Season 6「門の彼方へ」 #113
第113話「海を開く者、空を守る者」
連邦共和国の地図から異界軍による大規模占領地域が消えた翌朝も、東部沿岸の水平線では砲火が途切れなかった。
地上戦だけを見れば、第二次異界大戦は明確な転換点を越えている。ベルガから東へ延びた補給路は連邦共和国軍の管理下へ戻り、主要都市では行政機能の再建が始まり、避難していた住民の一部も故郷へ戻る準備を進めていた。
しかし、沿岸地域だけは違った。
沖合では夜明け前から低い雷鳴のような音が響き、曇天の向こうでは時折、朝焼けとは異なる白い閃光が雲を染めている。
海ではKRAKENが戦っていた。
空ではSKY LANCERが戦っていた。
そのさらに後方では、昨日まで異界環境への基礎訓練を受けていた日本側の派遣要員たちが、初めて実際の海へ出ようとしていた。
「改めて確認します」
港湾地区の臨時指揮所で、ルナ・S・クロウ〔夜〕は海図を前に日本側要員を見渡した。
窓の外には、損傷を免れた埠頭と仮設桟橋が並んでいる。STYXの舟艇、その横には日本側が持ち込んだ掃海・海洋調査用装備が準備されていた。
「皆さんの任務区域は、この後方海域までです。沖で戦っているKRAKENへ合流する必要はありません。敵艦隊や大型海洋魔獣を発見した場合も、自分たちで処理しようとせず、位置と状況を共有してください」
日本側の指揮担当者が頷いた。
「我々の仕事は航路を開くことであって、海戦に参加することではない、と」
「はい」
「了解しました」
ルナは海図へ指を置いた。
「ただし、こちらの海では機雷に似た反応を示す魔導物や、逆に人工物に見える海洋生物もいます。判別できないものを見つけた場合は、分からないまま報告してください。無理に分類する必要はありません」
少し離れた壁際にいたレイブン・S・クロウ〔無名〕が腕を組んだ。
「分からないって報告は、悪い報告じゃないからな」
何人かが彼を見る。
「一番困るのは、分からないものを知ってるつもりで扱うことだ。俺も向こうの世界でそれを嫌というほどやらされた」
異界での失踪について詳しい内容はまだ限定的にしか共有されていない。
それでも、レイブンとルナが未知の世界へ飛ばされ、生還したという事実は知られている。
レイブンは海図を見ながら続けた。
「こっちの海は、教本通りに動いてくれるとは限らない。だから教本を捨てろって意味じゃない。教本から外れた瞬間を見逃すなってことだ」
ルナが兄を見る。
「珍しく綺麗にまとまりましたね」
「珍しく?」
「いつも最後に余計な一言を足すので」
「今それを足したのはお前だろ」
張り詰めていた日本側要員の間に小さな笑いが生まれた。
ルナはそれを待ってから表情を戻した。
「出航後、STYXが先導します。異常を感じたら止まる。分からなければ戻る。それで構いません。海は逃げません」
「魔獣は追ってくるかもしれないけどな」
「兄様」
「悪かった」
◇
港を離れた船団が最初に遭遇した異常は、機雷ではなかった。
海面そのものだった。
岸から数キロも離れていない海域で、先頭を進んでいたSTYXの舟艇が速度を落とす。
操舵を担当するカイ・ロッテン〔Drake〕が前方を見ながら、ルナへ声を掛けた。
「Nyx、右前方。流れがおかしい」
「見えています」
風は沖から陸へ吹いている。
波も概ね同じ方向へ進んでいる。
それなのに、一部分だけ海面が円を描くように動いていた。
ルナは船縁から身を乗り出さず、観測結果と自分の感覚を重ねた。
「渦ではありません」
「下に何かいる?」
「その可能性はあります。でも、生物かどうかはまだ分かりません」
後続する日本側の船も停止する。
訓練で何度も繰り返した通りだった。
異常がある。
だから近づかない。
まず観測する。
しばらくして、日本側の観測員から報告が入った。
海底付近に複数の反応。
一定間隔で並んでいる。
自然物としては整いすぎている。
だが通常の機雷と断定できる情報もない。
「最初から教科書にないやつか」
Drakeが苦笑した。
「歓迎されてますね」
ルナは答えながら、後続船へ停止継続を指示した。
STYX側の魔導観測では、海底の反応から微弱な魔力が確認されている。
日本側の機器は物体として存在を捉えている。
二つの異なる観測方法が、同じ場所に何かがあることだけは一致して示していた。
「これが共同で来た意味ですね」
日本側の指揮担当者が通信越しに言った。
「こちらだけなら機雷と判断していたかもしれない」
「私たちだけなら、魔導装置だと思い込んだかもしれません」
ルナは海面を見つめる。
「両方疑いましょう」
その判断によって船団は進路を僅かに変更した。
最短距離を選ばない。
安全を確認できる範囲を少しずつ繋ぎ、後続船が通れる線を作る。
戦場で敵を突破する時とは、時間の流れ方がまるで違う。
それでもルナには、やっていることが同じに思えた。
帰るための水路を開く。
STYXを作った時から変わらない。
やがて、最初の安全航路を示す仮設標識が海図へ記された。
小さな一本の線だった。
しかし、その線が港から外海へ向かって初めて伸びた瞬間、日本側要員の一人が静かに息を吐いた。
「これで船が通れる」
ルナが首を横へ振る。
「まだです」
相手が彼女を見る。
「今日通れた、です。明日も安全かは確認し続けます」
海は変わる。
魔力も変わる。
異界軍が新たな障害物を置く可能性もある。
海洋魔獣が移動してくることもある。
航路は一度作れば終わりではない。
「なるほど」
日本側要員が頷く。
「道を作るより、道であり続けさせる方が難しい」
「はい」
ルナは少し笑った。
「それは、私たちも何度も思い知らされました」
◇
その頃、後方海域からさらに東へ離れた洋上では、穏やかな会話を許す余裕など残っていなかった。
独立海上作戦群《KRAKEN》の前方海域を、巨大な水柱が横切った。
数秒遅れて衝撃が艦隊へ届き、旗艦の艦橋窓が低く震える。
エリック・ヴァルナー〔Leviathan〕は手すりを掴みながら、更新され続ける戦況表示を見ていた。
「敵艦隊、南東へ展開を継続!」
「海洋魔獣二体、中央へ!」
「敵上陸船団、主力の後方から分離!」
報告が重なる。
エリックは敵艦隊そのものより、分離した船団を見た。
「やっぱり来たか」
敵の目的は海戦に勝つことではない。
海戦を利用して上陸船を通すことだ。
KRAKENが巨大魔獣と敵主力艦隊へ集中すれば、その隙間を小型船団が抜ける。
「中央は釣りだ」
参謀が彼を見る。
「魔獣を?」
「魔獣も艦隊もだ。俺たちに全部そっちを向かせたい」
海面の向こうで巨大な背が持ち上がる。
異界軍艦艇の間を進むその姿は、もはや野生生物というより移動する島に近かった。
しかし、巨大だから最優先とは限らない。
その巨体へ全艦が火力を向ければ、上陸船団が通る。
「沿岸へ近づけさせるな。主力は中央を拘束、別働は上陸船団を追う。ただし深追いするな」
「了解!」
KRAKENの艦列が変化する。
巨大魔獣を正面から圧倒するためではなく、その進路を制限しながら敵艦隊との距離を管理する。
海は広い。
だからこそ、全てを守ろうとすればどこかが薄くなる。
エリックは戦況図を見ながら、敵の次の一手を待った。
「LeviathanよりKRAKEN各艦。今日も連中は陸が欲しいらしい」
短い沈黙の後、彼は続けた。
「残念だったな。そこは昨日、持ち主が帰ってきたばかりだ」
艦橋の数人が笑った。
「追い返すぞ」
返答が艦隊から重なる。
その直後、海上に複数の閃光が走った。
砲撃の衝撃と魔力の光が荒天の海を染める。
巨大魔獣が水面を叩き、波が艦艇の船首を越えて砕ける。
KRAKENはその中へ進んでいった。
◇
さらに高い空では、アメリア・ローゼン〔Artemis〕が別の問題に直面していた。
「また数が増えたわね」
独立特殊作戦航空団《SKY LANCER》の早期警戒情報には、東側から接近する複数の反応が映っていた。
飛行魔獣。
敵航空部隊。
その後方には大型の魔力反応。
昨日までとは編成が違う。
「Artemis、敵先頭群が分散!」
「見えてる。追わないで」
戦闘機隊の一部が反応する。
「沿岸へ抜けます!」
「だから追わない。そっちは別隊が見る」
アメリアは広域情報を確認した。
敵はSKY LANCERの迎撃隊を引き離そうとしている。
小さな群れを複数方向へ走らせ、その間に本命を通す。
地上でも海でも繰り返されてきた戦い方だった。
敵も学んでいる。
こちらも学んでいる。
「電子戦機、中央の支援を継続。早期警戒は北側の高度変化を優先。迎撃隊は持ち場を崩さない」
その時、雲の上から敵性反応が急降下してきた。
「上!」
アメリアが機体を傾ける。
視界の端で魔力の光が走る。
追尾する術式が空間を裂きながら接近した。
機体周囲の電子・魔導妨害が強まり、敵の術式が揺らぐ。
アメリアはその瞬間に〔魔導重力偏向機動〕を作動させた。
機体が通常の旋回とは異なる鋭い姿勢変化へ入る。
身体へ圧力が掛かる。
魔導補助があっても搭乗員の肉体まで物理法則から解放されるわけではない。
呼吸を崩せば視野が狭まる。
機体側の魔力補助にも限界がある。
だから無駄には使えない。
アメリアは敵の軸線から外れたところで姿勢を戻した。
「Artemis、無事ですか!」
「無事。機体もまだ文句言ってない」
「まだ?」
「整備班には後で謝る」
通信に小さな笑いが混じる。
だが、その直後に早期警戒機から新しい報告が届いた。
「大型反応、雲上から降下開始!」
アメリアの表情が変わった。
「位置は?」
「KRAKEN直上!」
海と空の戦場が重なる。
「全隊へ。下の艦隊に客が行く」
アメリアは機首を向け直した。
「先に挨拶するわよ」
SKY LANCERの戦闘機群が動く。
その周囲では電子戦機が支援を続け、遠方の早期警戒機が敵影を追い、攻撃機は海上の上陸戦力へ向かう機会を待つ。
誰か一人が空を支配するのではない。
空域を維持する全ての役割が、互いを必要としていた。
◇
ベルガから東部沿岸へ移されたFJTFの前進指揮所では、レイブンとエリシアが海空双方の戦況を受け取っていた。
海図上ではKRAKENと異界軍艦隊が複雑に位置を変え、その上へ航空戦況が重ねられている。
さらに西側には、日本側とSTYXが確保し始めた後方航路が細く伸びていた。
「一枚の地図にすると、嫌になるな」
レイブンが言った。
「何が?」
エリシアが尋ねる。
「全部繋がってる」
「今さら?」
「地上だけ見てた頃より露骨だろ。海でKRAKENが崩れたら沿岸へ敵が来る。空でSKY LANCERが押されたらKRAKENが上から狙われる。後ろの航路が閉じたら、どっちも補給が苦しくなる」
エリシアは地図を見ながら頷いた。
「だからFENRIRだけで全部やろうとしない」
「ああ」
レイブンはその言葉を素直に受け入れた。
以前の自分なら、突破口があると知れば真っ先に飛び込んでいたかもしれない。
だが今は違う。
海にはLeviathanがいる。
空にはArtemisがいる。
水路にはNyxがいる。
自分がそこへ割り込めば強くなるとは限らない。
むしろ指揮系統を乱すことさえある。
不老不死となった身体は、その事実を何一つ変えてくれなかった。
「NoX」
通信担当が振り返る。
「Nyxから報告です。第一後方航路、暫定安全区間の設定に成功。日本側との共同観測も問題なし。ただし海底に未確認の魔導反応あり。迂回して継続調査とのこと」
「了解。無理に触らせるなって返して」
「すでにNyxから『触るな』と三回送られてます」
レイブンが黙った。
エリシアが横を見る。
「妹の方が早いわね」
「俺の出番が減ってない?」
「成長したのよ」
「ルナが?」
「あなた以外が」
「酷くない?」
エリシアは笑った。
その時、海図上の警告表示が変わった。
KRAKENの南側。
敵上陸船団の一部が主戦場から離れ、別の進路を取り始めている。
「これは……」
レイブンの表情から笑みが消えた。
進路の先には大規模な軍港はない。
重要な航空基地もない。
あるのは、数日前に住民の帰還が始まったばかりの沿岸都市だった。
「エリシア」
「見えてる」
敵は軍事拠点だけを狙っていない。
取り戻した土地へ人々が戻り始めたことを把握している。
そこを攻撃すれば、連邦共和国は再び避難を強いられる。
領土を奪えなくても、「帰れない土地」へ戻すことはできる。
レイブンは立ち上がった。
「WOLF PACKを出す」
エリシアも同時に動いた。
「EINHERJARも」
「沿岸へ?」
「敵が上陸してから戦うためじゃない」
彼女は避難経路を確認する。
「上陸されても住民を失わないために」
レイブンが頷いた。
海上の敵を沈めるのはKRAKENの仕事だ。
空から来る敵を止めるのはSKY LANCERの仕事だ。
それでも抜けてくるものがあれば、地上で受け止める者が必要になる。
戦場は役割によって繋がっている。
「Houndに集合を」
「もう動いています」
「早いな」
「あなたが立った時点で察したそうです」
「……俺、そんな分かりやすい?」
エリシアは答えなかった。
「エリシア?」
「行くわよ、NoX」
「そこ無視する?」
彼女はすでに歩き始めている。
レイブンも《RAVEN》を取り、後を追った。
◇
夕刻。
東部沿岸都市へ向かう車列の中で、レイブンは窓越しに海を見ていた。
水平線ではKRAKENの戦闘による閃光が続いている。
その上空には、肉眼では点にしか見えないSKY LANCERの機影が時折交差した。
さらに西側の海には、ルナたちが開き始めた安全航路がある。
前線へ向かう途中、通信へNyxの声が入った。
『兄様、聞こえますか』
「聞こえる」
『こちらは第一航路の確認を終えました。日本側も問題ありません』
「魔導反応は?」
『まだ正体不明です。だから触ってません』
「それでいい」
『兄様』
「何?」
『四回目です』
「何が?」
『触らないって説明するの』
車内のHoundが笑いを堪える。
レイブンは彼を睨んだ。
「安全確認だよ」
『はいはい。それより、そちらへ向かった船団の一部がこちらの観測範囲にも入りました。KRAKENが追っていますが、全部止められる保証はありません』
「分かってる」
『無茶しないでください』
「お前もな」
少し間が空いた。
『帰ってきてくださいね』
レイブンは海を見る。
その言葉は何度聞いても軽くならなかった。
「帰るよ」
通信が切れる。
隣に座っていたHoundが何も言わず前を見る。
レイブンもそれ以上話さなかった。
やがて沿岸都市の建物が見えてくる。
帰還したばかりの住民たちが、再び避難の準備を始めていた。
荷物を抱える老人。
子供の手を引く母親。
戻ってきた自宅を振り返る男。
誰も、また逃げたいわけではない。
それでも生きるために動く。
レイブンは車両を降りた。
潮の匂いに混じって、遠い砲煙の臭いが届く。
エリシアも隣へ降り立つ。
「せっかく帰ったのにね」
「ああ」
「守れる?」
レイブンは首を横へ振った。
「絶対とは言わない」
エリシアが彼を見る。
「でも、帰る場所を簡単に諦めさせるつもりもない」
遠い海で大きな光が上がった。
KRAKENの戦場。
直後、雲の中でも別の閃光が走る。
SKY LANCERの戦場。
そして陸では、WOLF PACKとEINHERJARが住民の間へ入っていく。
不老不死になった三人のうち、この場所にいるのは二人だけだった。
もう一人は海で道を開いている。
離れていても、三人がやっていることは同じだった。
敵を追うためではない。
人が戻ることを諦めなくて済むようにするためだった。
その頃、遥か沖合のKRAKEN旗艦で、エリック・ヴァルナー〔Leviathan〕は敵上陸船団の新しい進路を見つめていた。
「沿岸都市へ行かせるな」
同じ空の上では、アメリア・ローゼン〔Artemis〕が大型飛行魔獣群の進路変化を確認していた。
「地上部隊の頭上を取らせない」
海と空、それぞれの指揮官が別々の場所で命令を下す。
その後方ではルナとSTYX、日本から来た掃海支援要員が航路を少しずつ外海へ伸ばしている。
そして陸では、レイブンが《RAVEN》を背負ったまま避難する子供を抱き上げ、エリシアが住民の流れを止めないよう部隊を配置していた。
連邦共和国は領土を取り戻した。
だが、本当に取り戻さなければならないものは地図の線だけではない。
海を越えて船が帰ってくること。
空を見上げても逃げなくていいこと。
そして、一度戻った家から二度と追い出されないこと。
そのための戦いが、今度は陸と海と空を一つにして始まろうとしていた。




