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黒猫年代記  作者: @12
第二部 ~Ⅱ~ FENRIR ― 戦狼となった黒猫 ― Season 4 #067~
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104/189

Season 6「門の彼方へ」  #104

第104話「帰還路のない門」

 紫色の空を映し続ける裂け目を挟み、大河の西岸ではWOLF PACKと異界軍の睨み合いが続いていた。

 敵は河岸を奪い返そうとしているわけではない。岩場と林の境界から断続的に魔法を撃ち込みながらも、こちらが距離を詰めれば後退し、逆にFENRIRが門から離れようとすると再び姿を現す。その不自然な動きを何度か見たところで、レイブン・S・クロウ〔無名(ノックス)〕は、敵が自分たちを倒すことよりも、この場所へ留めることを優先しているのではないかと考え始めていた。

「Hound、敵の数は?」

『見えてる数は変わらない。ただ、林の奥にも動きがある』

「Lynxは?」

『確認中。少なくとも、最初から全部は見せてないと思う』

「追わなくていい。位置だけ残して」

『了解』

 レイブンは車体の陰から大河を見た。胸の奥に残る熱は、門へ意識を向けるたびに強くなる。それでも〔殺気看破(アタック・シールド)〕が拾っているのは河岸に潜む異界兵からの敵意ばかりで、紫色の空の向こうからは何も伝わってこない。

 それを安全だとは考えなかった。

 アタック・シールドは未来を見せる能力でも、未知の現象すべてを危険として知らせる力でもない。敵意を持たない現象や、そもそもこちらとは異なる原理で動く存在まで都合よく教えてくれるわけではなく、疲労や環境、相手の性質によって感覚そのものも揺らぐ。

 何も感じないことと、何もないことは違う。

「NoX」

 声に振り返ると、魔力観測を続けていたエリシア・L・クロウ〔戦乙女(ヴァルキリー)〕が戻ってきた。

「どうだった?」

「良くないわ。門の周囲にある術式が水中まで広がってる。最初は開くための術式だと思っていたけれど、それだけじゃないみたい」

「閉じない原因?」

「おそらくね。こちら側の位置を固定しているように見えるの」

 病院地下でもベルガ東方の橋でも、空間の裂け目は長く維持されなかった。しかし目の前の門は違う。発生してから時間が経過しているにもかかわらず紫色の空を映し続け、周囲の魔力を取り込みながら徐々に安定している。

「誰かが固定してる?」

「可能性はある。でも、それが河岸の異界軍なのか、向こう側の誰かなのかまでは分からないわ」

 レイブンは小さく息を吐いた。

「今日は分からないことばっかりだな」

「分からないことを分かったふりするよりいいでしょう?」

「Cipherと同じこと言うなあ」

『聞こえてるからね』

 通信回線からノア・ヴェルナー《Cipher》の声が飛んできた。

「盗み聞き?」

『作戦回線で話してる二人に言われたくないよ』

 張り詰めていた空気が僅かに緩んだところで、別の回線が開いた。

『NoX、こちらNyx。河川側の観測値が変です』

 ベルガに残っているルナ・S・クロウ〔夜(ニュクス)〕だった。

「聞いてる」

『門の上流側では水位が上がっています。でも下流側の流量が合いません。上流から入っている水の一部が、観測区間から抜け落ちています』

 レイブンは門の周囲を見た。

 夕暮れを反射する大河の中で、裂け目の周囲だけが不自然なほど静かになっている。その向こうにも黒く見える川が流れており、こちらの水面と向こう側の水面が、境界を挟んで一続きになっているようにも見えた。

「水が向こうへ流れてる可能性は?」

『あります。ただ、確かめるには異常域そのものを観測する必要があります。Drakeたちには近づかないよう指示しました』

「それでいい。舟艇は入れないで」

『了解です』

 エリシアも黒い川を見つめた。

「もし本当に水が行き来しているなら、これは向こうを見せるだけの窓じゃないわ」

「物が通れる門になる」

「ええ」

 レイブンはしばらく考えた後、門から視線を外した。

 向こう側には、先ほど「帰りたい」と訴えた何者かがいる。助けを求めているなら放っておきたくないという気持ちは消えていなかったが、それと無計画に境界を越えることは別だった。

「先にこっち側を安全にしよう。帰る方法が分からないところへ救助側まで消えたら、父さんに何を言われるか分からない」

「帰ってから叱られるなら、まだいいでしょう?」

 エリシアがそう返すと、レイブンは一瞬黙った後で苦笑した。

「それもそうだな」

 二人はその言葉を深く考えず、それぞれの持ち場へ視線を戻した。

 帰ってから。

 普段なら何でもないその一言が、もうすぐ二人にとって途方もなく遠い意味へ変わろうとしていた。

 WOLF PACKが河岸の安全確保へ移っても、レイブンは以前のように単独で敵の奥へ飛び込まなかった。

 Lynxが探った敵位置をCipherが共有し、Hawkが遠方から射線と移動を監視する。Houndはレイブンとともに前方を受け持ち、GrizzlyはBIFROSTの車列とEINHERJARの救助経路を守れる位置から支援した。

 ベルガまでの戦いで敵がFENRIRを学んだように、FENRIRもまた敵から学んでいる。

 異界軍は電子通信だけに頼らず、旗や光、伝令といった単純な手段を魔法と組み合わせていた。高度な妨害能力で一部の通信を崩せても、人間が旗を振り、兵士が森を走り、目で見たものを口頭で伝える行為そのものまでは消せない。

 技術の高さだけでは勝敗は決まらない。

 敵も自分たちの弱点を理解し、それを別の方法で補い始めている。

 岩陰から魔力光が走った瞬間、レイブンのアタック・シールドが警告を返した。身体を沈めると、光は頭上を抜けて背後の車体側面を焼いた。

「右の岩場!」

 Houndの声とほぼ同時に、レイブンは《RAVEN》を向けた。

 しかし撃つ直前、岩のさらに奥で別の影が動いた。

「二人いる。手前は囮だ」

「回るか?」

「いや。門側へ誘われる」

 レイブンは回線を切り替えた。

「Grizzly、敵を岩から出さないで。Lynxは左側から奥を確認。Hawkは観測継続。撃破より住民側の道を空けることを優先する」

 短い了解が返り、WOLF PACKの動きが変わった。

 敵を殲滅する必要はない。

 EINHERJARが住民を連れ出し、BIFROSTが安全圏へ運べるだけの空間を作ればいい。

 銃声と魔法の破裂音が河岸に重なり、砕けた岩の破片が水面へ落ちる。レイブンは遮蔽物の間を移動しながら敵の射線を押し退けていったが、《RAVEN》を撃つたびに左腕の奥へ鈍い痛みが残った。

 傷口はすでに塞がっている。

 異常なほど速い回復を見せていても、痛みまで消えたわけではない。身体が再生することと、戦闘能力が常に完全であることは同じではなかった。

 交戦が一度途切れたところで残弾と周囲を確認すると、レイブンは即応できる状態を維持しながら次の接触へ備えた。戦闘が完全には終わっていない以上、ここで必要なのは〔戦術的装填《タクティカル・リロード》〕であり、通常状況の補給を意味するNormalでも、即応能力を失った緊急局面から戦闘能力を取り戻すことを最優先するEmergencyでもない。

 装填分類は技量を誇示するための名前ではなく、自分と武器が今どの状態にあるのかを間違えないための基準だった。最新版の帝国軍・NoX装填教義でも、Tacticalは即応可能な状態を維持しながら次の接敵へ備えるものとして整理され、Emergencyは負傷そのものの別名ではなく、緊急時に失われた戦闘能力を回復させるためのカテゴリーとして明確に分けられている。 黒猫年代記_全話適用_統合コアバイブル_最新版

「腕は?」

 ガイルが尋ねた。

「痛いけど、まだ動く」

「Sageが聞いたら怒るぞ」

「次に悪化したら交代する」

 ガイルが一瞬だけレイブンを見た。

「何?」

「いや、お前もようやく指揮官らしくなったなって」

「ベルガから何回言われてると思ってるんだよ」

「昔のお前なら『まだ動く』で終わってた」

「俺だって学習するんだよ」

「敵と同じだな」

「もっといい例えなかった?」

 軽口を交わしていても、二人の視線は敵から離れなかった。

 やがて林から飛び出した異界兵が一気に距離を詰め、銃を向け直すより先に刃を振り下ろした瞬間、二人の会話は自然に消えた。

 レイブンは力任せに受け止め続けず、身体をずらして攻撃の軌道から外れる。Houndが側面から圧力を掛けたことで相手の姿勢が崩れ、その隙にレイブンは射撃に必要な距離を取り戻した。

 別の敵が迫ると、今度は腰のナイフへ手が伸びる。

 目的は格闘そのものではない。

 相手を倒すことだけに意識を奪われれば、門の異常や仲間の位置を見失う。レイブンは短い接触の中で相手の勢いを外し、Houndが作った空間へ抜けると、再び《RAVEN》を構えた。

 敵兵は追ってこなかった。

 むしろ林へ後退していく。

「……やっぱりおかしいな」

 ガイルが呼吸を整えた。

「ああ。俺たちを倒すより、ここに置いておく方を優先してる」

「何のために?」

 レイブンが門へ視線を向けた、その時だった。

 紫色の光が大きく脈打った。

 ベルガのHUGINN前進解析室では、ルナが胸元を押さえていた。

 これまで感じていた熱とは違う。

 一定の間隔で強弱を繰り返し、自分の鼓動そのものを外側から揺さぶられているような感覚だった。

「Nyx?」

 ノアが振り返る。

「門の波形を表示してください。それと、私の魔力変動も重ねられますか?」

「できる」

 表示された二つの波形を見比べたノアの表情が変わった。

 完全には一致していない。

 しかし門側の変化に続いてルナの身体が反応しているだけではなく、ルナの魔力循環が変化した直後に門側の波形まで揺れている部分がある。

「これ……双方向なのか?」

「私が門に反応してるだけじゃない」

 ルナは胸へ手を当てた。

「向こうも私を見つけてる?」

「まだ断定しない方がいい。相関して見えるだけかもしれない」

「兄様も同じなら?」

 ルナは現場回線を開いた。

『NoX、聞こえますか?』

「どうした?」

『門から離れてください。私と門の反応が一方通行じゃないかもしれません。向こう側がこちらを認識している可能性があります』

「こちらって?」

『少なくとも私です。兄様、胸の熱はどうですか?』

 レイブンは答えようとして呼吸を止めた。

 熱が強くなっている。

 心臓から全身へ広がるように。

「強くなってる」

 隣でエリシアも異常に気づいた。

「レイブン、術式が変わった」

「閉じる?」

「違う。広がってる」

 川面の上に留まっていた紫色の光が、濡れた河岸へ伸び始めた。

 静止したように見えていた水域も拡大している。

「全隊、異常域から離れろ!」

 レイブンの命令でWOLF PACKが後退へ転じ、EINHERJARも救出した住民を車両へ移していく。STYXは西岸に確保していた舟艇を異常域から遠ざけ、BIFROSTも車列を後退させた。

 ところが異界軍は逆に動いた。

 これまで岩陰に隠れていた兵たちが一斉に前へ出る。

 アタック・シールドが複数の敵意を捉えた。

「来るぞ!」

 ガイルの声とともに魔法が飛来し、地面が抉られて土砂が跳ね上がった。

「WOLF PACK、後退を継続! 門へ寄るな!」

 誰か一人が最後まで残るのではなく、互いに移動する時間を作りながら順番に下がる。戦闘を続けながら生存可能な場所へ移るという撤退の原則を崩せば、敵を何人倒しても意味がない。

 Houndが移動すればGrizzlyがその時間を作り、Grizzlyが位置を変える時には別の隊員が敵の追撃を抑える。

 レイブン自身も最後まで残ろうとはしなかった。

 指揮官が孤立すれば、仲間は彼を救うために戻らなければならない。それはベルガまでの戦いで嫌というほど理解したことだった。

「NoX、下がって!」

 エリシアが呼ぶ。

「今行く!」

 レイブンが彼女の方向へ踏み出した瞬間、門が大きく脈動した。

 耳鳴りとともに周囲の音が遠ざかり、風が吹いていないにもかかわらず足元の砂利が川へ向かって転がり始める。

「何だ、これ……」

 身体が吸い込まれているのではない。

 門との間に存在していた距離そのものが、折り畳まれるように縮んでいる。

「NoX!」

 ガイルがレイブンの腕を掴んだ。

「離すな!」

「言われなくても!」

 エリシアが魔力障壁を展開したが、風や衝撃を遮るための障壁では止められなかった。障壁の内側にある砂利さえ、紫色の裂け目へ向かって転がっていく。

『兄様!』

 通信機からルナの声が響いた。

『私にも――』

 そこで激しい雑音が走った。

 レイブンの胸から突然熱が消える。

「……ルナ?」

 返事がない。

「Nyx?」

 通信には沈黙だけが残った。

 ベルガでは、ルナが通信端末を握ったまま立ち尽くしていた。

「兄様?」

 回線が切れている。

 その直後、解析室の警報が別の異常を告げた。

 昨日の川から回収され、隔離容器へ封入されていた魔導具が発光している。

 誰も触れていない。

 観測のための魔力照射も止められている。

 それなのに表面の紋様が内側から目覚めるように光り、解析室の床へ淡い紫色を落としていた。

「Nyx、そこから離れて!」

 ノアが叫ぶ。

 ルナも後退しようとしたが、胸を焼くような熱が走って机へ手をついた。

「っ……!」

 視界が揺れる。

 解析室の壁が消えたように感じられ、その代わりに黒い川と紫色の空が広がった。

 川の向こうには誰かが立っている。

 先ほど夢のように見た人影が、再び手を伸ばした。

『帰りたい』

 言葉が耳ではなく意識へ直接触れる。

「あなたは……誰なんですか?」

「Nyx?」

 ノアの声は遠い。

『帰りたい』

「どこへ帰りたいんですか?」

 答えの代わりに、視界の奥へ別の姿が現れた。

 黒髪と黒い猫耳。

 黒と金の瞳。

「兄様……?」

 大河の西岸にいるレイブンもまた、あり得ない光景を見ていた。

 門の向こうにある黒い川の岸辺へ、白い猫耳の少女が立っている。

「ルナ……?」

 あり得ない。

 妹はベルガにいる。

 ここから四十キロ近く離れている。

「レイブン!」

 エリシアの声が現実へ引き戻した。

「門を見ないで! こっちへ!」

 彼女が手を伸ばしている。

 レイブンも腕を伸ばし、その指先を掴んだ。

「そのまま!」

「ああ!」

 ところが次の瞬間、二人の間へ目に見えない何かが割り込んだ。

 触れているはずなのに、エリシアが遠ざかっていく。

 彼女が後退しているわけではない。

 レイブン自身も動いていない。

 それでも二人の距離だけが伸びていく。

「レイブン!」

 エリシアが両手で彼の腕を掴んだ。

「離さない!」

「俺もだ!」

 左腕に激痛が走る。

 治りきっていない負傷箇所へ力が掛かっている。

 それでも手を離さなかった。

 だが、これは腕力の問題ではなかった。

 世界そのものが二人を別々の場所へ分けようとしている。

「Valkyrie!」

 レイブンが叫んだ。

 しかし次の瞬間には、作戦中の呼び名では足りなくなっていた。

「エリシア!」

 彼女の瞳が揺れる。

「レイブン!」

 最後まで触れていた指先が離れた。

 エリシアの姿が紫色の光に呑まれ、同時にレイブンの視界も白く染まった。

 光が消えた時、大河には夕暮れが戻っていた。

 川は再び流れている。

 紫色の空も黒い森も消え、残っているのは濁流と濡れた岩場だけだった。

「NoX?」

 ガイルが周囲を見る。

「NoX!」

 返事はない。

 レイブンがいた場所には誰もいなかった。

 エリシアは河岸に膝をつき、伸ばした右手を握ることもできないまま、夫が消えた場所を見つめていた。

「……レイブン」

 ガイルが通信機を掴む。

「Cipher、NoXが消えた! 位置を追えるか!」

 返ってきたのは雑音だった。

 数秒後、ノアの声が聞こえた。

 その声はいつもの冷静さを失っていた。

『こちらも……Nyxが消えた』

 エリシアが顔を上げる。

「何ですって?」

『目の前にいたんだ。解析室にいた。魔導具が反応して、空間が歪んで……光が消えた時には、もういなかった』

 四十キロ近く離れた二つの地点から、ほぼ同時刻にクロウ兄妹が消えた。

 エリシアは立ち上がった。

 足が震えている。

 それでも倒れなかった。

「HUGINNに全観測記録を保存させて。河岸の術式も、病院の記録も、橋の異常も、ルナが回収した魔導具も全部。RATATOSKRには周辺を再確認させる。STYXは川を調べて。ただし異常域には入らないで」

「Valkyrie……」

「二人は死んだと確認されたわけじゃない」

 その声は僅かに震えていた。

 それでも命令は崩れなかった。

「だったら探す」

 エリシアはレイブンが消えた場所を見つめる。

「帰る道がないなら、こっちから見つける」

 その頃、レイブンが最初に感じたのは頬へ触れる冷たい水だった。

 意識を取り戻して目を開くと、紫色の空が広がっている。

 夕暮れではない。

 空そのものが紫色を帯びていた。

 身体を起こすと、目の前を黒く見える川が流れ、その遠くには森があり、さらに向こうには石造りの建物らしき輪郭が見えている。

 橋から見た場所だった。

「……エリシア?」

 返事はない。

 レイブンは通信機へ手を伸ばした。

「Hound、応答して」

 沈黙している。

「Cipher?」

 何も返らない。

「Valkyrie?」

 雑音すら聞こえなかった。

 レイブンは呼吸を整え、自分の身体と装備を確かめた。

 ISG-42A3《RAVEN》は残っている。

 身につけていた装備も一緒だ。

 だが、今手元にあるものが全てだと考えた方がいい。

 BIFROSTの補給車列は来ない。IDUNNの医療支援もなければ、HUGINNから地形情報が届くこともなく、DVERGRが壊れた道を直してくれることもない。

 弾薬も食料も医療品も有限であり、今まで当然のように背後に存在していた組織そのものが消えていた。

 レイブンは《RAVEN》へ手を掛けながら周囲を見渡した。

 アタック・シールドには明確な反応がない。

 〔透明(ゴースト)〕も〔兵器接続(アームズ・リンク)〕も、この世界の正体を教えてくれる能力ではない。三つのパッシブはNoXの認識や戦闘適応を支えるが、未知そのものを消してくれる万能の答えではなかった。v3では三大パッシブを万能能力として扱わず、それぞれの限界と状況依存性を維持することが全話共通の原則となっている。

 川下から、水を踏む音が聞こえた。

 レイブンは反射的に撃つことはせず、射線だけを確保した。

 黒い水の向こうから白い猫耳が現れる。

「……兄様?」

 聞き慣れた声だった。

「ルナ?」

 濡れた服のまま、ルナ・S・クロウが立っている。

 レイブンは一瞬だけ幻覚を疑ったが、ルナも同じように兄を見つめた後、そのまま川辺を走ってきた。

「兄様!」

 レイブンは妹を受け止めた。

「何でお前までいるんだよ!」

「私が聞きたいです! 兄様は河岸にいたでしょう!」

「お前はベルガにいたじゃないか!」

「いましたよ!」

「四十キロ離れてたんだぞ!」

「だから私が聞いてるんです!」

 互いの声が黒い川へ響いた。

 やがて二人とも黙り、ようやく自分たちが同じ場所へ飛ばされたという事実を受け入れ始める。

 状況は何一つ解決していない。

 それでも一人ではなかった。

 その事実だけで、張り詰めていた呼吸が少し戻った。

「怪我は?」

 レイブンが尋ねる。

「ありません。兄様は?」

「左腕は前からのやつ。悪化はしてない」

「エリシアさんは?」

 その名前を聞いた瞬間、レイブンの表情が僅かに曇った。

「向こうに残った」

「……そうですか」

「最後まで手は掴んでたんだけどな」

 レイブンは左手を見る。

 指先には、まだ彼女の体温が残っているような気がした。

「帰らないとな」

「はい」

 ルナは自分の装備へ目を落とした。

「兄様。私、戦闘装備がありません」

「そうだった。解析室から飛ばされたんだもんな」

「通信端末と、その時持っていた最低限の携行品くらいです。STYXの装備も舟艇もありません」

 レイブンは自分の装備を見る。

 自分だけの物として考えることは、もうできない。

 妹へ分けられるものと、二人で共有しなければならないもの、そして今後補充できないものを分けて考える必要がある。

 軍に所属してから当たり前になっていた兵站が、一瞬で消えていた。

「まず、持ってるものを二人分として考えよう」

「はい」

「水は現地のものをすぐ飲まない。見たことのない植物も口にしない。暗くなってから森へ入るのも避けよう」

「兄様」

「何?」

「ちゃんと慎重ですね」

「お前まで言うの?」

「ベルガにいる皆さんが同じこと言ってましたから」

「帰ったらHoundから順番に文句言う」

 ルナが小さく笑った。

「帰ったら、ですね」

 その言葉に、レイブンも僅かに笑う。

「ああ。帰ったらだ」

 帰れる保証はない。

 そもそも、ここがどこなのかさえ分からない。

 だからこそ、帰るという目標だけは曖昧にしなかった。

「今日は移動しすぎない。夜を越せる場所を探して、手元にある装備と食料を確認する。明るくなったら川と建物を調べる」

「川は私が見ます」

「頼む」

「兄様は?」

「周辺警戒。それと、あの森」

 黒い木々の向こうから低い鐘の音が届いた。

 二人が同時に顔を上げる。

 自然の音ではない。

 誰かが鳴らした音だった。

「文明はあるみたいですね」

「たぶんな」

「『帰りたい』って言った人も?」

「いるかもしれない」

 レイブンはすぐに立ち上がらなかった。

「でも今日は行かない」

「了解です」

 紫色の空には、二人の知らない星が淡く浮かび始めていた。

 風が黒い川の水面を揺らし、その冷たさを兄妹のところまで運んでくる。

 この世界がどこにあるのかも、なぜレイブンとルナだけが引き込まれたのかも、四十キロ近く離れた二地点からどうして同じ場所へ到達したのかも分からない。

 ただ、自分たちが帰還路を失ったという事実だけは理解できた。

 レイブンは妹の隣へ座った。

「ルナ」

「はい?」

「怖い?」

 少しの沈黙の後、ルナは正直に頷いた。

「怖いです。兄様は?」

「怖いよ」

 即答だった。

 ルナが少し驚いたように兄を見る。

「怖くないふりしても腹は減るし、弾は増えないし、帰り道も出てこないからな」

「兄様らしくないような、兄様らしいような答えですね」

「父さんなら、怖いことより怖くないふりする方を怒ると思う」

「それは間違いないです」

 二人は小さく笑った。

 その笑い声が消えると、黒い川が流れる音だけが残った。

 元の世界では、エリシアたちがすでに捜索を始めている。

 こちらでは、レイブンとルナが生き延びるための最初の夜を迎えようとしていた。

 後に《クロウ兄妹異界失踪事件》と記録される出来事は、この夜を境に二人の人生を大きく変えていく。第二次異界大戦のただ中で正規軍の支援から切り離された兄妹は、この先で異界生活を送り、その経験が異界先攻防戦へと繋がっていく。そして長い戦史はそこで終わらず、帰還後の第三次異界大戦、さらに第四次異界大戦へと続いていくことになる。

 けれども、今の兄妹に後世の記録など関係なかった。

 必要なのは、まずこの夜を越えることだった。

「兄様」

「ん?」

「帰りましょうね」

 レイブンは妹の白い猫耳が夜風に揺れるのを見ながら、静かに頷いた。

「ああ。二人で帰る」

 父ヴァルターから幾度となく教えられた「生きて帰れ」という言葉は、それまで戦場から基地へ戻るための教えだった。

 しかし今、帰るべき世界そのものから切り離された二人にとって、その言葉は初めて別の重さを持ち始めていた。

 帰還路が存在しないのなら、生き延びながら探す。

 自分たちだけで見つからないのなら、この世界を知る誰かを探す。

 そして元の世界で待っている者たちのところへ、二人で帰る。

 紫色の空の下で始まったクロウ兄妹の異界生活は、後にNoXとNyxの生き方そのものを変える長い時間の、まだ最初の夜にすぎなかった。

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