Season 6「門の彼方へ」 #110
第110話「帰還者」
空に残った亀裂が閉じても、ルナの中から「帰りたい」という感覚は消えなかった。
声ではない。耳で聞いたものでもない。それでも以前ベルガの分析室で触れたものと同じ意思だと、彼女には分かった。
レイブン・S・クロウ〔無名〕は妹の隣で紫色の空を見上げながら、膝元に置いたISG-42A3《RAVEN》へ手を伸ばした。
「同じだったんだな」
「はい。ベルガで聞こえたものと同じです。でも今度は、あの亀裂の向こうから直接届いた感じがしました」
「向こう側の景色は覚えてる?」
「暗い空と、崩れた石造建築。それから人影が一人。顔までは見えませんでした」
レイブンは頷いた。
情報は少ない。
だから埋めない。
分からない部分を推測で塗り潰せば、帰路を探す時にその推測へ引きずられる。
紫色の筋が走る石片は、地面でまだ弱く明滅していた。
エルネと名乗ったらしい外套の人物が残していったものだ。
ルナが近づこうとすると、レイブンが手を上げた。
「触らない」
「分かっています」
「ならいい」
「兄様こそ興味津々でしょう?」
「否定はしない」
兄妹が石片を見ている間にも、黒い川の向こうから鐘が続いていた。
アーシェたちの反応を見る限り、日常的な合図ではない。住民は避難所の奥へ入り、入口には弓や杖を持った者が集まっている。
先ほどまで兄妹を追っていた武装集団の気配も、いつの間にか遠ざかっていた。
彼らまで空の異変を警戒している。
それがレイブンには気になった。
「俺たちを捕まえるより優先したい何かが起きてる」
「門でしょうか」
「可能性はある。でも、まだ門だと決めない」
「はい」
ルナが返事をした直後だった。
地面の石片が強く光った。
二人が同時に身構える。
今度は三度の明滅では終わらない。
紫色の筋が内部から白く染まり、光が地面へ細い線を伸ばした。線は石畳の亀裂を伝い、水路へ達すると、流れていた水そのものが淡く発光する。
「兄様、水が……!」
「見えてる。離れろ」
ルナが数歩下がる。
水路の光は流れに沿って下流へ進まず、逆に上流へ走っていった。
自然な水流ではない。
橋の下で見た二重の流れとも違う。
光だけが水を道として利用している。
やがて避難所の周囲を巡っていた水路全体が発光し、紫色の空へ細い光柱が伸びた。
アーシェが何かを叫ぶ。
セイルが避難所から出てきた。
胸元の青白い石が同時に明滅している。
「リェン……!」
その声には明らかな動揺があった。
ルナの頭へ、激しい思念が流れ込んだ。
塔。
川。
空。
そして、開く。
「兄様、来ます!」
アタック・シールドは反応しない。
殺意ではない。
だがレイブンは《RAVEN》を掴んだ。
「全員、建物から離れ――」
言葉が途中で消えた。
音がなくなった。
風も、鐘も、住民の声も聞こえない。
レイブンには自分の心臓の鼓動さえ聞こえなかった。
世界が静止したのではない。
目の前ではアーシェの髪が風に揺れている。
ルナの口も動いている。
なのに音だけが切り離されていた。
次の瞬間、空間が歪んだ。
避難所の向こう側にあった森が縦へ引き伸ばされる。
黒い川が空へ持ち上がったように見える。
紫色の空と石造りの建物が重なり、その奥へ全く別の景色が現れた。
灰色の空。
泥に濁った川。
破壊された河岸。
そして見覚えのある車両。
レイブンの黒と金の瞳が見開かれた。
「――ベルガ」
音が戻った。
ルナも同じ景色を見ている。
「兄様! 向こうです!」
間違えようがなかった。
FENRIRの車両がある。
HUGINNの観測装備が河岸に並び、その周囲をDVERGRの人員が封鎖している。
そして門の正面には、銀白色の猫耳を持つ女性が立っていた。
「エリシア……!」
レイブンが呼んだ。
距離も空間も無視して、その声にエリシア・L・クロウ〔戦乙女〕が反応した。
彼女が顔を上げる。
視線が重なる。
今度は幻ではない。
「レイブン!」
エリシアの声が届いた。
続いて別の声が飛ぶ。
「NoX確認! Nyxもいる!」
Cipherだった。
その声を聞いた瞬間、レイブンの胸へ溜まっていたものが一気に押し寄せた。
WOLF PACKがいる。
FENRIRがいる。
帰る場所がある。
「ルナ」
「はい!」
「行くぞ!」
兄妹が動こうとした時、アーシェがレイブンの腕を掴んだ。
レイブンは振り返る。
彼女は門を見る。
兄妹を見る。
そして小さく頷いた。
セイルも壁に身体を預けながら片手を上げた。
言葉は最後まで理解できなかった。
それでも意味は分かった。
帰れ。
レイブンは《RAVEN》を背へ回し、胸へ手を当てた。
「ありがとう」
ルナも深く頭を下げる。
「必ず忘れません」
アーシェには通じない。
それでよかった。
兄妹は門へ走った。
空間の境界へ足を踏み入れた瞬間、レイブンの身体が激しく引かれた。
左肩の傷が焼ける。
視界が白く染まる。
隣でルナが手を伸ばした。
今度は離さない。
レイブンがその手を掴む。
紫色の世界が後方へ流れていく。
ベルガの河岸が近づく。
最後に聞こえたのは、黒い川の鐘だった。
次の瞬間、二人は泥の上へ投げ出された。
「レイブン!」
身体を起こすより早く、銀白色の影が飛び込んできた。
エリシアだった。
彼女は膝をつき、レイブンの外套を掴む。
確かめるように顔を見て、猫耳へ触れ、肩へ手を伸ばしかけて焦げた傷に気づき、そこで初めて怒ったような顔をした。
「……帰ってきた」
「ああ」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんじゃない」
声が震えていた。
レイブンは何か冗談を言おうとして、やめた。
代わりにエリシアの手を握る。
「帰ってきたよ」
エリシアが額を彼の胸へ押しつけた。
「馬鹿」
「それは認める」
「本当に馬鹿」
「二回言う?」
「何回でも言う」
少し離れたところでは、ルナがHoundに肩を叩かれ、その直後にSageから強引に医療班へ連れていかれようとしていた。
「歩けます!」
「歩ける患者が患者じゃないなら軍病院は半分閉鎖できるわ!」
「フィーナさん、兄様の方が怪我してます!」
「そっちも捕まえる!」
「聞こえたぞ!」
その声に、周囲から笑いが漏れた。
短い笑いだった。
誰も気を抜いてはいない。
門はまだ開いている。
HUGINNの観測班が計測を続け、DVERGRは河岸への接近を制限している。WOLF PACKとEINHERJARも周囲を警戒したままだった。
エリシアも数秒後には指揮官の顔へ戻った。
「Cipher、門の状態は?」
「縮小しています。安定とは言えません。二人が通過した直後から波形が崩れ始めました」
「追跡は?」
「しません」
レイブンが先に答えた。
エリシアが彼を見る。
「向こうには人がいる。集落もある。門を知ってるらしい連中もいる。でも、今から追跡隊を入れるだけの情報はない」
「同意する」
エリシアは即座に頷いた。
「記録を優先。人員は通さない」
Cipherが返答した直後、門の向こうに紫色の空が最後に一度だけ見えた。
黒い川。
遠くの森。
そこに浮かぶ青白い光。
そして門は閉じた。
河岸へ静寂が落ちる。
レイブンはしばらく何も言わなかった。
帰ってきた。
だが向こうには、アーシェもセイルもいる。
エルネもいる。
そして「帰りたい」と訴えていた、まだ名前すら知らない誰かが残っている。
「NoX」
Sageの声で現実へ戻された。
「座って」
「はい」
「素直なのが逆に怖いんだけど」
「俺だって成長する」
「肩を見せて」
「そこは聞かないんだな」
「見せて」
「はい」
外套を外され、焦げた服が切り開かれる。
Sageの手が止まった。
「……レイブン」
「何?」
「ここ、いつ負傷した?」
「向こうで。帰る少し前」
「どれくらい前?」
レイブンはルナを見る。
「一時間……経ってないよな?」
「そんなには経っていないと思います」
Sageの表情が変わった。
傷は残っている。
しかし、魔力に焼かれた直後の損傷としては明らかにおかしい。
出血はほぼ止まり、皮膚の縁ではすでに再生が始まっていた。
「またか」
Cipherが呟いた。
ベルガで確認されていた異常な回復。
今回は、それより速い。
レイブン自身も傷を見た。
「……俺、こんなに治ってた?」
「向こうではもっと酷かったです」
ルナが答える。
Sageはすぐに結論を出さなかった。
「医療班へ。二人とも精密検査」
「ルナは怪我してないぞ」
「二人とも」
「はい」
今度はエリシアが答えた。
レイブンが振り返る。
「エリシア?」
「私も行く」
「何で?」
「門が開いた瞬間、私にも同じ反応があったから」
レイブンの表情が変わった。
「胸の熱?」
「それだけじゃない」
エリシアは右手を見せた。
掌には細い切り傷があった。
門の観測機材を移動させた際、破損した金具で切ったものだという。
「さっきまで出血してた」
今はもう血が出ていない。
傷口が閉じ始めている。
ルナが自分の手を見る。
異界で石壁に擦った指先の傷があったはずだった。
ない。
三人の間から冗談が消えた。
数時間後、ベルガの臨時医療区画には、同じ結果を前にした三人がいた。
検査は繰り返された。
医療班は傷の経過を確認し、魔力反応を測り、過去の記録と比較した。
それでも最初から「不老不死」という言葉を使う者はいなかった。
異常な再生能力。
門との相関。
三人に共通する身体反応。
確認できるのは、そこまでだった。
レイブンは診察台へ座りながら、左肩を動かした。
数時間前まで焼けるように痛んでいた傷は、すでに薄い痕を残すだけになっている。
「気味悪いな」
隣の椅子に座っていたルナが兄を見る。
「治るのに?」
「治るからだよ」
レイブンは肩へ触れた。
「治療したから治ったんじゃない。何で治ってるか分からないまま治ってる」
エリシアも黙って自分の掌を見ていた。
切り傷は消えている。
Sageが記録端末を閉じた。
「ここから先は推測になる。だから、今確認できていることだけ話す」
三人が彼女を見る。
「レイブンの再生速度は、以前ベルガで記録した値をさらに上回ってる。ルナにも同系統の変化が確認された。エリシアも程度の差はあるけど同じ。少なくとも、普通の亜人の治癒速度では説明できない」
「門を通ったから?」
ルナが尋ねる。
「分からない。レイブンとルナは向こうへ渡った。でもエリシアは渡っていない。それなのに三人とも変化してる」
エリシアが静かに口を開いた。
「私たち三人に以前からあった反応が、今回の門で変化した可能性は?」
「否定できない。でも証明もできない」
Sageはそこで言葉を切った。
「それと、もう一つ」
医療班が保存していた過去の身体記録が表示される。
三人の細胞状態、魔力反応、代謝指標。
現在の値。
短期間の比較だけでは、本来なら年齢変化など評価できない。
しかし異常なのは別の部分だった。
損傷した組織が、単に塞がっているのではない。
損傷前の状態へ戻ろうとするような再生傾向を示している。
「これが何年続くかは分からない」
Sageの声は慎重だった。
「だから私は、あなたたちが老化しないとも、死なないとも断定しない」
レイブンが頷く。
「当然だな」
「でも?」
ルナが兄を見る。
レイブンは自分の手を握った。
「俺たち三人に同じ方向の異常が起きてる。それだけは間違いない」
「はい」
ルナも自分の指先を見る。
エリシアは二人を見てから、静かに息を吐いた。
「もし、この先も身体が戻り続けるなら」
彼女は言葉を選んだ。
「私たちは、普通とは違う時間を生きることになるかもしれない」
誰もすぐには答えなかった。
不老不死。
その言葉が頭に浮かんでも、レイブンは口にすることをためらった。
銃で撃たれれば痛い。
魔力に焼かれれば傷つく。
疲れれば身体は重くなる。
意識を失うこともある。
傷が治るという事実と、戦場で倒れないということは同じではない。
「試すのは禁止だからね」
Sageが先回りした。
レイブンが眉を上げる。
「何を?」
「『どこまで治るか試してみよう』とか考えたでしょう」
「考えてない」
「兄様」
「……ちょっとしか」
「レイブン」
エリシアまで低い声になる。
「分かった。やらない」
「絶対に?」
「絶対に」
三人の返事を確認して、Sageはようやく肩の力を抜いた。
その夜、ベルガの仮設施設の屋上に三人は並んでいた。
戦場の灯りが遠くに見える。
第二次異界大戦は終わっていない。
HOMECOMINGも止まっていない。
兄妹が帰ってきたからといって、失われた土地が戻るわけではない。
レイブンは手すりへ腕を置いた。
「向こうでさ」
エリシアが彼を見る。
「うん」
「最後に手が離れた時のこと、何度も思い出した」
エリシアは黙っている。
「帰れなかったらどうするかも考えた。でも、結局答えは同じだった」
「帰る?」
「ああ」
エリシアの手が伸びる。
今度はレイブンが先に握った。
ルナが二人の横から空を見る。
「私も、帰れるか分からない時に父様の言葉を思い出しました」
「生きて帰れ、か」
「はい」
レイブンが笑う。
「親父、こういう時だけ便利だな」
「本人に言ったら訓練が増えますよ」
「黙っとこう」
エリシアが小さく笑った。
その笑いが消えた後、彼女は繋いだ手を見た。
「レイブン」
「ん?」
「もし本当に私たちが老いなくなっていたら、どうする?」
レイブンはすぐには答えなかった。
戦場の向こうを見た。
帰る場所を失った人々がいる。
門の向こうにも、「帰りたい」と願う誰かがいる。
そして自分たちには、まだ理由さえ分からない時間が与えられようとしている。
「今までと同じじゃないかな」
「同じ?」
「行く。助ける。帰る」
レイブンはエリシアの手を握ったまま、隣のルナを見る。
「ただ、三人とも妙に長生きするなら、その回数が増えるだけだ」
「兄様らしいです」
「嫌?」
ルナは首を横へ振った。
「いいえ。でも一つ追加してください」
「何?」
「一人で行かない」
エリシアも頷いた。
「それは追加じゃなくて最優先」
「二対一は卑怯じゃない?」
「公平に戦うとは言ってません」
ルナの返答に、レイブンはどこかで聞いた台詞だと思いながら笑った。
エリシアも笑う。
それでも三人の身体に起きた変化の正体は、まだ分からない。
何年続くのかも、どこまで傷から戻れるのかも分からない。
ただ、門を巡る一連の異変を経て、三人の身体が同じ方向へ変化し始めたことだけは、もう偶然として片づけられなかった。
レイブンは夜空を見上げた。
紫色ではない。
見慣れた空だった。
その下でエリシアの手の温度を感じ、隣ではルナの白い猫耳が風に揺れている。
「帰ってきたな」
「はい」
ルナが答える。
エリシアは繋いだ手を離さなかった。
「おかえり、二人とも」
レイブンは彼女を見る。
「ただいま」
ルナも微笑んだ。
「ただいま、エリシア姉様」
戦場の夜は続いていた。
三人もまた、その中にいた。
傷つかなくなったわけではない。痛みを失ったわけでもない。
それでも身体の奥では、これまでとは異なる何かが静かに動き続けていた。




