの砲火は止まっている。
敵艦隊は水平線の向こうまで距離を取り、海洋巨大魔獣も姿を見せていない。
だが誰も、それを休戦だとは考えていなかった。
「嫌な静けさだ」
エリックが呟く。
「敵艦隊、新規艦影を含めて東方へ集結を継続しています」
参謀が答える。
「こちらへ向かってこない?」
「現在は」
「じゃあ待ってるんだろうな」
エリックは海図を見る。
KRAKENにも損傷はある。
前回の戦闘で傷ついた艦は後方へ下がり、応急的な処置を終えた艦も完全な状態ではない。
乗員も疲れている。
戦えることと、万全であることは同じではなかった。
「補給状況は?」
「後方航路の一部が閉鎖されています。STYXと日本側派遣部隊が代替経路を調査中」
「例の海底物体か」
「はい」
エリックは鼻から息を吐いた。
前に敵艦隊。
後ろには未知の海中障害。
その上には空戦。
「海ってのは広いくせに、どうしてこう狭くなるんだろうな」
参謀が少し笑う。
「戦争だからでは?」
「夢がない答えだ」
通信士が振り返った。
「Leviathan、FJTF地上司令部より情報共有。敵地上部隊の再編地点が、当海域に接近する傾向あり」
「見せろ」
情報が海図へ重ねられる。
エリックの表情が変わった。
「なるほど」
敵地上部隊の後退方向。
敵艦隊の集結海域。
さらにSKY LANCERから共有された敵航空群の進入経路。
「こいつら、海岸を一本の戦線にするつもりか」
参謀が尋ねる。
「大規模上陸でしょうか」
「かもしれない。逆に、上陸すると見せて地上の連中を海岸へ縛りつけたいのかもしれない」
「では?」
「どっちでもいい」
エリックは椅子へ座った。
「俺たちは海でやることを変えない」
敵艦隊を通さない。
だが、倒すために無謀な距離まで追わない。
上陸船団が出れば阻止する。
巨大魔獣が現れれば、その行動を見極める。
空から来る敵までKRAKENだけで背負わない。
「NoXに返せ」
「内容は?」
エリックは少し考えた。
「『海はこっちで持つ。陸まで泳いでくるな』」
通信士が一瞬止まった。
「そのままですか?」
「そのまま」
◇
レイブンがその返答を受け取ったのは、前線部隊の配置確認をしている最中だった。
Cipherが読み上げる。
「『海はこっちで持つ。陸まで泳いでくるな』」
レイブンは黙った。
エリシアが横で肩を震わせる。
「笑うな」
「泳ぐつもりだった?」
「あるわけないだろ」
Houndが言う。
「昔なら行ったんじゃない?」
「俺を何だと思ってる?」
「黒猫」
「種族の話じゃない」
レイブンは端末を受け取ると短く返信した。
「『了解。沈むな』」
Cipherが眉を上げる。
「それだけ?」
「十分だろ」
「似た者同士ね」
エリシアの言葉を無視し、レイブンは次の通信へ切り替えた。
「Artemisは?」
「SKY LANCERから接続できます」
数秒後、アメリア・ローゼン〔Artemis〕の声が入った。
『NoX?』
「そっちは?」
『空』
「見れば分かる」
『じゃあ聞かないで』
レイブンが額へ手を当てる。
「敵の集まり方だよ」
『増えてる。しかも飛行魔獣と航空部隊の混成比率が変わってきた。大型を前に出すより、散らしてる感じ』
「突破狙い?」
『可能性はある。でも断定はしない』
「こっちと同じだな」
『地上は?』
「敵が下がった分だけ前へ出た。今は速度を落として後ろを繋いでる」
『それでいいと思う』
「空は任せる」
『最初からそのつもり』
アメリアが一拍置いた。
『ただし一つ。敵が地上へ抜けたら、全部落とせなかったって文句は受け付けない』
「言わない」
『本当に?』
「俺たちが海岸まで全部止められなかった時も文句言うなよ」
『取引成立』
通信が切れる。
レイブンは端末を下ろした。
それでいい。
完璧を求めない。
KRAKENが一隻も通さないことを前提にしない。
SKY LANCERが一機も通さないことを前提にしない。
WOLF PACKが一人も地上へ入れないことを前提にしない。
どこかで抜けても、次が受け止める。
そのための多層の防衛だった。
◇
後方海域では、ルナ・S・クロウ〔夜〕が別の問題に直面していた。
第一航路を閉鎖する原因となった未確認海底物体は、小型魔獣によって次々と沖へ運ばれている。
だが、全てではない。
一部が残っていた。
STYXと日本側掃海支援部隊は距離を保ちながら、その反応を観測し続けていた。
「また周期が変わりました」
日本側観測員が告げる。
ルナは表示を見る。
魔力反応が強くなっている。
一定だった周期が、少しずつ短くなっていた。
「小型魔獣は?」
「周辺から減っています」
Drakeが海面を見る。
「逃げてる?」
「かもしれません」
ルナは即答を避けた。
しかし、その可能性を無視することもできない。
魔獣が集まっていた時には反応が安定していた。
今は魔獣が離れ、物体の魔力反応だけが強くなっている。
日本側指揮担当者が尋ねる。
「航路再開は延期ですね」
「はい」
ルナは迷わなかった。
「代替航路を優先します」
「こちらの物体は?」
「監視します。でも今は触りません」
Drakeが苦笑する。
「NoXが聞いたら喜びそうだ」
「兄様なら『それでいい』と言います」
「声まで似てたぞ」
「やめてください」
その時、通信が入った。
『Nyx、Cipher』
「どうぞ」
『例の物体の反応データ、他の記録と比較してる』
「何か分かりました?」
『まだ結論じゃない。ただ……少し似た波形がある』
ルナの表情が変わる。
「何に?」
Cipherが一瞬だけ言葉を選んだ。
『ベルガで観測した門の残留反応』
船上から冗談が消えた。
ルナの胸の奥に、冷たい感覚が走る。
紫色の空。
黒い川。
青白い光。
エルネから渡された紫脈の石。
そして自分と兄を別世界へ引き込んだ門。
「同じですか?」
『違う』
Cipherははっきり答えた。
『似てるだけ。同一技術とも、門を作る装置とも言えない』
「……分かりました」
『だから今まで通り触らないで』
「兄様みたいなこと言わないでください」
『俺まで言われるの?』
「今日は皆そればっかりです」
それでもルナの視線は海底から離れなかった。
ただの機雷ではないかもしれない。
魔獣を呼ぶ装置でもないかもしれない。
門に似た何か。
あるいは、門と同じ原理の一部を利用した全く別の装置。
今はそれ以上、決めるべきではなかった。
「日本側にも共有します。ただし未確定情報として」
『頼む』
通信が切れる。
日本側の担当者がルナを見る。
「門、ですか」
「似た反応があるだけです」
ルナは念を押した。
「ここから先を想像で埋めると危険です」
「了解しました」
その返答に、ルナは少しだけ安心した。
未知の世界へ来たばかりの頃より、日本側要員は確実にこの世界の不確実さへ慣れ始めている。
◇
昼を過ぎた頃、東部戦線の最前線で最初の変化が起きた。
敵が撃ってこなくなった。
それまで散発的に続いていた魔導砲撃が止まり、前方の森から聞こえていた音も消えた。
レイブンは前線陣地から双眼鏡を覗いた。
「静かだな」
Houndが隣で言う。
「嫌いな静かさだ」
「同感」
Attack Shieldは何も教えてこない。
少なくとも、今すぐこちらへ向けられている明確な殺気は感じない。
だが、それは安全を意味しない。
「Hawk?」
『動きなし』
「Lynx?」
『森の前縁まで確認。敵影なし。奥には入ってない』
「それでいい」
レイブンは前へ出なかった。
昨日までなら、敵が消えた土地へ次の防衛線を押し出していた。
だが今日は違う。
敵が集結しているという情報がある。
ここで前へ誘われる理由はない。
「止まる?」
Houndが尋ねる。
「今日はな」
「進軍する防衛じゃなかったのか?」
「進軍することが目的になったら、それはただの進軍だ」
Houndは少し笑った。
「教官みたいなこと言うな」
「教官なんだよ」
レイブンが双眼鏡を下ろした、その時だった。
東の空に一本の光が立った。
雷ではない。
地上から空へ向けて伸びる、巨大な紫色の魔力光。
それは雲を突き抜け、数秒間だけ東の空を染めた。
レイブンの胸の奥が熱くなる。
「……っ」
反射的に胸元を押さえる。
同じ頃、後方にいたエリシアも足を止めた。
海上のルナも顔を上げた。
三人の身体が、ほぼ同時に反応していた。
不老不死が発現した時。
門が開いた時。
異界へ引き込まれた時。
あの感覚に近い。
だが、同じではない。
「NoX?」
Houndがレイブンを見る。
「今の……」
レイブンが言い終える前に、通信が一斉に騒がしくなった。
『HUGINNより全軍! 東部沿岸で大規模空間異常!』
『KRAKENより地上司令部! 海上でも確認した! 水平線上に巨大魔力反応!』
『SKY LANCERより全域警戒! 高空に空間歪曲を確認!』
Cipherの声が重なる。
『NoX! 門反応だ!』
レイブンは東を見る。
紫色の光柱が消えた場所。
その周囲の雲が、ゆっくりと円を描き始めていた。
さらに遠い海上でも、空の色が変わっていく。
「一つか?」
『待って』
Cipherが解析する。
『……違う』
声が硬くなる。
『複数ある』
レイブンの金色の瞳が細くなった。
地上。
海。
空。
異界軍が三つの戦場へ戦力を集めた理由。
それがようやく見え始めた。
「エリシア」
『聞いてる』
「ルナ」
『こちらも』
三人の声が同じ回線へ揃う。
胸の奥に残る熱が消えない。
レイブンは《RAVEN》へ手を置いた。
「全軍、今の防衛線を維持。門へ突っ込むな」
Houndが彼を見る。
「進まないのか?」
「進む理由が変わった」
紫色の空間歪曲が広がる。
その向こうに、まだ何があるのかは見えない。
「敵が下がった理由を先に見る」
海ではKRAKENが艦列を整え始める。
空ではSKY LANCERが警戒空域を組み直す。
後方海域ではSTYXと日本側支援部隊が航路を閉じ、未知の海底物体から距離を取る。
地上では連邦共和国軍と帝国軍、FENRIR各部隊が前進を止めながらも後退せず、それぞれが数日かけて築いた新しい防衛線へ収まっていく。
その瞬間、東の水平線が紫色に裂けた。
かつてレイブンとルナを飲み込んだものより遥かに大きい。
しかし、同じものだとはまだ誰にも断言できない。
ただ一つだけ確かなことがあった。
異界軍は逃げていたのではなかった。
次に開くもののために、場所を空けていたのだ。




