Season 6「門の彼方へ」 #106
第106話「川向こうの住人」
黒い森から現れた巨影は、木々を押し倒しながら進んでいるわけではなかった。
むしろ異様なほど静かだった。
枝葉の擦れる音と、湿った地面を踏む低い振動だけが夜の川面を渡ってくる。輪郭は獣に似ているものの、四足なのか二足なのかさえ暗闇の中では判然とせず、紫色の空に浮かぶ星明かりが背中らしき部分を照らすたび、黒い外皮の下を淡い光が脈打つように移動していた。
レイブン・S・クロウ〔無名〕はISG-42A3《RAVEN》を構えながら、その姿よりも先に対岸の住人を見た。
弓を持った人物は逃げていない。
明らかに巨影を恐れているにもかかわらず、森と川の間へ立ったまま弓を構えている。
「ルナ、あいつの後ろを見てくれ」
「後ろ?」
「あの人、逃げられるのに逃げてない」
ルナ・S・クロウ〔夜〕が目を凝らす。
川沿いの斜面には細い道があり、その先には木々に隠れるように小さな灯りが点在していた。先ほど聞こえた鐘の方向とも一致している。
「集落……」
「たぶんな」
対岸の人物が何かを叫んだ。
今度は二人に向けてではない。
背後の集落へ向けた警告だった。
遠くで別の声が返り、灯りが動き始める。
「住民を逃がしてるのかもしれません」
「俺もそう見える」
レイブンは巨影へ視線を戻した。
アタック・シールドが警告を続けている。
ただし敵意の向きが一定ではない。
獲物を一人だけ狙うような鋭さではなく、周囲にいる生き物そのものへ苛立ちを撒き散らしているような感覚だった。
「兄様、戦うんですか?」
「まだ決めない」
即答だった。
レイブンは弾薬の残量を思い出した。
この世界では一発使っても補給できる保証がない。まして相手の身体構造も弱点も分からず、こちらには重火器も観測支援もない。
「倒せるかどうかじゃない。あれが俺たちのところまで来るか、あの人たちが逃げ切れるかを見る」
「分かりました」
ルナは武器を持っていなかったが、何もできないわけではない。
彼女は川へ目を向けた。
夜になってから変化していた流れは、先ほどよりさらに強くなっている。水面を漂っていた青白い光は消えていたものの、川底から響く低い水音だけは残っていた。
「兄様、もし渡ることになっても、今は川へ入らないでください」
「理由は?」
「流れが読めません。表面と底で向きが違う可能性があります」
「じゃあ泳ぐのは禁止だな」
「兄様ならやりかねないので先に言いました」
「信用ないなあ」
「実績がありますから」
こんな状況でも妹は容赦がなかった。
だが、その短いやり取りが終わるより先に巨影が動いた。
森の端から長い何かが伸びる。
枝ではない。
対岸の人物が横へ跳んだ直後、その場所へ黒い肢が叩きつけられ、湿った土が大きく舞い上がった。
弓が放たれる。
矢は巨影へ当たったが、表面で淡い光を散らしただけで止まった。
「効いてない……」
ルナの声が低くなる。
「いや、見ろ」
巨影が身体を捻った。
「痛がってはいる。通ってないだけだ」
対岸の人物は二本目の矢を放ちながら後退した。
それでも集落とは反対方向へは逃げない。
自分が下がれば、巨影がそのまま集落へ向かうことを理解している。
レイブンは小さく息を吐いた。
「困ったな」
「兄様?」
「見なかったことにできない」
ルナは兄の横顔を見る。
「分かってました」
「止めてくれてもいいんだぞ」
「兄様が無茶をしないようにするのが私の役目です。誰かを見捨てさせることじゃありません」
レイブンは少しだけ笑った。
「じゃあ手伝ってくれ」
「もちろんです」
レイブンはすぐには発砲しなかった。
まず位置を変える。
巨影から見て自分たちと対岸の人物が一直線に重ならない場所へ移りながら、河岸にある岩や窪地を確かめていく。ルナも兄について動きつつ、川の流れと足場を見ていた。
「ここから先は水際が崩れています。右側の岩場なら少し高いです」
「そこへ行こう」
二人が移動すると、対岸の人物がこちらに気づいた。
何かを叫んでいる。
言葉は分からない。
しかし手を横へ振る動作は理解できた。
「来るな、かな」
「たぶん」
「いい人だな」
「兄様と同じこと考えてるんじゃないですか?」
「それなら話が早い」
レイブンは岩陰から《RAVEN》を構えた。
巨影が再び対岸の人物へ迫る。
その瞬間を狙って撃った。
乾いた発砲音が、異世界の川へ初めて響き渡った。
命中した巨影の外皮から黒い破片が飛び、身体が僅かに傾く。
倒れない。
だが反応はあった。
巨影の頭部らしき部分が、ゆっくりレイブンへ向いた。
アタック・シールドの感覚が一気に鋭くなる。
「こっち見た」
「十分効いてますね」
「嫌われたって意味ではな」
レイブンは続けて撃とうとせず、岩陰へ身体を戻した。
直後、巨影の肢が川を越えるほど伸びることはなかったものの、岸辺を激しく打ちつけ、その衝撃で水飛沫が高く上がった。
距離がある。
それは今のところ、こちらにとって最大の利点だった。
「兄様、あれは川に入りたくないのかもしれません」
「何で?」
「さっきから岸際で止まっています」
レイブンも気づいた。
巨影は対岸を移動しながらこちらへ敵意を向けているが、水へ踏み込もうとはしない。
「水が弱点?」
「そこまでは分かりません。でも避けているのは確かです」
その時、対岸の人物が動いた。
こちらへ向けて何かを叫んだ後、弓を巨影へ放つ。
矢が外皮へ当たる。
巨影がそちらへ向く。
レイブンは意図を理解した。
「こっちと向こうで交互に気を引けってことか」
「言葉が通じなくても通じるものですね」
「戦場ではな」
次に巨影が対岸の人物へ身体を向けた時、レイブンが再び発砲した。
今度は同じ場所を狙わない。
最初の命中で黒い外皮が欠けた付近へ注意を向ける。
衝撃を受けた巨影が大きく身体を震わせた。
対岸から矢が飛ぶ。
矢そのものは外皮を抜けなかったが、先端で魔法らしき光が弾けると巨影の動きが一瞬鈍った。
「魔法矢か」
「向こうも兄様の攻撃を見ています」
「ああ」
互いの言葉は分からない。
装備も違う。
それでも相手が何を狙っているのかを観察し、自分の攻撃を重ねることはできる。
巨影もまた、それを学んでいた。
二方向から攻撃を受けると、身体を低くして木々の間へ後退し始めた。
「逃げる?」
ルナが問いかけた。
「違う」
アタック・シールドの警告が消えない。
「見えなくなるだけだ」
レイブンが言い終える前に、森の奥から地面を這うような光が走った。
対岸の人物が気づいて跳ぶ。
しかし間に合わない。
地面から黒い肢が突き出し、その身体を横から弾き飛ばした。
「まずい!」
人物は斜面を転がり、そのまま川へ落ちた。
水面が大きく揺れる。
「ルナ!」
「見えてます!」
兄より先に、ルナは水へ向かって走っていた。
「待て、流れが!」
「だから私が行きます!」
ルナは岸辺で立ち止まり、水面の動きを一瞬だけ見ると、川へ飛び込んだ。
レイブンは妹を追って入ろうとしたが、その直前にルナの声が飛んだ。
「兄様は岸を見てください! あれが戻ってきたら二人とも水の中になります!」
レイブンは足を止めた。
以前なら追っていた。
妹が危険な場所へ入ったのだから、自分も行くという判断をしていたかもしれない。
だが今は二人しかいない。
同じ役割を二人で行えば、別の危険へ対応する者がいなくなる。
「……分かった!」
レイブンは岩場へ戻り、《RAVEN》を森へ向けた。
川ではルナが流れへ身体を預けながら、沈んだ人物へ近づいていく。
表面の流れだけに逆らわず、斜めに位置を変えながら手を伸ばす。
やがて白い猫耳が一度水中へ消えた。
「ルナ!」
数秒後、再び水面へ現れる。
「掴みました!」
片腕には対岸の人物がいた。
意識はあるらしい。
しかし負傷したのか、自力では十分に泳げない。
ルナは元の対岸へ戻ろうとせず、流れを見た。
「兄様! そっちへ行きます!」
「分かった!」
こちらの岸へ近づくにつれ、水の流れが変化する。
ルナが顔をしかめた。
「下へ引かれる……!」
レイブンは《RAVEN》から片手を離しかけたが、森の中で巨影が動いた。
今ここで岸際へ行けば警戒が消える。
それでも妹を放置することもできない。
その時、ルナ自身が叫んだ。
「まだ大丈夫です! 岸を見て!」
レイブンは歯を食いしばり、森へ視線を戻した。
巨影が姿を現す。
こちらの意図を理解したかのように、今度は川岸に沿って移動している。
「来るなよ……」
レイブンは銃口を向ける。
残弾は有限だ。
だが今使わなければならない弾まで惜しむことは、節約ではない。
巨影が川岸へ近づいたところで、レイブンは一度だけ発砲した。
外皮が欠ける。
巨影は怯みながら森へ下がった。
その数秒があれば十分だった。
「兄様!」
ルナが岸へ到達した。
レイブンは今度こそ《RAVEN》を身体へ寄せ、斜面を下りて二人を引き上げた。
救助された人物は激しく咳き込みながら水を吐き出した。
近くで見ると若い男性だった。
人間に近い顔立ちだが、耳の形が僅かに長く、首筋には薄い紋様のようなものがある。衣服は厚い布と革を組み合わせており、胸元には青白い石が取り付けられていた。
「大丈夫か?」
当然、言葉は通じない。
それでも男はレイブンを見てから、ルナへ視線を向けた。
そして震える手を胸へ当てる。
「……セイル」
先ほど名乗った音だった。
レイブンも自分を指す。
「レイブン」
次に妹を示す。
「ルナ」
「レイ……ヴェン。ル……ナ」
男――セイルは二人の名前を確かめるように繰り返した。
やがて自分の背後にある森を指した。
「エル……ディア」
「エルディア?」
レイブンが繰り返す。
セイルは何度も頷いた。
場所の名前なのか、集落なのか、それとも別の意味なのかは分からない。
その時、森の奥から再び鐘が鳴った。
セイルの表情が変わる。
彼は急いで立とうとしたが、右脚へ力が入らず、その場へ膝をついた。
「怪我してる」
ルナが近づく。
外傷は大きく見えないが、先ほど地面へ叩きつけられた際に痛めたらしい。
セイルはそれでも集落の方向を指し、必死に何かを訴えている。
「戻りたいんだろうな」
「でも川を渡れません」
「俺たちもな」
レイブンは森を見る。
巨影は姿を消している。
アタック・シールドには、まだ遠い敵意が残っている。
セイルが二人の会話を理解できないまま、何度も「エルディア」と繰り返した。
ルナが川を見る。
「兄様」
「うん?」
「上流に橋らしき影があります」
レイブンが目を凝らす。
かなり遠い。
だが紫色の星明かりの下で、川の両岸を結ぶ細い輪郭が見えていた。
「渡れると思う?」
「分かりません。少なくとも泳ぐよりは調べる価値があります」
レイブンはセイルを見る。
負傷者を残す選択肢はなかった。
「じゃあ行こう」
「今からですか?」
「ここにいたら、あれが戻ってくる。明るくなるまで待つなら、もっと安全な場所が必要だ」
ルナは周囲を確認してから頷いた。
「分かりました」
レイブンはセイルへ近づき、自分の肩を指した。
男は最初こそ戸惑ったものの、意図を理解すると身体を預けてくる。
「重かったら代わりますよ」
「お前、武器持ってないだろ。周り見てて」
「了解です」
三人は川沿いを歩き始めた。
異世界で出会った最初の住人と、言葉すら満足に通じないまま。
しばらく歩いたところで、ルナが振り返った。
「兄様」
「どうした?」
「さっきの光、また出ています」
川面に青白い光が戻っていた。
今度は一つだけだった。
それは三人を追うように水面を進み、一定の距離を保っている。
セイルも光に気づいた。
彼は驚かなかった。
むしろ胸元にある青白い石へ手を触れ、小さく何かを呟いた。
川面の光が一度だけ強く輝く。
ルナが立ち止まった。
「兄様……今の、感じました?」
「何を?」
「言葉じゃありません。でも、何かが伝わってきました」
セイルがルナを見る。
彼も気づいていた。
胸元の石を指し、それから自分の頭を指す。
次に青白い光へ触れるような仕草をした。
ルナはその動きを見ながら、ベルガで聞いた「帰りたい」という声を思い出した。
あれも耳から聞こえた声ではなかった。
「思念を伝えている……?」
レイブンが妹を見る。
「門の時と同じ?」
「似ています。でも、あの時よりずっと弱いです」
セイルは二人の言葉を理解できない。
それでもルナが何かに気づいたことは察したらしい。
男は青白い石を示し、ゆっくり口を開いた。
「……リェン」
「リェン?」
ルナが繰り返す。
セイルが頷いた。
それが石の名前なのか、術の名前なのかはまだ分からない。
ただ、異世界へ来て二日目を迎える前に、兄妹は一つの事実へ触れ始めていた。
この世界には、言葉だけではない情報の伝え方が存在している。
ルナは青白い光を見つめた。
光の奥から、ごく微かな感覚が届く。
恐怖だけではなかった。
急げという焦りと、誰かを案じる感情が混じっている。
「兄様」
「何?」
「この人、集落へ帰りたいだけじゃないと思います」
レイブンは肩を貸しているセイルを見る。
「誰かが残ってる?」
「たぶん」
セイルは二人の言葉を理解できなくても、表情から何かを察した。
森の奥を指し、今までで最もはっきりとした声で叫んだ。
「エルディア!」
遠くで鐘が鳴る。
今度は警告を知らせるような音が途切れず続いていた。
レイブンは歩調を速めた。
「ルナ、橋を確認したら状況を見る。助けられるなら助ける。でも俺たちまで帰れなくなるような動きはしない」
「はい」
「ここにはHUGINNもBIFROSTもいない。判断を間違えたら、誰も迎えには来てくれない」
「分かっています」
ルナは一度だけ兄を見た。
「だから二人で判断しましょう」
レイブンも頷いた。
「ああ」
彼らはまだ、この世界の地名さえ知らない。
言語も分からず、食べられる物も、安全な土地も知らない。
それでも、助けた一人の住人が自分たちを未知の世界へ繋ぎ始めている。
やがて前方の闇から、石造りの古い橋が姿を現した。
その向こうには集落の灯りがある。
しかし橋の中央付近には、別の人影が立っていた。
セイルが足を止める。
その身体が強張った。
レイブンも立ち止まり、アタック・シールドへ意識を向けた。
明確な殺意はない。
だからといって友好的とも限らない。
橋の上にいる人物は長い杖を手にしており、その先端では淡い青白い光が揺れていた。
やがて相手はセイルを見つけ、次にレイブンとルナへ視線を移した。
そして二人の軍装と《RAVEN》を見た瞬間、杖を握る手へ力を込めた。
レイブンは銃を向けなかった。
ルナも兄の横で動かない。
川の音と遠くの鐘だけが三者の間を満たす中、セイルが痛む脚を引きずりながら一歩前へ出た。
彼は杖を持つ人物へ何かを訴えた。
長い言葉だった。
何度かレイブンたちを指し、川を指し、最後には自分の濡れた服を示す。
杖の先端がゆっくり下がった。
完全に警戒を解いたわけではない。
それでも攻撃する意思は薄れたように見えた。
レイブンはようやく息を吐いた。
ルナが小声で囁く。
「兄様」
「ん?」
「たぶん、泊まる場所ができるかもしれません」
「まだ期待しない方がいい」
「そうですね」
「でもまあ……」
レイブンは橋の向こうにある灯りを見た。
冷たい川岸と紫色の空しかなかった数時間前とは違う。
「話を聞いてもらえる可能性くらいはありそうだ」
杖を持つ人物が二人へ手招きした。
セイルも振り返り、同じ動作をする。
レイブンとルナは顔を見合わせた。
それから兄妹は、初めて異世界の橋へ足を踏み出した。
黒い川の上を渡るその橋の向こうでは、彼らの知らない言葉を話し、思念を光へ乗せて伝える人々が待っていた。




