Season 6「門の彼方へ」 #109
第109話「空に残る傷」
紫色の雲を裂いた光は、一秒にも満たないうちに消えた。
それでも、その場にいた全員が空を見上げていた。
レイブン・S・クロウ〔無名〕は、細い亀裂が消えた場所から目を離さなかった。ベルガ北東の河岸で見た門とは規模が違う。あの時のように向こう側の景色が見えたわけでも、身体を引き寄せる感覚が戻ったわけでもない。
ただ、色だけは似ていた。
紫の空には不自然なほど白い残光がしばらく残り、やがて周囲の雲へ溶け込んでいった。
「ルナ」
「はい」
「今の、感じたか?」
隣に立つルナ・S・クロウ〔夜〕は、すぐには答えなかった。
白い猫耳を立て、胸元へ手を当てている。
「門が開いた時とは違います。引っ張られる感じもありません。でも……遠くで何かが動いたような感覚はありました」
「距離は?」
「分かりません。近いとも遠いとも言えないです」
「なら決めつけない方がいいな」
「はい」
森の縁に立つ外套の人物も、同じ場所を見上げていた。
その周囲を漂う青白い光は、先ほどまでの穏やかな明滅を失っている。短く強く光ったかと思えば、次にはほとんど消えそうなほど暗くなる。
人物が片手を上げた。
青白い光が集まり、空中に一本の線を描く。
線は途中で分岐し、その一方が黒い川を示し、もう一方が先ほど思念の像で見せられた石造りの都市へ伸びていった。
さらにその先に、塔を示す細長い光が浮かぶ。
「地図……でしょうか」
「かなり大雑把だけどな」
レイブンはその場から動かず観察した。
塔の上には小さな輪が作られている。
外套の人物は輪を指した後、空に残る亀裂の位置を示した。
次に両手を重ねる。
そして離す。
「開く?」
ルナが呟く。
人物は再び同じ動作をした。
今度は両手を離した後、片方を別の方向へ動かした。
レイブンが眉を寄せる。
「門を開くというより……繋ぐ?」
「二つの場所を?」
「そう見える」
ルナは目を閉じた。
外套の人物の周囲に漂う光から、弱い思念が届いてくる。
石の塔。
紫色の空。
黒い川。
いくつもの土地。
その間を一瞬だけ繋ぐ、細い光。
しかし、そこへ別の像が重なった。
崩れる石壁。
逃げる人々。
空間の向こうから現れる武装した者たち。
そして閉じなくなった亀裂。
「……危険」
ルナが目を開けた。
「たぶん、あの人は門が安全だと言っているんじゃありません」
「俺もそう思う」
レイブンは空を見る。
「むしろ逆だろうな」
門を知っている。
だから使える。
そんな単純な話ではない。
ベルガで兄妹を呑み込んだ現象を思い出せば、なおさらだった。
レイブンは無意識に左手を握った。
最後に触れていたエリシアの手。
指先が離れた瞬間。
名前を呼ぶ声。
あの感触だけは、こちらへ来てからも鮮明に残っている。
「兄様?」
「……何でもない」
「エリシア姉様のことですか」
「お前、そういう時だけ妙に鋭いな」
「兄様の妹を何年やってると思ってるんです?」
「年齢の話をすると怒るだろ」
「兄様から先に数えますよ」
「やめよう。今は非常に重要な話をしてる」
ルナの口元が僅かに緩んだ。
外套の人物が二人のやり取りを見て首を傾げている。
レイブンは軽く咳払いした。
「……たぶん今ので威厳が死んだ」
「最初からそんなにありませんよ」
「帰ったら覚えてろ」
「帰れたら、じゃなくて?」
レイブンが妹を見る。
ルナは笑っていなかった。
黒と金の瞳が細くなる。
「ああ」
答えに迷いはなかった。
「帰ったらだ」
ルナはそれ以上何も言わず、静かに頷いた。
背後の避難所では、アーシェたちが負傷者を中へ運び終えようとしていた。
セイルも入口近くへ腰を下ろしている。
レイブンはそれを確認すると、《RAVEN》を背へ回した。
「まず休む。肩も見る。弾も数える。ここから塔へ行くとしても、それからだ」
「賛成です」
外套の人物へ向き直り、レイブンは避難所を指した。
次に自分の肩を示し、座る仕草をする。
外套の人物は少し考えた後、頷いた。
そして自分も避難所へ近づこうとした。
その瞬間だった。
アーシェが鋭い声を上げた。
住民たちが一斉に身構える。
弓を持つ者は矢をつがえ、杖を持つ者は入口へ並んだ。
外套の人物が足を止める。
「……歓迎されてないな」
「知り合いではあるみたいです」
「友好的な方じゃない知り合いか」
レイブンは双方の間へ入らなかった。
事情を知らない。
先ほど自分たちを助けたように見えるからといって、外套の人物を味方と決める理由にはならない。
同じように、アーシェたちの恐怖だけで相手を敵と決めることもできない。
外套の人物がゆっくり両手を広げた。
武器を持っていないことを示す。
アーシェが何かを叫ぶ。
返事が返る。
初めて、二人の言葉が同じものだとレイブンにも分かった。
「会話は通じてる」
「でもアーシェは怒ってます」
「かなりな」
アーシェが森を指した。
次に空。
そして避難所にいる子供たち。
外套の人物は黙って聞いている。
反論するように何かを言った後、塔の方向を指した。
アーシェが首を振る。
話は平行線だった。
そこでセイルが立ち上がろうとした。
「おい、無理するな」
レイブンが支える。
セイルは痛みに顔を歪めながらも、二人の間へ声を掛けた。
アーシェが振り返る。
外套の人物もセイルを見る。
短いやり取りの後、外套の人物の視線がレイブンへ向いた。
そして《RAVEN》を見る。
「俺?」
人物が頷く。
次に塔を指す。
レイブンを指す。
ルナを指す。
そして門を描く。
「塔へ一緒に来いってことか」
「そう見えます」
アーシェが激しく首を振った。
彼女はレイブンの腕を掴み、森の別方向を指す。
そこから川へ戻る仕草をした後、両手を合わせて眠るような動作をする。
「アーシェは残れって?」
「少なくとも今すぐ塔へ行くことには反対みたいですね」
レイブンは二人を見る。
塔へ行けば、門の情報が得られる可能性がある。
だがそれは外套の人物が見せた像から推測しただけだ。
アーシェが反対する理由も分からない。
しかも自分は負傷している。
ルナには本来のSTYX装備がない。
食料も弾薬も有限。
夜の森の地形すら知らない。
「行かない」
レイブンは即答した。
外套の人物には言葉が通じない。
だから首を横へ振り、避難所を指す。
次に空を指し、両腕を交差させた。
「夜は動かない」
外套の人物がじっと彼を見る。
レイブンも視線を逸らさない。
しばらくして、相手は腕を下ろした。
拒絶されたからといって怒る様子はない。
代わりに腰の袋から小さな石片を取り出した。
青白い石とは違う。
半透明で、内部に紫色の筋が走っている。
それを地面へ置き、一歩下がる。
「何だ?」
ルナが近づこうとした。
「待て」
レイブンが止める。
「置いた本人が下がった。まず見る」
「はい」
外套の人物が石片を指す。
次に塔を示す。
最後に空の亀裂を指した。
それだけを残し、森へ向かって後退していく。
青白い光も一つずつ彼の後を追った。
「帰るの?」
ルナが呟く。
人物は森へ入る直前、一度だけ振り返った。
そして胸へ手を当てた。
「名前……?」
ルナも胸へ手を置く。
「ルナ」
レイブンも続けた。
「レイブン」
外套の人物が何かを発音した。
二人には聞き取れなかった。
もう一度。
今度は少しゆっくりだった。
「……エル、ネ?」
ルナが首を傾げる。
人物は僅かに頷いたように見えた。
「エルネ……でいいのかな」
「仮にそう呼ぶしかないな」
レイブンは名前らしき音を頭に残した。
外套の人物――エルネは、そのまま森の中へ消えていった。
青白い光も見えなくなる。
後には紫色の筋を持つ石片だけが残された。
アーシェはそれを見て険しい表情をしていた。
触れようとはしない。
「ますます怪しいな」
「兄様、楽しそうに見えます」
「全然」
「耳が前向いてます」
「これは警戒してるんだ」
「子供の頃から興味ある時もそうでしたよ」
「妹って面倒くさいな」
「今さらです」
レイブンは石片から十分な距離を保ったまま腰を下ろした。
ようやく左肩の痛みへ意識を向ける。
ルナがすぐ隣へ座った。
「見せてください」
「はいはい」
「返事は一回です」
「母さんみたいになってきたな……」
「聞こえてますよ」
外套をずらすと、肩には赤黒い傷が残っていた。
ルナの表情が曇る。
「これで大丈夫って言いました?」
「歩けるとは言った」
「兄様」
「悪かった」
携行していた最低限の医療品を取り出し、ルナが傷を確認する。
FENRIRのIDUNNもSageもいない以上、無駄遣いはできない。
レイブンは処置を受けながら《RAVEN》を膝の近くへ置き、弾薬の残りを確かめた。
撃った分だけ確実に減っている。
当然のことなのに、この世界では一発の重さが違った。
「補給なし、通信なし、帰還地点なし。最高だな」
「それ、こちらの世界でも通じるブラックジョークなんでしょうか」
「セイルには笑われないと思う」
「私にもあまり受けてません」
「厳しい客だ」
ルナが包帯を整えた。
「でも兄様」
「ん?」
「一つだけ増えました」
「何が?」
「手掛かりです」
彼女は地面に置かれた紫色の石片を見る。
その向こうには塔がある。
塔には門と何らかの関係があるらしい。
そして、この世界には門を知る者がいる。
「そうだな」
レイブンは空を見上げた。
紫の亀裂はもう見えない。
それでも一度見た場所を忘れることはできなかった。
帰る道が消えたのではなく、今は見えていないだけだと思いたかった。
その時、避難所の外に置かれた石片が淡く光った。
兄妹が同時にそちらを見る。
誰も触れていない。
紫色の筋だけが、脈を打つように明滅している。
ルナが立ち上がりかけたが、レイブンが手で制した。
光は三度明滅した。
その直後、遠くの空で細い亀裂が再び走った。
今度は一つではなかった。
二本。
三本。
互いに離れた場所で、紫色の空が短く裂ける。
避難所の住民たちがざわめいた。
アーシェが外へ飛び出し、空を見て顔色を変える。
セイルも何かを叫んだ。
そして黒い川の向こうから、あの低い鐘が続けて鳴り始めた。
レイブンは立ち上がった。
傷ついた肩が痛む。
それでも目は空から離れない。
「ルナ」
「はい」
「門は一つじゃないかもしれない」
ルナは答える前に、別のものへ気づいた。
亀裂の一つが消えない。
細かった光が、少しずつ縦へ広がっている。
「兄様……あれ」
「ああ」
光の向こうに何かが見えた。
ベルガではない。
帝国でも連邦共和国でもない。
暗い空。
崩れた巨大な石造建築。
その前を横切る、小さな人影。
そして一瞬だけ、こちらを向いた。
その姿が誰なのかまでは分からない。
だが次の瞬間、ルナの頭へ強い感覚が流れ込んだ。
以前、ベルガの分析室で聞いたものと同じだった。
声ではないのに、今度だけは言葉として理解できた。
――帰りたい。
ルナの白い猫耳が震えた。
「兄様」
レイブンも妹の表情を見て、何が起きたのかを察した。
「また聞こえたのか」
「はい」
ルナは消えかける亀裂を見つめた。
「前より、ずっと近いです」
光は閉じた。
黒い川から響く鐘だけが、紫色の夜の中に残った。




