Season 6「門の彼方へ」 #105
第105話「紫空の夜」
紫色の空から最後の明るさが失われていくにつれ、黒い川の向こうに広がる森は輪郭を失い、ひとつの巨大な影のように沈み始めていた。
レイブン・S・クロウとルナ・S・クロウが元の世界から切り離されてから、どれほど時間が経過したのかは分からない。携帯していた時計は動いていたが、この世界の一日が自分たちの世界と同じ長さである保証はなく、紫色の空に現れ始めた星々にも見覚えはなかった。
二人が確実に理解できているのは、自分たちが同じ場所にいることと、少なくとも今すぐ襲いかかってくる敵が周囲には見当たらないこと、そして元の世界へ通じていた門が完全に消えていることだけだった。
レイブンは川岸から少し離れた岩場に身を寄せながら、手元に残った装備を確認していた。
ISG-42A3《RAVEN》は失われていない。携行していた弾薬や個人用の応急用品も残っているが、それらはBIFROSTの補給を前提として戦場へ持ち出した量であり、何日も孤立することを想定したものではなかった。
ましてルナは、ベルガの解析室から突然こちらへ引き込まれている。
「兄様」
「どうした?」
「三回目です」
「何が?」
「弾薬を数えるのがです」
レイブンの手が止まった。
「……そうだっけ?」
「そうです」
「増えてないかなと思って」
「増えていたら私も嬉しいです」
レイブンは苦笑して弾薬を戻した。
「じゃあ、もう数えない」
「明日の朝には四回目をやってそうですね」
「否定はしない」
ルナは小さく笑ったが、その表情には疲れが見えていた。
彼女が持っていたのは通信端末や解析用の携行品など、ベルガで身につけていた最低限の装備だけである。STYXの水域装備も、普段使っている武器も、救難用品もない。
レイブンは自分の装備を見ながら、それまで当然だと思っていたものの大きさを改めて思い知らされていた。
戦場では、残弾が減れば補給を申請できた。
負傷すればSageやIDUNNがいた。
通信が途切れればCipherやHUGINNが原因を探り、移動経路が崩れればDVERGRが別の道を作った。
水路にはSTYXがあり、救助にはEINHERJARがあり、必要ならBIFROSTが人員と物資を運んでくる。
今は、そのすべてがない。
手元にある弾薬を撃てば減る。
食料を食べればなくなる。
怪我をしても、すぐに医療支援は来ない。
不老不死に近い身体を持っていたとしても、それは補給を不要にする能力ではなかった。傷を負えば痛み、身体が破壊されれば動けなくなり、意識を失えば周囲の状況を判断することもできない。v3で定められた三人の不老不死も無敵性を意味せず、レイブンの場合は戦闘適応、ルナの場合は環境適応という違いを持ちながら、それぞれに負傷、疲労、行動不能、回復時間が存在する。
「ルナ」
「はい?」
「眠れそう?」
「兄様が見張ってくれるなら」
「任せろ」
「そのあと交代してくださいね」
「俺はまだ平気だよ」
ルナの青い瞳が細くなった。
「兄様」
「はい」
「交代してくださいね」
「……了解」
そこだけは妹の方が強かった。
レイブンは岩へ背中を預けながら、周囲へ耳を澄ませた。
黒猫系亜人としての聴覚は、人間より遠くの小さな音を拾える。それでも、この世界では何が正常な音で何が異常なのかという基準そのものが存在しない。草むらを動く音が小動物なのか、異界生物なのか、あるいは人間に似た何者かなのかも分からなかった。
遠くから低い鐘の音が聞こえる。
少し間を置いて、もう一度鳴った。
先ほどと同じ方向だった。
「集落でしょうか」
「たぶん。でも、夜に近づくのはやめよう」
「賛成です」
ルナは黒い川へ目を向けた。
「川も変です」
「流れ?」
「それもあります」
STYXの隊長として長く水域を見てきた彼女には、レイブンとは違うものが見えている。
「水面は静かですけど、完全に止まっているわけじゃありません。中央付近だけ流れが速くて、岸辺はかなり遅い。それに、さっきから水位がほとんど変わっていません」
「普通じゃない?」
「普通の川なら、それだけでは異常とは言えません。でも……」
ルナは川岸へ近づきすぎない位置でしゃがんだ。
「流れる音が合わないんです」
「音?」
「はい。見えている流れより、水の音が大きいです。下に別の流れがあるのかもしれません」
レイブンも耳を澄ませた。
確かに聞こえる。
表面の穏やかな流れとは別に、もっと深いところを大量の水が動いているような低い響きがあった。
「地下水路?」
「分かりません。明るくなってから調べます」
「無理に入るなよ」
「兄様にだけは言われたくありません」
「今日それ何回目?」
「数えてません」
二人は小さく笑った。
笑えるうちは大丈夫だと、レイブンは思った。
怖くないわけではない。
むしろ、自分たちがどれほど危うい状況にいるのか理解するほど恐怖は具体的になっていく。
それでも恐怖を消そうとはしなかった。
恐怖があるから確認する。
確認するから無謀に動かない。
父ヴァルターから教えられたことは、こういう時のためにあったのかもしれない。
レイブンは夜空を見上げた。
「父さん、怒ってるだろうな」
「怒ってますね」
「母さんは?」
「泣いてると思います」
「……だよな」
「でも、エリシアさんが一番怖いと思います」
レイブンが妹を見る。
「帰ったら何を言われるかな」
「最初は抱きしめられると思います」
「その後は?」
「知りません」
「絶対知ってる顔してる」
ルナは笑いを堪えながら横を向いた。
レイブンも笑ったが、やがてその表情は静かになった。
最後に見たエリシアの顔が蘇る。
伸ばされた手。
掴んだ指。
名前を呼ぶ声。
離したかったわけではない。
それでも世界そのものが二人の間を引き裂いた。
「エリシア……」
小さく呟いた声を、ルナは聞いていた。
「帰りましょう」
「ああ」
「エリシアさんのところへ」
「絶対にな」
レイブンは左手を握った。
彼女の体温はもう残っていない。
だからこそ、自分から帰らなければならない。
夜が深くなり、二人は岩場の陰で交代しながら休むことにした。
火は使わなかった。
寒さはあるものの耐えられないほどではなく、何が周囲にいるのか分からない状態で自分たちの位置を必要以上に知らせる理由もない。レイブンが最初の警戒を担当し、ルナは上着を身体へ寄せながら岩壁へ背を預けた。
「兄様」
「何?」
「眠ったら消えたりしませんよね」
冗談のような言い方だった。
だが声は笑っていない。
レイブンは妹を見る。
「消えないよ」
「保証できます?」
「できない」
「そこは嘘でも保証してくださいよ」
「でも、起きたら確認する」
「何を?」
「お前がいるか」
ルナはしばらく兄を見ていた。
「……私も確認します」
「じゃあ決まり」
ルナが目を閉じる。
それでもしばらく猫耳は動き続けていた。
やがて呼吸が一定になった。
レイブンは《RAVEN》を身体の近くへ置いたまま、紫色の夜を見つめた。
時間が過ぎる。
森から聞こえていた鐘は止まった。
代わりに、時折聞いたことのない獣の声が遠くから届く。
アタック・シールドは反応しない。
それでもレイブンは警戒を解かなかった。
やがて彼は、川辺に小さな光があることに気づいた。
最初は星の反射だと思った。
だが違う。
水面より少し上に浮いている。
淡い青白い光が一つ、川下からゆっくり流れてくる。
その後ろからもう一つ現れた。
さらに奥にもある。
レイブンは静かに身体を起こした。
「ルナ」
妹の耳が動く。
「起きろ」
ルナはすぐに目を開けた。
「何ですか?」
「川」
二人は岩陰から水面を見る。
光が増えていた。
それらは不規則に漂っているのではなく、一定の間隔を保ちながら上流へ向かっている。
「流れと逆ですね」
「ああ」
ルナはしばらく観察した。
「生き物でしょうか」
「分からない」
「魔力は?」
「俺には判断できない」
ルナが目を凝らす。
彼女にも確証はなかった。
青白い光は二人の前を通り過ぎていく。
何も起こらない。
そのまま上流へ向かうかに見えた。
ところが最後尾の光だけが止まった。
レイブンの指が《RAVEN》へ触れる。
「兄様」
「まだ撃たない」
光がゆっくり岸へ寄ってくる。
水面から離れ、宙へ浮かび上がった。
その瞬間、ルナが息を呑んだ。
「これ……」
「知ってる?」
「いいえ。でも……感じます」
「何を?」
「思念みたいなものを」
レイブンが妹を見る。
青白い光から言葉は聞こえない。
それでもルナは胸元へ手を置いた。
「怖がってる」
「こいつが?」
「たぶん」
光は二人へ近づこうとはしない。
一定の距離を保ったまま揺れている。
レイブンは銃から手を離さなかったが、構えもしなかった。
「敵意は感じない」
「私にも攻撃する感じはありません」
「じゃあ、しばらく見る」
光は数秒ほどその場に留まった後、再び川へ戻った。
上流へ向かっていく。
レイブンとルナはその行方を追った。
すると、遠くの森の方向で灯りが一つ点いた。
鐘が鳴る。
今度は一度ではなかった。
一定の間隔を置いて、何度も響く。
それに呼応するように、川を遡っていた青白い光が次々と森の方向へ向かっていった。
「呼ばれてる?」
レイブンが呟く。
「そう見えます」
ルナは水面を見た。
「でも、あの光だけじゃありません」
「何?」
「川の流れが変わっています」
レイブンにも分かった。
岸辺近くの黒い水が、先ほどまでとは違う方向へ動き始めている。
森の方角へ。
鐘の鳴る場所へ。
「明日、あそこを調べる」
「はい」
レイブンがそう答えた直後だった。
アタック・シールドが反応した。
強くはない。
しかし明確な敵意だった。
「伏せろ」
ルナは理由を聞かず身体を低くした。
レイブンも岩陰へ身を寄せる。
敵意は森からではない。
川の対岸。
暗闇の中に誰かがいる。
黒猫系亜人の目が僅かな光を拾い、対岸に立つ輪郭を捉えた。
人型だった。
背丈も人間と大きくは変わらない。
しかし装備は帝国軍とも連邦共和国軍とも異なっている。
その人物は弓のようなものを持っていた。
レイブンは《RAVEN》を構えたが、引き金へ力を掛けない。
相手も撃たない。
川を挟んで、互いが互いを見ている。
「兄様」
「見えてる」
「一人ですか?」
「今見えるのは一人。でも他にもいる前提で考える」
人影が何かを言った。
知らない言葉だった。
レイブンにもルナにも意味は分からない。
もう一度。
今度は少し大きな声だった。
ルナが小さく首を振る。
「分かりません」
「俺も」
レイブンは銃口を少し下げた。
完全には下ろさない。
しかし相手へ直接向けることもしない。
人影もそれを見たらしく、弓を僅かに下げた。
レイブンは自分の胸へ手を当てた。
「レイブン」
次に妹を示す。
「ルナ」
相手は動かない。
やがて。
自分の胸へ手を当てた。
聞き慣れない音を口にする。
「……名前?」
「たぶん」
ルナが囁いた。
レイブンはもう一度自分を示した。
「レイブン」
対岸の人物が真似る。
「……レイ、ヴェン」
発音は違った。
それでも通じた。
レイブンは僅かに目を見開く。
ルナも同じだった。
門の向こうへ落とされてから初めて。
兄妹は、この世界に暮らす誰かと意思を交わした。
しかし、その直後だった。
森の奥から先ほどとは違う鐘が鳴った。
短く、切迫した響きだった。
対岸の人物が勢いよく振り返る。
レイブンのアタック・シールドが、それまでとは比較にならない強さで反応した。
「ルナ、下がれ!」
森の中で何かが動いている。
枝が折れ、鳥のような生き物が一斉に夜空へ飛び立つ。
対岸の人物が弓を構え、こちらではレイブンが《RAVEN》を構えた。
敵意の方向は互いではない。
二人とも同じ森を見ている。
「兄様」
「ああ」
「来ます」
黒い木々の間から、巨大な影が姿を現した。
橋の門で見た影と同じものなのかは分からない。
ただ、その存在を目にした対岸の人物が一歩後退したことで、少なくともこの世界の住人にとっても平穏な存在ではないことだけは理解できた。
レイブンは残弾を思い出した。
補給はない。
ルナに戦闘装備はない。
相手が何なのかも分からない。
だから、最初から倒すことを考えなかった。
「ルナ」
「はい」
「逃げ道を見る。戦うのは逃げるために必要な時だけだ」
「了解です」
それはFENRIRという巨大な組織を失っても変わらない判断だった。
道がなければ探す。
危険があるなら避ける。
避けられない時だけ戦い、それでも最後には生きて帰る。
第二次異界大戦から切り離されたクロウ兄妹にとって、この世界での最初の戦いは、勝利のためではなく生存のために始まろうとしていた。
そして黒い森の奥から姿を現した何者かの背後で、先ほどまで川を遡っていた青白い光が一斉に消えた。




