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黒猫年代記  作者: @12
第二部 ~Ⅱ~ FENRIR ― 戦狼となった黒猫 ― Season 4 #067~
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107/189

Season 6「門の彼方へ」  #107

第107話「言葉のない会話」

 石造りの橋へ足を踏み出してからも、レイブン・S・クロウ〔無名(ノックス)〕はISG-42A3《RAVEN》から手を離さなかった。

 銃口は下げている。

 橋の向こうで長い杖を握る人物も、先ほどまで兄妹へ向けていた杖先を地面へ下ろしていたが、その手から警戒が消えたわけではない。互いに名前も所属も分からず、言葉さえ通じない以上、武器を捨てて友好を示すより、すぐには撃たないという態度を維持する方が自然だった。

 レイブンは負傷したセイルの身体を支え、ルナ・S・クロウ〔夜(ニュクス)〕はその反対側から歩調を合わせていた。

「兄様、少しゆっくりお願いします」

「橋?」

「それもありますけど、セイルさんの脚です。さっきより体重を掛けられなくなっています」

 レイブンが歩調を落とすと、セイルは二人の会話を理解できないまま、それでも気遣われていることだけは察したらしく、小さく頭を下げた。

 足元では黒く見える川が静かに流れている。

 近くで見ると完全な黒ではない。深い藍色の水面へ紫色の空が映り込み、夜の暗さが重なることで墨を流したように見えているらしい。それでもルナは何度も欄干越しに水面を確認していた。

 STYXを率いていた時と同じ目だった。

 知らない水域へ入った時、彼女はまず流れを見る。水面だけではなく、岸の形、橋脚に当たった水の戻り方、浮遊物の動き、風向きとの違いまで観察しながら、その場所が人を帰してくれる水なのか、それとも奪う水なのかを判断しようとする。

「何かある?」

「橋脚の周りだけ流れ方が違います。表面では下流へ流れているのに、底の方から押し返されている感じがします」

「さっき言ってた二重の流れか」

「たぶん。ただ……」

 ルナが足を止めた。

 橋脚の根元に淡い青白い光が見えている。

 石材の隙間に何かが埋め込まれていた。

「兄様、あれ」

「見えてる」

 魔導具なのか、この世界に自然に存在する鉱石なのかは判断できない。

 レイブンは近づこうとせず、視線だけを向けた。

 前を歩いていた杖の人物が振り返り、兄妹が橋脚を見ていることに気づくと、石を指した後で水面へ手を向け、ゆっくり円を描くような仕草をした。

「流れを作ってる?」

「その可能性はあります」

 セイルも胸元にある青白い石へ触れた。

「リェン」

 昨夜から何度か聞いている言葉だった。

「またリェンですね」

「石の名前かな」

「術そのものかもしれません」

 ルナが答えた直後、セイルの胸元から淡い光が広がった。

 音は聞こえない。

 それなのにルナは息を呑んだ。

「……来ました」

「思念?」

「はい。でも言葉じゃありません」

 彼女は目を閉じた。

 頭の中へ流れ込んでくるのは文章ではなく、橋脚を包む水の感覚と、青白い石へ流れ込む何かの像だった。橋が崩れるという警告ではない。水を押し分け、橋脚の周囲に渦が集中しないよう流れを整えているように感じられる。

「水……守る……橋……」

 ルナが言葉を探しながら呟いた。

「石が橋を守っているみたいです。水そのものを止めるんじゃなくて、流れを少し変えてる」

 杖の人物が驚いたように振り返った。

 セイルもルナを見つめている。

「俺には?」

 レイブンも意識を集中した。

 何も聞こえない。

 微かな違和感はあるものの、それが石から伝わったものなのか、自分が妹の反応を見てそう感じているだけなのか判別できなかった。

「……駄目だ。お前ほど分からない」

「私も全部分かっているわけではありません」

 ルナは胸元へ手を当てた。

「向こうが伝えようとしているものを、私の中で勝手に意味へ直している感じです」

「読心じゃない?」

「違うと思います。セイルさんが何を考えているかは分かりません。送られてきたものだけです」

 レイブンは頷いた。

 それなら、病院や門の異常で経験した不気味な感覚とも少し違う。

 誰かの心を覗いているのではなく、相手が形にした何かを受け取っている。

「便利だけど、勘違いしたら危ないな」

「はい。私が受け取った意味と、相手が送りたかった意味が同じとは限りません」

「だったら今は翻訳機扱いしない方がいい」

「賛成です」

 橋を渡り切ると、集落の全景が見えた。

 斜面に沿って石と木を組み合わせた家々が並び、その間を細い水路が走っている。屋根の形も窓の配置も帝国や連邦共和国とは違うが、軒先には乾燥させた植物が吊るされ、壁際には漁具らしい籠が置かれていた。

 見知らぬ世界であっても、人が暮らしている場所には生活の匂いがある。

 煮炊きされた食べ物の香りが漂い、濡れた衣服が軒下に並び、眠る時間を過ぎて起こされたらしい子供が母親の腕の中で目を擦っていた。

 その人々の視線が一斉に兄妹へ向けられた。

 レイブンの黒い猫耳が僅かに伏せる。

「……すごい見られてる」

「当然です」

「分かってるけどさ」

「兄様、黒い服で、見たこともない銃を持って、目の色まで左右で違いますから」

「お前だって白い猫耳だろ」

「私は武器を持ってません」

「それは強い」

 緊張を隠すための軽口だった。

 ルナにも分かっている。

 だから笑いすぎず、兄の横に立ったまま周囲を観察していた。

 杖を持つ人物が集落へ声を掛けると、住民の中から年配の女性が歩いてきた。灰色を帯びた長い髪を後ろで束ね、厚手の外套を羽織っている。

 女性は最初にセイルを見ると、傷めた脚へ視線を落とした。

 次にレイブン。

 そしてルナ。

 猫耳を見た時、僅かに目を見開いた。

 レイブンの黒と金の瞳へ視線が移ると、その反応はさらに強くなった。

「俺たちみたいなの、珍しいのかな」

「少なくとも何か思うところはありそうです」

 女性が近づいてくる。

 レイブンは動かなかった。

 彼女の手が黒い猫耳へ向かいかけた時だけ、耳が反射的に後ろへ倒れた。

 女性の手が止まる。

「……悪い」

 通じないと分かっていてもレイブンがそう言うと、女性は何となく察したらしく、代わりに自分の胸へ手を置いた。

「アーシェ」

 レイブンも同じ仕草を返した。

「レイブン」

 隣でルナが続ける。

「ルナ」

「レイ……ヴェン。ルナ」

 アーシェはゆっくりと繰り返した。

 今度は言葉として通じた。

 セイルが彼女へ何かを話し始める。川を指し、森を指し、自分の濡れた服を見せた後、レイブンの持つ《RAVEN》を示しながら手を大きく動かした。

「撃ったところ説明してるな」

「たぶん助けたところもです」

「悪く言われてなきゃいいけど」

 その心配は薄れた。

 話を聞き終えたアーシェが、レイブンとルナへ深く頭を下げたからだ。

 二人も頭を下げる。

 それを見ていた子供の一人が母親の陰から顔を出した。

 レイブンを見る。

 すぐ隠れる。

「……やっぱり怖がられてる」

「仕方ないですよ」

 今度は子供がルナを見る。

 白い猫耳が動くと、母親の服から手を離し、ゆっくり近づいてきた。

「おい」

「何ですか?」

「何でお前には来るんだよ」

「日頃の行いでしょうか」

「兄に対する日頃の行いを思い出してから言え」

 ルナがしゃがむと、子供は恐る恐る白い猫耳へ手を伸ばした。

 指先が触れた瞬間、耳がぴくりと動く。

 子供が目を丸くした。

 周囲の住民から小さな笑いが漏れた。

 その笑いが、集落に張りつめていた緊張をほんの少しだけ和らげた。

 レイブンも表情を緩める。

 すると子供が今度は彼を見た。

「来た」

「よかったですね」

 子供が近づいてくる。

 レイブンはしゃがんだ。

 しかし子供が触れたのは猫耳ではなかった。

 黒と金で色の違う瞳を間近から覗き込んだだけで、すぐ母親のところへ戻っていった。

「……耳じゃなかった」

「残念でしたね」

「別に触ってほしかったわけじゃない」

「そういうことにしておきます」

 アーシェが集落中央の建物を示した。

 レイブンは自分の銃を見た。

 このまま入れば警戒されるかもしれない。

 だから《RAVEN》を背へ回し、すぐに使用する意思がないことを示す。

 アーシェは銃を見てから頷いた。

 武器を預けろとは言わない。

 信頼されたのではないだろう。

 セイルを助けたという事実によって、ひとまず客人として扱うことを選んだだけだ。

 レイブンにはその距離感の方が安心できた。

 建物へ向かう途中、ルナが水路の前で足を緩めた。

 水路の側面にも青白い石が埋め込まれている。

 光が強まると流れが僅かに変わり、別の細い水路へ水が分かれていった。

「生活に使ってるんですね」

「門とか戦闘だけじゃないんだな」

「この世界では、こっちの方が普通なのかもしれません」

 魔法を見れば兵器を連想する。

 軍人としては自然な反応だった。

 しかし、この集落では同じ原理らしきものが水を分け、橋を守り、家々の生活を支えている。

 レイブンはそれをしばらく眺めた後、先を歩くアーシェを追った。

 案内された建物の中には暖かな空気が満ちていた。

 暖炉に似た設備の中では炎ではなく青白い石が光っている。石の周囲へ刻まれた模様がゆっくり明滅し、そのたびに室内へ柔らかな熱が広がっていた。

「ルナ」

「触りませんよ」

「まだ何も言ってない」

「顔に書いてあります」

 二人が座ると、食事が運ばれてきた。

 薄い色のスープと平たいパンに似た食べ物だった。

 レイブンとルナは同時に器を見る。

 そして同時に相手を見る。

「昨日、知らないもの食うなって言ったな」

「言いましたね」

「でも持ってきた食料だけじゃ長く持たない」

「それも事実です」

 二人の迷いを察したのか、アーシェは同じ鍋から自分の器へスープを注ぎ、先に口へ運んだ。

 レイブンは少量だけ口に含み、すぐには飲み込まず味と身体の反応を確かめた。

 強い植物の香りがある。

 塩気は薄い。

 少なくとも舌や喉に異常はない。

 少し時間を置いてからルナも口にする。

「……美味しいです」

「腹減ってるからじゃない?」

「兄様も同じ顔してますよ」

「否定はしない」

 温かいものが身体へ入ると、初めて自分がどれほど疲れていたのか分かった。

 しかし休息は長く続かなかった。

 アーシェがテーブルの中央へ青白い石を置いたからだ。

 セイルの胸元にあるものより大きい。

 表面には細かな紋様が走っている。

 彼女が両手を添えると光が広がった。

 ルナの耳が立つ。

「来ます」

 レイブンも意識を集中した。

 最初に感じたのは冷たい水だった。

 実際に触れているわけではない。

 それでも黒い川の感触が頭の中へ浮かぶ。

 続いて森が見えた。

 巨影。

 逃げる住民。

 恐怖。

 それらは夢のように曖昧でありながら、アーシェ自身の記憶を直接覗いている感覚とも違っていた。

 伝えたい部分だけが切り取られている。

「兄様にも?」

「ああ。さっきより分かる」

 アーシェが何かを話す。

 声の意味は理解できない。

 それでも石を通して届く像が、言葉の足りない部分を補っていた。

 森の巨影は一度だけ現れたものではない。

 川沿いの集落を何度も脅かしている。

 次に像が変わった。

 石造りの道を武装した者たちが進んでくる。

 彼らは集落へ入り、食料を運び出す。

 青白い石も持ち去る。

 若い住民の腕を掴み、家族から引き離す光景まで混じった。

 ルナの表情が硬くなった。

「これ……」

「まだ決めつけるな」

 レイブンは妹へ言った。

「見せられてるのはアーシェたちの側から見た情報だ」

「はい」

「でも、警戒する理由には十分だ」

 アーシェは兄妹のやり取りを理解できなくても、慎重に像を見ていることには気づいていた。

 次に示されたのは、武装した者たちが身につける紋章だった。

 レイブンの目が細くなる。

 第二次異界大戦で遭遇した異界軍のものと完全には一致しない。

 しかし魔導具の配置や装備の作り、部隊を示す印の使い方には似たところがある。

「ルナ」

「はい。私も似ていると思いました」

「同じ軍だとは限らない」

「でも無関係とも言い切れません」

 アーシェがさらに意識を集中させた。

 石の光が強くなる。

 紫色の空の下に巨大な構造物が浮かんだ。

 門だった。

 武装した集団がその前へ集まり、次々と光の向こうへ消えていく。

 レイブンの胸の奥が熱を持った。

 河岸で自分をこちらへ引き込んだ現象を思い出す。

「門を使ってる……」

 ルナも身を乗り出した。

「これが同じ仕組みなら、帰る手掛かりになるかもしれません」

「ああ。でも今すぐそこへ行くとは決めない」

「分かっています」

「場所も距離も、向こうに何人いるかも分からないからな」

 ルナが頷いた。

 アーシェが石から手を離そうとした、その時だった。

 光が一度だけ不自然に揺れた。

 アーシェ自身も驚いている。

 ルナが胸元を押さえた。

「……待って」

「どうした?」

「今、私が触ってないのに……」

 青白い石から、別の感覚が流れ込んできた。

 アーシェが送ったものではない。

 遠くにいる誰かが、同じ網へ触れたような感覚だった。

 位置を示す曖昧な像。

 集落。

 橋。

 そして――見知らぬ二人。

 黒い猫耳の男と、白い猫耳の少女。

 レイブンの表情が変わる。

「俺たちだ」

 アーシェが勢いよく石から手を離した。

 その直後、外で鐘が鳴った。

 巨影が現れた時とは違う。

 短い音が何度も続く。

 セイルが立ち上がろうとして、痛めた脚に顔を歪めた。

 アーシェは窓へ向かい、外を確認すると表情を硬くした。

「来たのか」

 レイブンも窓へ近づきすぎない位置から外を見る。

 森の中を複数の灯りが進んでいる。

 ばらばらではない。

 一定の間隔を保ち、互いの位置を把握しながら移動していた。

 人間の集団だった。

 やがて先頭が集落へ入る。

 十数人ほどの武装した者たちが姿を現した。

 アーシェが見せた像と同じ紋章が胸元にある。

 レイブンは《RAVEN》へ手を掛けたが、まだ構えなかった。

「ルナ」

「はい」

「見るぞ」

「先に撃たない」

「そういうこと」

 二人が外へ出ると、集落の住民たちも家々から姿を現していた。

 武装集団の中央にいる男が何かを叫ぶ。

 アーシェが前へ出て応じた。

 声は次第に強くなる。

 言葉は理解できなくても、交渉が穏やかではないことは分かった。

 やがて住民が食料の入った袋を運んできた。

 男が受け取る。

 別の住民が青白い石を差し出した。

 それも受け取った。

 レイブンは黙って見ている。

 税なのか、略奪なのか、約束された取引なのかは分からない。

 事情を知らないまま銃を持ち出すことはできない。

 ところが男はそれだけでは満足しなかった。

 住民を見回した後、一人の若い女性を指した。

 家族らしき者が前へ出る。

 兵士の一人が剣の柄へ手を掛けた。

 アーシェが間へ入ろうとする。

 男が彼女を突き飛ばした。

 レイブンの身体が僅かに前へ出た。

 それでも踏みとどまる。

「兄様」

「まだだ」

 男の視線がセイルへ向いた。

 そして、その隣にいる兄妹へ移る。

 黒猫。

 白猫。

 見慣れない軍装。

 そして銃。

 明らかに表情が変わった。

 男が部下へ何かを言った。

 その瞬間、ルナが小さく息を呑んだ。

「兄様」

「どうした?」

「来ました」

「思念?」

「弱いです。でも、あの人たち同士で何か送っています」

 兵士たちは声を出していない。

 それでも二人が現れた直後から、集団の動きが変わっていた。

 後方にいた一人が路地へ移り、別の者は橋側へ回る。弓を持つ者は何気ない動作を装いながら位置をずらし、杖を持つ者は住民よりもレイブンを見ていた。

「会話だけじゃないのか」

「たぶん、位置や警告も送っています」

 レイブンは自分たちが見た異界軍を思い出した。

 旗、光、伝令、魔法を組み合わせ、単一の通信手段へ依存しなかった敵。

 目の前の集団が同じ組織なのかは分からない。

 しかし少なくとも、この世界では声を使わず情報を共有する手段が実戦の中に存在している。

 男がレイブンへ近づいた。

 数歩手前で止まり、《RAVEN》を指す。

 手を出した。

「渡せ、かな」

「そう見えます」

 レイブンは首を横へ振った。

「これは渡せない」

 男がもう一度手を伸ばす。

 レイブンは動かない。

 その間にもアタック・シールドへ複数の敵意が混じり始めていた。

 正面の男だけではない。

 右側。

 さらに後方。

 レイブンは目を動かさず、身体に伝わる感覚を整理する。

 その時、警告が急激に鋭くなった。

「ルナ!」

 妹の肩を掴み、身体をずらす。

 矢が二人の間を通過し、背後の木壁へ突き刺さった。

 住民たちの悲鳴が上がった。

 レイブンは《RAVEN》を構えた。

 それでも撃たなかった。

 銃口が上がっただけで、正面にいた男の足が止まる。

 セイルが大声で何かを叫んだ。

 森でこの銃が巨影へ与えた衝撃を見ている彼の言葉に、何人かの兵士が反応した。

「ルナ、怪我は?」

「ありません」

「住民を下げられる?」

「やります」

「俺一人で全部受けるつもりはない。逃げ道を見つけたら俺も下がる」

 ルナが一瞬だけ兄を見る。

「ちゃんと言いましたね」

「何が?」

「自分も下がるって」

「今それ言う?」

「大事です」

 ルナはすぐアーシェのところへ走った。

 レイブンは前へ出ない。

 敵を追わず、集落の入口と住民の間に射線を置きながら、左右へ広がる兵士たちの動きを見る。

 相手もすぐには突っ込んでこない。

 こちらの武器を知らないからだ。

 だが、それは長く続かないだろう。

 一度撃てば音も威力も知られる。

 二度撃てば次の行動を読まれる。

 何度も戦えば、相手はこちらの弱点まで学ぶ。

 それは元の世界でも同じだった。

 背後で青白い光が強くなった。

 ルナがアーシェとともに石へ触れている。

 言葉を送ろうとはしていない。

 集落の中を走る水路と、住民がそこへ向かう像を意識し、そこへ危険を示す感覚を重ねている。

 アーシェの目が見開かれた。

 次の瞬間、彼女が住民たちへ声を上げた。

 人々が動き始める。

「伝わった……」

 ルナ自身が驚いていた。

 しかし喜んでいる時間はない。

 水路へ向かう住民を見た武装集団も動いた。

 誰かが声を上げたわけではない。

 それなのに橋側へいた兵士が同時に進路を変えた。

「兄様!」

「見えてる!」

 レイブンはそこで初めて一発を撃った。

 狙ったのは人ではなかった。

 住民へ回り込もうとする兵士の進路近くで衝撃が弾け、相手が反射的に足を止める。

 未知の発砲音が集落を揺らした。

 住民たちは身を竦めたが、ルナがすぐアーシェへ避難を続けるよう身振りで伝える。

 武装集団の方も止まった。

 しかし恐慌にはならない。

 中央の男がレイブンを見た。

 次に地面を見る。

 そして部下へ視線を送る。

 今の一発を観察していた。

「やっぱり見るよな」

 レイブンが小さく呟く。

 自分たちだけが相手を学ぶわけではない。

 敵もまた、こちらを見る。

 その時、ルナが戻ってきた。

「水路の先が川へ繋がっています。途中までは人が歩けます」

「最後は?」

「水に入る必要があります。でも流れを読めれば渡せるかもしれません」

「全員?」

「一度には無理です」

 レイブンは前方を見たまま考えた。

 戦って勝つ必要はない。

 この集落を占領する必要もない。

 必要なのは、ここにいる人々が追い詰められない場所まで移る時間だった。

「じゃあ水路を使う。お前は流れを見る。アーシェたちに伝えられる範囲だけ伝えてくれ」

「兄様は?」

「入口を見ながら下がる。でも無理なら俺も水路へ行く」

「約束ですよ」

「ああ」

 ルナが戻ろうとした時、青白い石の光が一瞬だけ途切れた。

 同時に彼女の表情が変わる。

「……切られた?」

「何が?」

「さっきまで感じていた繋がりがありません」

 武装集団の後方で、杖を持つ兵士が地面へ何かを突き立てていた。

 石の光が弱くなる。

 水路に埋め込まれていた青白い石まで明滅し始めた。

「相手も使えるなら、止め方も知ってるか」

 レイブンは《RAVEN》を構え直した。

 ルナは思念伝達に頼るのをやめ、アーシェの腕を取って水路を指した。身振りと声と、これまで共有できた僅かな理解だけで意図を伝える。

 アーシェが頷く。

 住民たちも互いに声を掛け合い始めた。

 便利な繋がりが切れたからといって、人間まで動けなくなるわけではない。

 レイブンはその光景を見ながら、ほんの僅かに口元を緩めた。

「そうだよな」

「兄様?」

「いや。帰ったらCipherに話したら喜びそうだと思って」

「まず帰らないと話せませんよ」

「だから帰るんだよ」

 武装した男が剣を抜いた。

 周囲の兵士たちがゆっくり広がっていく。

 今度は先ほどのような完璧な同時性がない。思念による連絡を遮った代償なのか、それとも集落側と同じ伝達経路を使えなくするために、自分たちまで一部の連携を捨てたのかは分からなかった。

 それでも人数では向こうが上だった。

 レイブンの弾薬には限りがある。

 ルナには本来の戦闘装備がない。

 水路が本当に安全な帰路になる保証もない。

 だから兄妹は、目の前の一つずつを確かめるしかなかった。

「ルナ、先に行け」

「はい。でも兄様も必ず下がってください」

「分かってる」

 白い猫耳が人々の中へ消えていく。

 レイブンはその背中を確認してから、再び前方へ視線を戻した。

 紫色の空の下で、異世界へ放り出された黒猫の軍人と、この土地の武装者たちが互いを見つめている。

 どちらも相手を知らない。

 どちらも相手の武器を理解していない。

 それでも、すでに観察は始まっていた。

 そして水路の奥では、思念による繋がりを失ったルナが、今度は自分の目と耳で水の流れを読みながら、言葉の通じない住民たちを川へ導き始めていた。

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