Season 6「門の彼方へ」 #103
第103話「向こう側からの視線」
ベルガ東方の橋で空間の裂け目が消失してから一夜が明けても、街には戦闘の痕跡が色濃く残っていた。朝の冷たい風が瓦礫の間を抜けるたびに乾いた土埃が舞い上がり、その向こうではDVERGRの工兵車両が崩れた道路を均し、BIFROSTの輸送車列が食料や医薬品、燃料を運び込んでいる。IDUNNが設けた臨時医療区画には救出された住民が次々と運ばれ、連邦共和国軍は修復されたばかりの交差点や街道へ警戒線を広げていた。
Operation HOMECOMINGによってベルガは奪還された。
しかし、街を取り戻したという事実と、そこに暮らしていた人々が以前と同じ生活へ戻れることは同じではない。破壊された家屋を直し、水と電力を戻し、負傷者を治療し、途切れた道路を繋ぎ直さなければ、地図の上で国旗を塗り替えただけに終わる。
それを誰より理解しているからこそ、レイブン・S・クロウ〔無名〕は東へ逃れた敵を追わなかった。
ゲルハルト・フォン・バルツァー《鉄血の伯爵》が街道の先で待っている可能性は高い。彼はすでにFENRIRの強さが個々の兵士や兵器だけにあるのではなく、情報、兵站、医療、工兵、航空、水上戦力を一つの作戦へ繋げられることにあると理解し始めている。
ならば、こちらも同じ戦い方を続けるわけにはいかなかった。
それ以上に、レイブンには確認しなければならないものがあった。
ベルガ旧市庁舎地下へ移されたHUGINNの前進解析室では、昨日の戦闘で記録された映像が大型表示板に映し出されている。
橋の近くで空間が歪み、景色そのものを引き裂くように紫色の空と黒い森が姿を現した後、その奥で巨大な何かが動いている。映像そのものは数秒しか残っておらず、輪郭も不鮮明だったが、門が閉じる直前にレイブンが感じた敵意だけは、映像を見直しても説明できなかった。
「ここで止めて」
ノア・ヴェルナー《Cipher》が再生を止める。
ガイル・ベッカー《Hound》がレイブンの肩越しから画面を覗き込み、しばらく目を凝らしてから腕を組んだ。
「昨日から何度見ても、俺にはでかい岩にしか見えねえんだけどな」
「俺にも姿までは分からないよ」
「だったら、どうして見られたと思った?」
「門が閉じる直前にアタック・シールドが反応した」
レイブンは黒い影の一角を指した。
〔殺気看破〕は未来を予測する能力ではなく、周囲に存在する敵意や攻撃へ移る兆候をレイブン自身の感覚へ伝えるものだった。疲労や地形、相手の性質によって感知精度も変化し、敵意を持たない攻撃や未知の現象まで都合よく知らせてくれるわけではない。
だからこそ、レイブンは門が閉じる瞬間に感じたものを軽視できなかった。
「異界軍だった可能性は?」
「ある。でも、門の向こうからだった可能性も捨てられない」
「確かめに行くとか言うなよ」
ガイルが釘を刺すと、レイブンは横目で彼を見た。
「言ってないだろ」
「昔のお前なら、もう装備持って門へ入ってる」
「俺を何だと思ってるんだ」
「放っておくと敵陣の奥まで歩いていく黒猫」
「否定できないところだけ選ぶなよ」
ノアが小さく笑いながら、別の観測記録を画面へ重ねた。
「二人とも、今はこっちの方が重要だよ。橋の空間異常は消えたけど、発生地点の魔力背景値が元へ戻ってない」
表示された波形の横には、ベルガ市立病院地下で記録された数値も並んでいる。
発生時の規模こそ異なるが、空間が閉じた後も周囲に変化が残っている点は共通していた。
「門が開いた痕跡?」
「そう考えるのが自然だと思う。傷跡って呼んだ方が近いかもしれないけどね」
ガイルが顔をしかめる。
「世界にも傷が残るのかよ」
「比喩だよ」
「分かってるって」
レイブンは表示された二つの波形を見比べた。
「過去の記録も調べられる?」
「HUGINNがもう始めてる。帝国軍だけじゃなく、連邦共和国軍と旧抵抗軍の観測記録も対象にしてるよ」
「仕事が早いな」
「誰かさんが後から思いついて仕事を増やすから、先にやる癖がついたんだよ」
「それ、俺のこと?」
「他にいる?」
レイブンが答えようとしたところで携帯端末が震えた。
『NoX、こちらValkyrie』
「聞こえてる」
『今、市庁舎?』
「Cipherたちと一緒にいるよ」
通信の向こうでエリシア・L・クロウ〔戦乙女〕が一瞬だけ黙った。
『すぐIDUNNへ来て。ルナが倒れた』
レイブンの表情から笑みが消えた。
「いつ?」
『数分前。意識は戻ってるけど、川から回収した魔導具の解析中に突然倒れたの』
「分かった。すぐ行く」
通信を切ると同時にレイブンは出口へ向かったが、左腕に残った鈍い違和感が足を止めさせた。
ベルガで負った傷は、普通ならまだ固定されていてもおかしくない。ところが傷口そのものはすでに塞がり、腕も動かせるところまで回復している。
レイブン自身も、それを単なる亜人種の回復力だけでは説明できないことに気づいていた。
死なない身体。
老いない身体。
それは後になってNoX、Valkyrie、Nyxという三人の存在を決定的に変える性質として理解されていくが、不老不死であることは痛みも疲労も負傷も消えるという意味ではなかった。身体を破壊されれば戦えなくなり、意識を失えば指揮もできず、回復に時間を要する間に仲間が死ぬことさえある。
死なないことと、負けないことは違う。
その現実だけは、どれほど年月が過ぎても変わらなかった。
「NoX」
背後からガイルが呼ぶ。
「何?」
「走るなよ」
「妹が倒れたんだぞ」
「意識は戻ったってValkyrieが言ってただろ。お前まで転んでSageの患者になったら、俺たちが怒られる」
レイブンはしばらくガイルを見た後、諦めたように歩き出した。
「最近、みんな俺を父さんと同じ扱いにしてない?」
「教官時代のヴァルターさんより手が掛かると思ってる」
「それ本人には言うなよ」
「絶対言う」
父なら何と言うだろうと考えながら、レイブンはIDUNNの医療区画へ向かった。
おそらく答えは聞かなくても分かる。
焦って自分まで倒れるな。
そして何があっても、生きて帰れ。
◇
IDUNNの臨時医療区画へ入ると、ルナ・S・クロウはすでに寝台の上で身体を起こしていた。
白い猫耳は普段どおり動いているものの、顔には僅かな疲労が残っている。その隣ではエリシアが椅子に座り、義妹が勝手に立ち上がらないよう目を光らせていた。
「ルナ」
「兄様」
「大丈夫?」
「その質問、義姉様からもう三回されました」
「じゃあ四回目」
「大丈夫です」
「三十秒近く意識を失っておいて大丈夫とは言わせないわよ」
エリシアの言葉で、レイブンの表情が変わった。
「三十秒?」
「はい」
フィーナ・アルベル《Sage》が検査記録を持って近づいてくる。
「今のところ生命兆候に異常はありません。ただ、魔導具の解析を始めた直後に体温と魔力循環が一時的に変化しています」
「俺たちが門の近くで感じたものと同じ?」
「似ていますが、現段階では同じ現象とは断定できません」
フィーナはそこを曖昧にしなかった。
レイブンは妹を見る。
「何してた?」
「昨日、川から回収した魔導具をHUGINNとFalconが調べていました。私はSTYX側から回収時の状況を説明していただけです。魔導具には直接触れていません」
「倒れる前は?」
「胸が熱くなりました。その後は……」
ルナが言葉を止める。
「何か見た?」
兄の問いに、彼女は少し迷ってから頷いた。
「夢だと思っていました」
「どんな?」
「川です」
エリシアもルナを見る。
「昨日の橋?」
「違います。水が黒く見えて、流れているはずなのに水面がほとんど動いていませんでした。その向こうに森があって、空は紫色でした」
レイブンとエリシアが視線を交わした。
橋の向こうで見た風景と一致している。
「川の向こうには建物もありました。石造りでしたけど、帝国とも連邦共和国とも違います。それから……誰かがいたような気がします」
「敵?」
「分かりません」
「何かされた?」
「いいえ。ただ、向こうへ来いと言われているような感じがしました」
「声が聞こえたの?」
「声じゃありません。もっと直接、頭の奥へ触れられたような……」
レイブンの黒い猫耳が僅かに伏せた。
「行くなよ」
「分かってます」
「本当に?」
「兄様じゃないんですから、知らない世界へ一人で飛び込んだりしません」
「俺だってそんなことしない」
エリシアが無言で夫を見る。
ルナも兄を見る。
「……今はしない」
レイブンが言い直すと、ようやくルナが少し笑った。
フィーナはその様子を見ながらも、医療担当として話を戻した。
「NoXも他人事じゃありません。左腕の回復速度は明らかに通常範囲を超えていますが、筋力と感覚が完全に戻ったわけではありません。実戦に入るなら、動くから治ったとは考えないでください」
「分かってる」
「本当に?」
「今日それ何回聞かれるんだよ」
「必要な回数だけです」
レイブンは左腕を軽く動かした。
ベルガでは、その腕の負傷によって普段の再装填が崩れた。
帝国軍とNoXが用いる装填区分では、平常時に行う〔通常装填〕と、交戦の切れ目に即応可能な状態を維持しながら次の接触へ備える〔戦術装填〕、そして腕など射手自身の身体に問題が生じ、普段の装填動作そのものが遅延した場合に対処する〔非常装填〕を明確に分けている。
名称そのものより重要なのは、自分の身体と武器が今どの状態にあるのかを正しく判断することだった。
それは父ヴァルターから叩き込まれた考え方でもある。
後にレイブン自身が教官となった時、彼は父の時代から残る訓練方式をそのまま保存する道を選ばず、異世界との交流で得られた新しい歩兵訓練や部隊運用を架空教本へ再構築し、射撃だけでなく負傷時の装填、ナイフを含む近接戦闘、実戦的な格闘、部隊間連携まで教育体系へ取り込んでいくことになる。
だが、その時代が来ても父から受け継いだ一つの原則だけは捨てなかった。
兵士に死ぬ覚悟を誇らせるのではなく、生きて帰る努力をさせる。
その思想こそ、後のNoXという教官の根に残り続けるものだった。
◇
午後になると、ベルガ旧市庁舎地下のFJTF前進司令所ではOperation HOMECOMINGの次段階について協議が始まった。
東へ続く街道は依然として使用可能だったが、それ自体がゲルハルトの仕掛けた誘導である可能性がある。橋を破壊せず、道路を残し、FENRIRが進みやすい経路を意図的に作ることで、工兵、輸送、医療、航空、そして戦闘部隊を一つの地域へ集めさせる。
近代軍の強さを理解した敵なら、その強さを逆用する。
レイブンは地図の上で東進経路を確認してから、ベルガの北と南へ視線を移した。
「東へ一直線に進むのはいったん止める」
「HOMECOMINGを止めるのか?」
ガイルが尋ねる。
「止めない。ベルガを点のままにしないだけだよ」
レイブンは周辺の集落を示した。
「北と南へ確保範囲を広げる。住民を救出しながら道路を復旧して、BIFROSTが使える経路を増やす。DVERGRには橋梁と水路も確認してもらう。帰還路を一本にしたら、敵の思う壺だ」
エリシアが地図を見ながら頷いた。
「敵がこちらの帰る道を戦場にするなら、こちらは帰れる道そのものを増やすのね」
「そういうこと」
「WOLF PACKは?」
「RATATOSKRと組んで北側を調べる。敵を見つけても追いすぎない」
「自分で言えるようになったのね」
「Valkyrieまでそれ言う?」
「成長を喜んでるのよ」
ルナが横から口を挟んだ。
「STYXは?」
「Drakeに現場指揮を任せる」
「私は?」
「今日は後方」
「兄様」
「作戦中」
ルナが言い直す。
「NoX。私は指揮可能です」
「Nyx。三十秒意識を失った指揮官を舟艇に乗せる許可は出せない。でも後方から水路情報を送るなら止めない」
予想していた全面禁止ではなかったため、ルナは一瞬言葉を失った。
「……いいんですか?」
「指揮官が必ず一番前にいなきゃいけないって考え方は、ベルガで捨てた」
エリシアが微笑んだ。
「やっぱり成長したわね」
「もういいって」
室内に小さな笑いが起こった。
その空気を切り替えたのは、HUGINNの解析結果を持って入ってきたノアだった。
「過去記録から見つかった」
「何が?」
「病院と橋に似た空間異常」
壁面地図へ複数の地点が表示される。
帝国領にもある。
連邦共和国領にもある。
旧抵抗軍の活動地域にも記録が残っていた。
「第一次異界大戦の後から?」
「それ以前の記録にも疑わしいものはあるけど、観測精度が足りない。比較できるのは第一次異界大戦以降だね」
第一次異界大戦でNoXとValkyrieたちは異界軍との本格的な戦争を経験し、現在の第二次異界大戦では、双方が前の戦争で得た経験を利用しながら兵器と魔術、組織と戦術を変化させている。そこへ新たに浮上したのが、これまで単なる観測異常として見過ごされてきた小規模な空間変動だった。
エミリア・R・ヴァレンシュタイン《Falcon》が地図へ発生時刻と魔力位相を重ねていく。
「地理だけで見ると無秩序です。でも時間軸を加えると違って見えます」
ルナが画面へ近づく。
「移動してる?」
「そう見えます。ただ、何が移動しているのかは分かりません」
「第二異界門へ向かってるわけじゃないのね」
エリシアの問いにエミリアが頷く。
「日本側の門とも一致しません。既知の門を中心に考えると説明できないんです」
レイブンが地図を見つめた瞬間、胸の奥に熱が生まれた。
思わず手を当てる。
隣にいたエリシアも同じ動きをした。
さらにルナの白い猫耳が鋭く立つ。
「兄様……私もです」
その直後、HUGINNの警報が鳴った。
ノアが即座に観測情報を開く。
「新規空間異常を検出。ベルガ北東、約四十キロ。山岳地帯を流れる大河の中流域!」
「継続時間は?」
「今も続いてる。病院や橋とは違う」
「規模は?」
「拡大中。でも第二異界門ほどじゃない」
ルナが立ち上がろうとして身体を僅かに揺らすと、エリシアがすぐに腕を支えた。
「座って」
「でも川ならSTYXが一番早いです」
「だからあなたが現場へ行かなくても、STYXを動かせるでしょう?」
ルナは一度目を閉じ、呼吸を整えてから地図へ視線を戻した。
「水路図を出してください」
大河と支流が表示される。
前日までの雨によって水位は高く、陸路では山を迂回しなければならない。
「BIFROSTで舟艇を上流側の支流まで運んで、そこからDrakeたちを入れます。増水しているので通常より慎重に航行させますが、陸路より先に西岸へ到達できます」
「それでいこう」
レイブンが頷いた。
「EINHERJARは周辺集落の救出準備をするわ」
エリシアも立ち上がる。
「WOLF PACKは先行して状況を確認する」
「確認だけか?」
ガイルが尋ねた。
「必要なら道も開く。ただし敵を追って門まで走るような真似はしない」
「なら安心した」
「信用なさすぎない?」
「信用してるから一緒に行くんだよ」
その返答に、レイブンは僅かに笑った。
◇
夕刻、BIFROSTの輸送車列がベルガ北東へ向かった。
STYXの小型舟艇を積んだ車両とEINHERJARの救助車両、IDUNNの医療支援車両が続き、WOLF PACKは前方で道路状況を確認する。上空ではSKYFALLが広域監視を行い、HUGINNが各部隊から届く情報を一つの状況図へまとめていた。
目的地へ近づくにつれ、山間を流れる大河が夕暮れの中に見えてくる。
レイブンは移動中に《RAVEN》の状態を確認した。
先の戦闘で消費した弾薬は補充され、機関部も整備されている。薬室を含めて即応状態を確認した後、レイブンは必要以上に操作を繰り返さなかった。戦闘が始まっていない今は通常の準備で足りる。戦闘の切れ目で次の接触に備える必要が生じればTacticalへ移り、身体的な負傷によって装填そのものが崩れた時だけEmergencyとして対処する。
分類は速さを競うためにあるのではない。
自分と武器の状態を誤認しないためにある。
〔兵器接続〕を通して、銃の状態が身体感覚へ馴染んでくる。
「腕は?」
向かい側のエリシアが尋ねた。
「まだ少し痛む。でも動く」
「無理はしないで」
「分かってる」
「その言葉、今日は何回目?」
「数えないでくれ」
エリシアが微笑んだところで、通信機からルナの声が届いた。
『NoX、Valkyrie。空間異常の継続時間が十五分を超えました』
「まだ拡大してる?」
『ゆっくりですが。それと川に異常があります』
「どんな?」
『上流からの流量は変わっていないのに、空間異常の周辺だけ流速が落ちています。まるで水だけが別の場所へ引かれているみたいです』
レイブンとエリシアが同時に前方を見る。
車列が峠を越えた。
山々の間を流れる大河が見える。
夕日を反射する水面の中で、一か所だけ光を返さない場所があった。
そこだけ水面が異様なほど静かだった。
そして川の中央では、薄い光の輪郭が縦に伸び、その内側にこちらとは違う空が見えている。
「停車」
レイブンが命じると、車列が距離を残したまま止まった。
エリシアも車外へ出る。
門の向こうには紫色の空と黒い森があり、その間を静かな川が流れている。
『兄様』
ルナの声が通信機から聞こえる。
『映像が届きました。私が見た場所です』
「間違いない?」
『はい。川も森も同じです』
エリシアが周囲の魔力へ意識を向けた直後、表情を変えた。
「レイブン、門だけ見ないで」
「何かある?」
「こちら側にも術式が広がってる。河岸沿いよ」
同じ瞬間。
〔殺気看破〕がレイブンへ警告を返した。
敵意は門の向こうからではない。
岩場と林の境界に複数存在する。
「接敵する。全員、遮蔽へ」
WOLF PACKの空気が即座に変わった。
Houndが右側へ移り、Grizzlyは車列を守れる位置を取り、LynxとHawkは敵の位置と奥行きを探る。CipherはHUGINNとの情報共有を維持し、EINHERJARは戦闘へ引き込まれないよう救助車両を後方へ下げた。
岩陰から魔力光が走り、車列の前方にある地面を抉った。
レイブンは車体を遮蔽にしながら《RAVEN》を構えたが、すぐには撃たなかった。
敵は出てこない。
こちらが前へ来るのを待っている。
「誘ってるな」
ガイルが言う。
「ああ」
「行くか?」
「行かない」
返答は早かった。
「敵が俺たちを学んでるなら、同じ手を二度食う理由はない」
その間にもEINHERJARは周辺集落の確認を始め、STYXは舟艇を水面へ降ろす前に河川の流れを調べている。
ベルガに残ったルナがDrakeへ指示を送る。
『流速が落ちている区画へ入らないでください。西岸の通常流域だけを使って回収経路を確保します。異常域は水深も流れも信用しないでください』
『了解、Nyx』
WOLF PACKは敵の位置を探りながら突破口を見極め、EINHERJARは戦場へ巻き込まれる住民を探し、STYXは戦闘が崩れた時にも戻れる水路を残す。
三部隊の役割は違っても、根底にある目的は変わらない。WOLF PACKが道を開き、EINHERJARが命を連れて帰り、STYXが帰還するための水路を確保するという思想は、誰か一人の強さではなく、互いの専門性が繋がることで初めて成立するものだった。 黒猫年代記_全話適用_統合コアバイブル_最新版
やがて門が大きく脈動した。
エリシアが振り返る。
「術式が変化してる!」
レイブンの胸を強い熱が走った。
『兄様!』
遠くベルガにいるはずのルナの声にも緊張が混じる。
『私にも来ています!』
「そこから動くな。現場へ来ようとするなよ」
『分かっています』
門の向こうで黒い森が揺れた。
前日に見た巨大な影が、木々の奥をゆっくりと横切っている。
しかしレイブンの視線を奪ったのは、それではなかった。
川岸に人影がいる。
遠すぎて顔も種族も分からない。
武器を持っているかさえ判別できない。
レイブンは引き金に触れたまま、その人物を撃たなかった。
アタック・シールドも反応していない。
人影がこちらへ腕を伸ばした。
攻撃ではない。
助けを求めるような動きだった。
「誰だ……?」
声が届く距離ではない。
それでも、人影はレイブンの声へ反応したかのように顔を上げた。
次の瞬間。
耳からではなく。
胸の奥へ。
何かが触れた。
『帰りたい』
レイブンの呼吸が止まった。
「レイブン?」
エリシアが夫を見る。
「今、声が聞こえた」
「何て?」
「帰りたいって」
通信機の向こうでルナが息を呑む。
レイブンは門を見つめた。
父ヴァルターから何度も聞かされた言葉が蘇る。
戦うことだけを目的にするな。
何を倒したかではなく、誰を帰せたかを忘れるな。
そして、自分も帰れ。
その教えはWOLF PACKの戦い方へ残り、やがてNoX自身が教官となった時にも、形を変えながら受け継がれていく。
「兄様」
ルナが呼ぶ。
「分かってる」
レイブンは一歩も門へ近づかなかった。
「今は入らない」
エリシアが彼を見る。
「助けを求めているとしても?」
「だからこそだよ。帰る方法が分からないまま入ったら、今度は俺たちまで救助対象になる」
「なら、調べるところからね」
「ああ」
『STYXも水域側から調べます』
「Nyxは後方から」
『分かっています』
門の向こうでは人影がまだこちらを見ている。
こちら側では、異界軍が再び岩陰を移動し始めていた。
第二次異界大戦は終わっていない。
第一次異界大戦を生き延びたNoXとValkyrieにとっても、これはまだ二度目の大戦のただ中にある一つの戦場だった。彼らはこの戦争を越えた後、異界先での戦闘を経験し、帰還した世界で第三次異界大戦を迎え、さらに長い年月の果てに第四次異界大戦へ立つことになるが、今の二人が知っている未来はそこまで遠くない。
目の前には守るべき人々がいる。
隣には仲間がいる。
そして、門の向こうには帰りたいと願う誰かがいる。
レイブンは《RAVEN》を構え直し、未知の世界へ背を向けるのではなく、そこへ至るまでの安全な道を確保するために河岸の敵へ意識を戻した。
「WOLF PACK、敵を門から切り離す。深追いはしない。こっちの帰還路を維持したまま動く」
「了解」
「Valkyrie」
「EINHERJARは集落の住民を確保する。戦闘には必要以上に入らないわ」
「Nyx」
『STYXは西岸に回収路を作ります。異常域には入れません』
「それでいい」
誰か一人が門へ飛び込むのではなく、それぞれが自分の役割を果たすために動き始める。
その判断こそ、ベルガまでの戦いでFENRIRが得たものだった。
けれども、レイブンとルナがどれほど帰還路を重んじても、やがてその二人自身が正規軍の支援も通信も兵站も届かない異界へ切り離される時が来る。
その時、兄妹が頼れるものは、手元に残った装備と互いの経験、未知の環境を読み取る感覚、そして父から受け継いだ「生きて帰れ」という言葉だけになる。
それはまだ少し先の出来事だった。
今はまだレイブンの隣にエリシアがいて、通信の向こうにはルナがいる。
しかし紫色の空を映す門は閉じようとせず、黒い川の向こうから伸ばされた手も消えなかった。
この日、彼らは初めて理解し始めていた。
《世界の狭間》は、こちらから開く扉だけではない。
向こう側にいる何者かもまた、その扉を開こうとしているのだと。




