Season 6「門の彼方へ」 #114
第114話「帰還線」
東部沿岸都市に二度目の避難命令が出された時、住民たちは最初の時ほど混乱しなかった。
それは恐怖が薄れたからではない。
一度失った故郷へようやく戻り、壊れた窓を塞ぎ、泥を掻き出し、途切れた水道の代わりに井戸を使いながら、それでも生活を始めようとしていた人々にとって、海から再び異界軍が迫っているという知らせは十分すぎるほど残酷だった。
だからこそ、誰もが理解していた。
生きていれば、また戻れる。
レイブン・S・クロウ〔無名〕は避難車列が西へ動き始めるのを確認しながら、海岸道路の防潮壁越しに水平線を見た。
夕闇の中で、海が何度も白く染まっている。
遅れて低い砲声が届き、そのさらに上空では雲の奥を別の光が走った。
海ではKRAKEN。
空ではSKY LANCER。
そして陸ではWOLF PACKとEINHERJAR。
三つの戦場は離れているように見えて、実際には一本の線で繋がっていた。
「避難車列、第三陣まで出ました」
Houndが駆け寄ってくる。
「第四陣は?」
「病院と東地区の住民。EINHERJARが誘導中。IDUNNも入ってる」
「港湾地区は?」
「ほぼ空だ。ただ、戻ってきたばかりだからって家を離れたがらない人が何人かいる」
レイブンは一度目を閉じた。
責める気にはなれなかった。
「説得を続けろ。強制的に引きずり出すのは最後だ」
「了解」
「それと海岸に人を集めるな。見物人も追い返せ」
「そっちはもうGrizzlyが怒鳴ってる」
「適任だな」
Houndが走り去る。
代わってエリシア・L・クロウ〔戦乙女〕が通信端末を片手に近づいてきた。
「東地区の避難は予定より早い。学校を一時集積所に変更したわ」
「敵船団は?」
「KRAKENが追ってる。でも完全には止まってない」
「数は?」
「まだ変動してる」
レイブンは頷いた。
分からないなら、分からないままで動く。
敵が何隻来るか確定するまで待つ必要はない。
住民を逃がす理由としては、一隻でも十分だった。
「俺たちの仕事は変わらないな」
「ええ」
エリシアは水平線を見た。
「敵を待つんじゃなくて、帰還線を残す」
レイブンが彼女を見る。
「帰還線?」
「あなたがずっと言ってるでしょう。帰る道を切らせるなって」
「悪くない名前だな」
「勝手に正式名称にしないで」
「まだ何も言ってない」
「顔に書いてある」
わずかな笑みが二人の間に生まれた。
直後、東の空が大きく光った。
今度の閃光は遠雷のようなものではない。
明らかに近い。
レイブンの猫耳が立つ。
エリシアも空を見上げた。
「近づいてる」
「ああ」
通信へ新しい声が飛び込んだ。
『地上各隊へ。SKY LANCERより警戒情報。敵航空群の一部が沿岸方向へ突破を試みています』
レイブンの表情が変わる。
「目的は?」
『不明。ただし進路上に現在地が含まれます』
「了解」
レイブンは《RAVEN》を握り直した。
「避難を止めるな。空を見る奴と人を動かす奴を分けろ」
エリシアもEINHERJARへ指示を送る。
住民たちの流れは止まらない。
誰かが空を指差す。
子供が泣く。
遠くで警報が鳴り始める。
それでもFENRIRの兵士たちは走り回りながら、住民を西へ送り続けた。
空で何が起きようと、地上の人間まで全員が立ち止まって見上げる必要はない。
◇
同じ頃、沿岸都市より遥か東の空では、アメリア・ローゼン〔Artemis〕がその突破群を追っていた。
「三群に分かれた?」
『確認。北側二群、中央一群。大型飛行魔獣を含みます』
「中央が地上へ向かってる」
戦況表示の中で、敵影が複雑に動いている。
異界軍は以前のように一つの大編隊で押し込んでこない。
分散する。
高度を変える。
囮を混ぜる。
こちらの迎撃隊を引き離してから、本命を通そうとする。
「学習速度が嫌になるわね」
アメリアが呟く。
『褒めます?』
「戦争が終わってからなら」
彼女は周囲の情報を確認した。
電子戦機が敵の魔導通信へ干渉を続けている。
早期警戒機は広域の反応を追い、複数の戦闘機隊へ情報を配っている。
だが完全ではない。
魔力嵐が発生している空域では反応が揺れ、敵側もそれを利用している。
「中央群を止める。ただし全隊を寄せない」
『北側は?』
「残す。中央が囮だったら、空を全部明け渡すことになる」
アメリアは機首を僅かに下げた。
雲を抜ける。
遠くに敵影が見えた。
鳥のようにも竜のようにも見える大型魔獣。
その周囲を、魔導飛行兵器が護衛している。
さらに下には海。
海面のあちこちで光が走っている。
KRAKENの戦場だった。
「嫌な空ね」
魔獣。
航空機。
魔法。
電子妨害。
雲。
海上砲火。
その全てが同じ空域へ重なっている。
それでもSKY LANCERは飛び続ける。
アメリアの機体が大きく姿勢を変えた。
魔導重力偏向機構が補助へ入り、機体は敵群の進路を横切るように移動する。
〔魔導重力偏向機動〕。
だがアメリアは敵の正面へ無謀に飛び込まない。
自分一機で止める必要はない。
「Artemisより中央迎撃隊。押し返すだけでいい。追い回さない」
味方機が左右へ広がる。
敵群が進路を変える。
その瞬間、後方の早期警戒機から声が飛んだ。
『北側第二群、反転!』
アメリアの目が細くなる。
「やっぱりね」
中央は本命ではない。
少なくとも、唯一の本命ではなかった。
『北側第二群、海上へ降下! KRAKEN艦隊後方を狙っています!』
「全隊、役割を崩さない!」
アメリアは即座に答えた。
「KRAKENへ警告。こちらから迎撃隊を回す」
空の戦争は、一つの敵を撃ち落とした者が勝つ戦いではなくなっていた。
どの敵を追わないか。
どの空域を空けないか。
それを間違えた方から崩れていく。
◇
海上では、エリック・ヴァルナー〔Leviathan〕も同じ判断を迫られていた。
独立海上作戦群《KRAKEN》の前方で、海洋巨大魔獣が再び海面へ姿を現した。
黒い背が波を割る。
周囲の敵艦艇が、その巨体を壁のように利用して移動している。
さらに別方向では、沿岸へ向かっていた上陸船団をKRAKENの別働艦が追っている。
「空からも来るそうです」
参謀が報告した。
「Artemisから?」
「はい。北側から敵航空群がKRAKEN後方へ接近」
「海も空も大人気だな」
エリックは海図を睨んだ。
ここで対空防御へ戦力を寄せすぎれば、敵艦隊が動く。
敵艦隊へ集中すれば、巨大魔獣が突破する。
巨大魔獣を全力で叩けば、上陸船団が沿岸へ届く。
どれも無視できない。
だから全部を倒そうとしない。
「Leviathanより全艦。自分の前の敵だけ見てる奴は一回顔を上げろ」
艦隊へ通信が流れる。
「俺たちの後ろには陸がある。上にはSKY LANCERがいる。横には仲間の艦がいる。全部自分で処理しようとするな」
艦橋の戦況表示に、SKY LANCERから共有された航空情報が重なる。
「航空群はArtemisに任せる。こちらは海を塞ぐ」
エリックが前方を見る。
「KRAKENは艦隊名じゃない。ここにいる全艦が一つの怪物だと思え。首一本切られたくらいで止まるな」
敵艦隊が動く。
KRAKENも動く。
海洋巨大魔獣が咆哮し、その振動が海面を伝わって艦体へ届く。
直後、遠方で巨大な水柱が上がった。
大規模艦隊戦は、夜へ入ってなお激しさを増していた。
◇
一方、後方海域では戦争の音が遠かった。
だからこそ、ルナは不安を覚えた。
STYXと日本側掃海支援部隊は、昼間に確認した第一航路を再検証しながら港へ戻っていた。
夕闇の海は一見穏やかだった。
波は低い。
風も弱い。
日本側の観測装置にも、周囲を移動する大型物体は映っていない。
それなのにルナの白い猫耳は、時折わずかに動いていた。
「Nyx?」
Drakeが気づく。
「何か聞こえる?」
「聞こえるというより……静かすぎます」
「海が?」
「はい」
ルナは船縁から水面を見る。
訓練を受けた日本側要員も、勝手に動かず観測を続けている。
やがて一人から報告が入った。
「海底反応、変化しています」
ルナが振り向く。
「昼間のものですか?」
「位置は近い。ただ……数が合いません」
「減った?」
「逆です」
表示されていた反応が、一つずつ増えている。
海底に一定間隔で並んでいた未確認物体。
昼間は数個だった。
今は、その周囲にも新しい反応がある。
Drakeが表情を変える。
「誰かが置いた?」
「まだ分かりません」
ルナは即答した。
決めつけない。
だが一つだけ確かなことがある。
「今日設定した航路に近づいています」
日本側指揮担当者が海図を見る。
「昼間にはなかった位置ですね」
「はい」
ルナは通信を取った。
「第一航路、暫定使用停止。港へ戻る船にも伝えてください」
「まだ危険物とは確認されていません」
「だからです」
ルナは海面から目を離さない。
「安全だと確認できなくなった時点で、今は安全航路ではありません」
日本側の担当者は一瞬だけ黙り、すぐに頷いた。
「了解」
航路閉鎖の情報が後方へ流れる。
その直後だった。
海底の反応の一つが動いた。
機雷ならば、通常はそう動かない。
魔導装置なら、移動機構を持つ可能性はある。
生物なら。
「全船、距離を取ってください」
ルナの声から柔らかさが消えた。
水面に小さな泡が浮かぶ。
続いて別の場所にも。
円を描くように泡が増えていく。
Drakeが舵を切る。
「来るぞ」
海面が持ち上がった。
巨大魔獣ではない。
現れたのは、人間ほどの大きさを持つ細長い生物だった。
青黒い身体の表面に、魔導文字のような発光模様が走っている。
一体。
その後ろにもう一体。
さらに海面の下に複数。
日本側の一人が息を呑む。
「これが……魔獣」
「可能性は高いです」
ルナはまだ武器を向けなかった。
生物は船を見ている。
だが襲ってこない。
「刺激しないで」
STYXにも日本側にも同じ指示を出す。
「向こうが何をしているのか確認します」
一体が海面へ身体を出し、再び潜る。
その直後、海底の未確認反応が一つ消えた。
ルナの目が細くなる。
「……食べた?」
Drakeが呟く。
別の魔獣も海底へ潜る。
また反応が消える。
日本側観測員が画面を見ながら声を上げた。
「対象が移動しています。いや、魔獣が運んでいる?」
「待って」
ルナは考える。
昼間に見つけた物体。
夜になると増えた反応。
それに集まってきた魔獣。
もし、あれが餌のようなものなら。
あるいは魔力を発することで、海洋生物を引き寄せる装置なら。
「兄様に繋いで」
「NoXへ?」
「はい」
通信が開く。
『ルナ?』
「兄様。後方航路で異常です」
『敵?』
「まだ分かりません。でも昼間見つけた海底物体が増えています。それに魔獣が集まっています」
少し沈黙する。
『航路は?』
「閉じました」
『それでいい』
「物体そのものが魔獣を呼んでいる可能性があります」
レイブンの声が低くなった。
『敵が置いた可能性は?』
「あります。でも証拠はありません」
『なら敵の罠とは呼ぶな。今は未確認物体と魔獣の関連だけ共有しろ』
「はい」
ルナはそこで、兄の背後から聞こえる音に気づいた。
警報。
車両。
遠くの爆発音。
「そちら、始まっていますか?」
『もうすぐ来る』
「兄様」
『分かってる。帰るよ』
「まだ何も言ってません」
『言う顔してる』
「通信なのに?」
『妹だから分かる』
ルナは小さく笑った。
「では、帰ってきてください」
『お前もな』
通信が切れる。
海面では魔獣たちが未確認物体の周囲を泳ぎ続けていた。
襲ってこない。
だが、安全とも言えない。
日本側要員は訓練通り、勝手に手を出さず観測を続けている。
ルナはそれを見て、ほんの少し安心した。
最初の実地任務で必要なのは、英雄になることではない。
生きて戻り、今日見たものを明日の知識へ変えることだった。
◇
夜。
沿岸都市から海を見れば、水平線全体が戦場になったように見えた。
住民の第四避難車列が西へ出る。
EINHERJARが最後尾を支え、WOLF PACKは東側進入路を警戒する。
レイブンは海岸道路に立ち、夜空を見上げた。
複数の航空機が高空を通過する。
そのさらに遠くで魔力の閃光が走る。
「NoX!」
Hawkの声。
「東、海岸線!」
レイブンが視線を下げる。
暗い海の中に影があった。
一つではない。
小型船。
KRAKENの阻止線を抜けた一部だ。
「来たか」
《RAVEN》を構える。
アタック・シールドが反応した。
海上から向けられる複数の敵意。
今度は曖昧ではない。
「WOLF PACK、接敵」
Houndたちが配置につく。
しかしレイブンは前へ飛び出さなかった。
「住民の退路を優先。海岸へ張りつくな。敵が上がってきても、追うために線を崩すな」
「了解!」
反対側ではエリシアがEINHERJARを動かしている。
最後の避難車両が交差点を抜ける。
敵船が海岸へ近づく。
空ではSKY LANCERが戦い、沖ではKRAKENの砲火が続き、さらに後方の海ではルナと日本側支援部隊が未知の魔獣を前に航路を閉じている。
全てが同じ夜に起きていた。
レイブンの指が《RAVEN》へ馴染む。
身体は不老不死となった。
だが、背後の住民は違う。
だから自分が死なないことには、ほとんど意味がない。
守るべきものまで死なないわけではないからだ。
エリシアがレイブンの横へ来た。
「最後の車列、あと二分」
「十分だ」
「本当に?」
「二分なら、二分の戦い方をする」
海上で光が走った。
敵側の魔法だった。
夜が一瞬だけ白くなる。
レイブンの〔不転〕が反射的な瞬きを抑え、視界を途切れさせない。
光の中で、最初の敵船が進路を変えた。
そのさらに後方で、別の光が海面へ落ちる。
KRAKEN側からではない。
上空からだった。
レイブンが目を細める。
雲を割って複数の機影が現れる。
「SKY LANCER?」
エリシアが空を見る。
敵船団の進路が乱れる。
だが、それだけではない。
沖合からも別の艦影が近づいていた。
KRAKENの別働艦隊。
海と空の双方から、抜けてきた敵を押し戻そうとしている。
レイブンは《RAVEN》の銃口を僅かに下げた。
「どうやら俺たちだけで二分稼ぐ必要はなさそうだ」
「残念?」
「まさか」
エリシアが笑う。
最後の避難車両が交差点を通過した。
Houndから報告が入る。
「NoX、帰還線確保!」
レイブンはその言葉を聞いた。
海。
空。
陸。
後方航路。
全てが繋がっている。
「了解」
彼は海岸線から一歩後ろへ下がった。
「WOLF PACK、EINHERJAR。住民避難完了。ここからは街を守る」
不老不死の黒猫は、自分が死なないから前へ出るのではなかった。
帰るべき者が帰ったことを確かめてから、ようやく敵へ向き直った。
その夜、連邦共和国東岸では海戦も空戦も終わらなかった。
それでも一つだけ、異界軍が切れなかったものがあった。
人々が再び故郷へ戻るための、帰還線だった。




