Season 6「門の彼方へ」 #111
第111話「終わらない者たち」
異界から帰還した三人に対する医学的な観察は、ベルガでの戦闘が続いている間も終わらなかった。
レイブン・S・クロウ〔無名〕、エリシア・L・クロウ〔戦乙女〕、そしてルナ・S・クロウ〔夜〕。
三人とも任務へ復帰していたが、それは異常が解消されたからではない。
むしろ逆だった。
異常があまりにも安定してしまったため、医療班が三人を病床へ拘束し続ける医学的な理由を見失い始めていたのである。
最初に変化が明確になったのはレイブンだった。
異界で魔力に焼かれた左肩は完全に塞がり、皮膚には傷痕すら残らなかった。ベルガ以前に負っていた細かな古傷にも変化があり、長年残っていたはずの組織損傷が、少しずつ本来の状態へ戻り始めている。
次にルナ。
彼女の場合は傷そのものより、疲労と環境変化に対する身体の適応として現れた。異界で黒い川に触れ、未知の魔力環境に晒され、思念伝達へ何度も接触したにもかかわらず、帰還後に残るはずだった身体的負荷が異常な速度で消えていった。
そしてエリシア。
異界へ渡っていない彼女にまで、同じ現象が現れていた。
三人を別々の部屋へ移して検査しても変わらない。
魔導観測を切っても変わらない。
門の残留反応から遠ざけても変わらない。
数日が過ぎても、三人の身体はある一定の状態から先へ変化しようとしなかった。
ベルガ臨時医療区画で、フィーナ・アルベル〔Sage〕は机に並べられた記録を何度も読み返していた。
「もう一度言うけど、これは祝福だなんて呼べる結果じゃない」
診察室には三人が揃っていた。
レイブンは椅子へ深く座り、エリシアは腕を組んで壁際に立ち、ルナは検査結果の一部を眺めている。
「治るのに?」
レイブンが尋ねる。
「治るからよ」
Sageは即答した。
以前、レイブン自身が口にした言葉とほとんど同じだった。
「傷が塞がる。損傷した組織が戻る。身体状態が一定のところへ収束する。普通なら喜ぶでしょうね。でも、三人ともその現象が止まっていない」
ルナが顔を上げた。
「つまり?」
「今までなら『異常再生』としか言えなかった。でも今は違う」
Sageは三人の記録を重ねた。
「細胞の状態も、魔力循環も、身体年齢に関係する変化も、同じところで固定され始めてる」
レイブンの猫耳が僅かに動いた。
「固定?」
「少なくとも今の観測範囲ではね。身体が現在の状態を基準として維持しようとしてる。損傷すれば戻る。消耗しても時間をかけて戻る。そして――」
Sageはそこで一度黙った。
「老化方向への変化が確認できない」
診察室が静かになった。
エリシアが腕を解いた。
「昨日まで、それは断定できないと言っていたわね」
「昨日までは」
「今日は?」
「同じ結果を何度繰り返しても覆らなかった」
Sageの声に喜びはなかった。
「ただし、何をされても死なないなんて意味じゃない。痛覚もある。疲労もする。意識も失う。身体が大きく損傷すれば、その間は戦闘不能になる可能性がある。再生に必要な時間も一定じゃない。未知の魔法や門の影響がどう作用するかも分からない」
「それでも老いない」
エリシアが言った。
「現時点では、そう考えるしかない」
「そして傷から戻る」
「ええ」
ルナが小さく息を吐いた。
「不老……不死」
誰も否定しなかった。
その言葉が初めて、三人の間で仮説ではなく現実を表すものとして落ちた。
レイブンは自分の手を見た。
黒い猫耳も、金と黒のオッドアイも、手の皺も爪も何も変わっていない。
だからこそ不気味だった。
怪物のような姿へ変わったのなら、まだ異常だと分かる。
今までと同じ身体のまま、その身体だけが時間の流れから外れ始めている。
「呪いみたいだな」
レイブンが呟いた。
ルナが兄を見る。
「嫌ですか?」
「分からない」
珍しく、答えがすぐに出なかった。
「戦場だけ考えれば便利だ。怪我から戻れる。老いないなら長く働ける。でも、それって結局、俺たちだけがずっと残るかもしれないってことだろ」
Houndも、Grizzlyも、Lynxも、Hawkも、Sageも、Cipherも。
父ヴァルターも母セレナも。
今は隣にいる仲間たちも。
同じ時間を生きる保証はない。
不老不死という言葉は、永遠に生きられるという響きより先に、永遠に見送るかもしれないという意味を三人へ突きつけていた。
エリシアがレイブンの隣へ歩いた。
「一人じゃない」
レイブンが顔を上げる。
「少なくとも、ここに三人いる」
ルナも頷いた。
「兄様だけだったら、本当に呪いだったかもしれません」
「俺だけだったら?」
「百年くらい経ったところで性格がさらに面倒になってそうです」
「そこ?」
「教官を百年やった兄様なんて、新兵からしたら災害ですよ」
エリシアが吹き出した。
Sageまで口元を押さえる。
「おい」
「冗談です」
「半分くらい本気だろ」
「三割です」
「減ったように聞こえない」
笑いは長く続かなかった。
それでも必要だった。
永遠という言葉を一度に理解することなど、誰にもできない。
ならば今日を生きるしかない。
Sageは記録を閉じた。
「三人とも経過観察は継続。再生するから負傷していい、なんて考えは禁止。むしろ未知の現象なんだから、今まで以上に慎重に扱う」
「了解」
今度はレイブンも素直に答えた。
「それと、NoX」
「まだある?」
「前線復帰は認める。ただし左肩を庇う癖が残ってる」
レイブンが肩を動かす。
「もう治ってるぞ」
「傷はね。身体が痛みを覚えてる」
レイブンは黙った。
傷が消えても経験まで消えるわけではない。
不老不死になったからといって、恐怖も記憶も失敗も消えてくれるわけではなかった。
◇
第二次異界大戦の戦線は、その頃、大きく形を変え始めていた。
ベルガを確保したことで連邦共和国東部へ続く補給路の一部が再び機能し、帝国・連邦・旧抵抗勢力による共同防衛線は、それまでの「崩壊を止める戦い」から「失われた地域へ戻る戦い」へと性格を変えていた。
それでも地図の色が一日で塗り替わることはない。
道路を取り戻しても橋が落ちている。
町を確保しても住民が戻れない。
河川には異界軍が残した障害物があり、沿岸や港湾部には安全を確認できない水域が広がっている。
WOLF PACKが突破口を作っても、その後を誰も通れなければ意味がない。
EINHERJARが住民を救出しても、帰還先がなければ避難生活は続く。
STYXが河川路を開いても、その先の港が使えなければ物資は滞る。
HOMECOMINGという名前の意味が、前線の兵士たちにもようやく実感として浸透し始めていた。
敵を後退させることと、人々が帰れる土地を取り戻すことは同じではない。
レイブンが前線へ戻った日、ベルガ東方では連邦軍部隊が十数年ぶりに旧防衛線の一角へ入っていた。
瓦礫の残る街道を歩く兵士の一人が、崩れた道路標識を手袋で拭う。
そこには連邦共和国東部の地名が残っていた。
「本当にここまで戻ったんだな……」
隣の兵士が答える。
「戻っただけだ。帰ったわけじゃない」
その言葉を、少し離れた場所にいたレイブンは聞いていた。
彼は何も言わなかった。
ただ、その違いだけはよく分かった。
自分も異界から戻った。
そしてエリシアの手を握った時、初めて帰ったのだと思えた。
だから、この土地にいる人々にも同じものが必要だった。
戦線は連邦共和国東部へ向けて押し戻されつつある。
だがFENRIRは速度だけを求めなかった。
敵が退いた地域ではDVERGRが道路や橋梁を確認し、BIFROSTが補給線を伸ばし、IDUNNが医療拠点を移す。河川部ではSTYXが水路の安全を確かめ、航空部隊は前線そのものより輸送路と避難路を広く見張っていた。
戦争は銃声が止んだ場所でも続いている。
むしろ、人を帰す仕事はそこから始まる。
そんな中、ベルガの仮設飛行場へ見慣れた識別信号が入った。
「帰ってきたぞ!」
整備員の声に、格納区画にいた兵士たちが空を見る。
西の空から輸送機群が接近していた。
日本側へ派遣されていたFENRIRの連絡・技術・災害支援要員だった。
第二次異界大戦の戦況悪化に伴い、派遣任務を段階的に終了し、本隊へ戻すことが決まっていたのである。
輸送機が着陸すると、タラップから見慣れた制服と装備が次々に降りてくる。
現地に残っていた兵士たちから歓声が上がった。
「お帰り!」
「日本の飯に慣れて腹壊してないだろうな!」
「こっちの飯を見てから言え!」
「帰還初日から文句か!」
久しぶりの再会に、乾いた笑いが広がった。
戦場から遠く離れた日本へ派遣されていた者たちにも、別の意味で緊張はあった。異なる制度、異なる言語、異なる軍事文化の中で共同作業を続け、門を挟んだ技術協力の基礎を作ってきた。
そして帰還した先では、戦況が彼らの記憶より東へ動いている。
レイブンは少し離れた場所から帰還部隊を見ていた。
Houndが隣へ来る。
「日本土産は?」
「第一声がそれ?」
「重要だろ」
「戦況報告より?」
「戦況報告は逃げない。土産はGrizzlyに見つかったら消える」
その背後から低い声がした。
「聞こえているぞ」
Houndの表情が固まる。
レイブンは笑った。
「不老不死になって最初に見る光景がこれってどうなんだろうな」
「安心しただろ?」
「まあな」
戦場が変わっても、こういう部分まで変わる必要はない。
その日の夕刻、帰還部隊を交えた状況共有会議がベルガのFJTF前進指揮所で開かれた。
帝国、連邦、FENRIRの担当者が集まり、日本派遣部隊からも報告が行われる。
協力関係に問題はない。
日本側の異界門管理も継続。
共同研究も維持。
ただし、第二次異界大戦が拡大している現状を踏まえ、FENRIR側の人員をこれ以上日本へ拘束しないという判断だった。
そこまでは、誰もが予想していた内容だった。
会議が終わろうとしたところで、Cipherが端末へ届いた新しい通信を見て眉を寄せた。
「……待ってください」
レイブンが振り向く。
「どうした?」
「日本側から正式連絡です」
「追加の研究要請?」
「違います」
Cipher自身も少し意外そうだった。
「派遣申請です」
室内の空気が変わった。
エリシアが身を起こす。
「日本から、こちらへ?」
「はい」
ルナも会議卓へ視線を向けた。
「目的は?」
Cipherが文面を確認する。
「後方支援」
「随分広い言葉だな」
レイブンが言う。
「具体的には?」
「連邦共和国東部および今後回復予定の沿岸・港湾地域で、安全な航路を回復するための支援です」
Cipherはそこで一度画面を見直した。
「主たる申請内容は、機雷その他の水中危険物に対する掃海・航路安全化支援」
ルナの猫耳が動いた。
STYXに直接関係する話だった。
「日本が掃海要員を?」
「戦闘参加ではないことを明記しています。あくまで後方海域と回復地域における航路啓開、人道輸送路の確保、港湾復旧支援。それにFENRIRとの共同調査」
レイブンは腕を組んだ。
「日本側へ派遣してた連中が帰ってきた直後に、日本からこっちへ来る申請か」
Houndが小声で言う。
「律儀だな」
「詫びじゃないだろ」
「分かってるよ。タイミングの話だ」
エリシアが申請内容へ目を通す。
「理にはかなってる。前線が東へ移れば、次に問題になるのは海と港よ。陸路だけで全ての補給を維持するのは難しい」
ルナも頷いた。
「河川から海へ繋げられれば、BIFROSTの輸送負担も分散できます。でも水中の安全が確認できないまま民間船を戻すのは危険です」
「STYXだけでできる?」
レイブンが尋ねた。
「河川なら。でも海域全体となると話が変わります」
ルナは地図を見る。
「私たちは戦闘中の水路確保や救出、河川輸送に強い。でも広い海域を継続的に調べて、安全な航路を維持する仕事は別です。専門の支援が来るなら助かります」
会議室の地図には、連邦共和国東部から海へ伸びる複数の港が表示されている。
かつて物流を支えていた港。
今は使えない港。
そして、その沖合に広がる未確認海域。
レイブンは地図を見ながら、父の言葉を思い出した。
敵を倒しただけでは、人は帰れない。
道がなければならない。
陸にも。
川にも。
海にも。
「条件は必要だな」
レイブンが言った。
「当然」
エリシアが続ける。
「日本側の指揮権は日本側に残す。FENRIRへの編入ではなく共同支援。戦闘前線へ押し出さない。任務海域も事前に区分する」
「異界軍と接触した場合の扱いも決めないといけません」
Cipherが補足する。
「通信規格と救難手順も」
ルナが言う。
「それから、こっちの海は日本の海と同じじゃありません。魔力反応を持つ水中物体や魔獣までいます。『機雷だけ探せばいい』という前提で来てもらうと危険です」
レイブンは妹を見る。
「STYXから連絡要員を出せる?」
「出します。むしろ最初から一緒に動いた方がいいです」
「決まりだな」
正式な受け入れ決定には帝国、連邦、FJTF側での調整が必要になる。
それでも、会議室にいた者たちは、この申請が持つ意味を理解していた。
これまで門を越えて日本へ向かったのは、主に異界側の人間だった。
助けを求めるため。
技術を学ぶため。
災害へ協力するため。
今度は逆だった。
日本から、門のこちら側へ人が来ようとしている。
しかも戦うためではない。
船が通れる海を取り戻すために。
会議を終えて外へ出ると、夜のベルガには帰還したばかりの部隊の声が響いていた。
レイブンの隣にはエリシアがいる。
少し後ろからルナも出てきた。
三人の身体は、もう以前と同じではない。
医療班の観測結果が正しいなら、彼らは老いない。
傷ついても、時間とともに戻っていく。
それを祝福と呼ぶには、これから失うものの数をまだ知らなさすぎた。
「ねえ、レイブン」
エリシアが歩きながら言った。
「何?」
「さっきの会議で、自分が何年現役でいるつもりか考えた?」
「考えてない」
「嘘」
「……ちょっとだけ」
ルナが後ろから口を挟む。
「兄様の場合、軍が先に『そろそろ退役してください』って頼むかもしれませんよ」
「そんな教官いる?」
「百年以上同じ顔で新兵を怒鳴っていたら、かなり怖いです」
「俺、そんなに怒鳴ってる?」
二人が黙った。
「おい」
エリシアが笑う。
「その頃になっても三人一緒なら、私は構わないけど」
レイブンは足を止めた。
ルナも止まる。
何十年先なのか。
百年先なのか。
それとも本当に終わりがないのか。
誰にも分からない。
ただ一つだけ、三人とも同じ異常の中にいる。
レイブンは二人を見た。
「だったら決めとくか」
「何を?」
「長く生きることになっても、死なないことを理由に前へ出ない」
エリシアの表情が静かに変わった。
「続けて」
「俺たちは治る。でも後ろにいる奴はそうじゃないかもしれない。だから、自分たちだけが無茶できる戦い方はしない」
ルナが頷く。
「不老不死を、他の人を置いていく理由にはしない」
「ああ」
「それともう一つ」
エリシアが言った。
「帰ること」
レイブンは笑った。
「そこは変わらないな」
三人は再び歩き出した。
その横を、日本から帰還したFENRIR要員たちが通っていく。久しぶりに会う仲間へ手を振る者もいれば、日本で覚えた言葉を妙な発音で披露して笑われている者もいた。
数日もすれば彼らも再び任務へ戻る。
そして調整がまとまれば、今度は日本側の人員が門を越えてくることになる。
レイブンは東の暗い空を見た。
その先では連邦共和国の領土が少しずつ取り戻されている。
さらに先には海がある。
人が帰るためには、まだ開かなければならない道がいくつも残っていた。
自分たち三人に与えられた時間が、本当に終わらないのだとしても。
やることまで終わらないのなら、それは不思議と納得できた。
ルナが兄の横へ並ぶ。
「兄様」
「ん?」
「日本から来る人たち、最初に海を見たら驚くでしょうね」
「魔獣が出なきゃいいけどな」
「そういうことを言うと出ますよ」
エリシアがため息をつく。
「レイブン」
「俺のせい?」
「出たら責任取って」
「不老不死の使い方、それで合ってる?」
「全然」
三人の笑い声が、戦争の続く夜へ溶けていった。
終わらない身体を得ても、彼らが守ろうとしているものは変わらない。
戦場へ行くための道ではなく、生きた者が帰ってこられる道を残すことだった。




