Season 6「門の彼方へ」 #102
第102話「残された波形」
ベルガ奪還から三日が過ぎても、旧市立病院の地下は封鎖されたままだった。
患者と医療関係者の救出はすでに完了している。建物そのものもEINHERJARとDVERGRによって安全確認が進められ、倒壊の危険がある区画を除けば、いずれ医療施設として再利用できる見込みが立ち始めていた。
それでも地下の一角だけは、誰も自由に立ち入ることを許されていない。
そこには敵が残した術式がある。
そして何より、ほんの数秒とはいえ、ベルガでも日本でもない場所を映し出した空間の歪みがあった。
HUGINNが記録した波形は、既知の異界門と似ていた。
だが、同じではない。
「もう一回」
ノア・ヴェルナー《Cipher》が言った。
薄暗い解析室で、記録映像が最初まで戻される。
映っているのは病院地下の壁だった。
床に残された術式が淡く発光し、その光が複数の線となって一点へ集まる。直後、空間そのものが揺らぎ、その向こうに紫色の空と黒い岩、そして見覚えのない森が現れる。
映像上では三・七秒。
たったそれだけだった。
ノアは映像を止めた。
「やっぱり違う」
隣にいたエミリア・R・ヴァレンシュタイン《Falcon》が端末から目を上げる。
「何がです?」
「門の開き方」
「詳しく」
「日本側の門も第二異界門も、空間異常が先に発生してから境界が安定してる。でも、これは逆だ。術式が境界を強引に指定して、そのあと空間を開こうとしてる」
エミリアが表示を拡大する。
「つまり自然発生型ではない?」
「そこまでは言えない」
ノアは首を横へ振った。
「そもそも既存の門が自然発生なのかさえ分かってないから。ただ、少なくとも病院のこれは誰かが意図的に組んだ」
「異界軍が?」
「それも断定できない」
「相変わらず慎重ですね」
「間違った答えを早く出すよりいいよ」
「それは同意します」
エミリアは術式の一部を指した。
「STYXが回収した魔導具との比較は?」
「やってる」
画面が切り替わる。
河川から回収された石状の魔導具に刻まれていた模様と、病院地下の術式が並べて表示された。
完全一致する箇所はない。
それでも、魔力を外部へ放出するのではなく、特定の方向へ偏らせる構造には共通点があった。
「同じ技術体系かもしれない」
ノアが言った。
「病院では空間に、水路では生物に作用した?」
「まだ仮説」
「十分です。仮説がなければ試験もできません」
エミリアは資料を閉じた。
「問題はもう一つあります」
「三人?」
「ええ」
ノアの表情が僅かに曇る。
レイブン。
エリシア。
そしてルナ。
三人とも異界門や、それに似た現象へ接近した際に身体的な反応を示している。
それぞれの反応の程度には差がある。
しかし偶然として片付けるには、すでに回数が多すぎた。
「本人たちには?」
「伝えてある」
「反応は?」
「NoXは『そうなんだ』って」
エミリアの眉が動く。
「それだけ?」
「そのあとValkyrieに怒られてた」
「でしょうね」
「Nyxは自分から検査を申し出た」
「兄より優秀ですね」
「それ本人の前で言わない方がいいよ」
「本人にも言います」
ノアは苦笑した。
だが、その表情はすぐに消えた。
「Falcon」
「何です?」
「これが敵の技術なら、次はもっと大きくなると思う?」
エミリアは答えなかった。
数秒間、病院地下の波形を見つめる。
「大きくする必要があるとは限りません」
「どういうこと?」
「小さいから危険なんです」
ノアが彼女を見る。
「今まで異界門は隠せませんでした。大規模な空間異常が発生し、観測網にも引っ掛かる。だから門が開けば、こちらは準備する時間を得られた」
エミリアは三・七秒の記録を示した。
「でも、これが小規模なまま任意の場所へ接続できるなら、その前提が崩れます」
ノアの表情から完全に笑みが消えた。
「基地の中にも?」
「可能性だけなら」
「……最悪だな」
「ええ。ですから、可能性の段階で調べます」
その時。
解析室の扉が開いた。
「呼んだ?」
レイブン・S・クロウ〔無名〕だった。
その後ろにはエリシア・L・クロウ〔戦乙女〕と、ルナ・S・クロウ〔夜〕もいる。
エミリアが三人を見る。
「ちょうどよかったです」
「嫌な言い方だな」
「検査です」
「帰っていい?」
「駄目です」
「まだ何もしてないのに」
エリシアがレイブンの背中を押した。
「諦めなさい」
「Valkyrieは平気なの?」
「私も受けるわよ」
「Nyxは?」
「もう受けました」
レイブンが妹を見る。
「裏切り者」
「兄様が遅いだけです」
ルナの白い猫耳が僅かに動く。
「それと兄様」
「何?」
「腕、治ってますよね?」
「ほとんど」
「三日前ですよ?」
その一言で空気が変わった。
レイブンも冗談を止めた。
包帯はすでに外されている。
傷跡は残っているが、普通なら三日でここまで回復する負傷ではなかった。
エリシアにも同じ傾向がある。
そしてルナにも。
これまでは個人差や魔力適性、亜人種特有の回復力として処理できた。
だが、門に対する三人の反応と重ねれば、話は変わってくる。
「始めましょう」
エミリアが静かに言った。
「今度は、戦争とは別の意味であなたたち三人を調べる必要があります」
三人は知らない。
自分たちの身体に起きている変化が、いずれ不老不死という言葉で呼ばれることを。
そしてその変化が、まだ完成していないことも。 黒猫年代記_全話適用_統合コアバイブル_最新版
◇
同じ日の午後。
Operation HOMECOMINGの前線はベルガ東方で停止していた。
敵が残した橋をすぐには渡らないというレイブンの判断は、FJTF統合司令部でも支持されていた。
その代わり、RATATOSKRが遠距離偵察を続け、HUGINNが敵の伝令経路を分析し、SKYFALLは有人機だけでなく無人観測機を使って街道周辺の地形変化を記録している。
敵が待っているなら。
こちらも急がない。
それが《鉄血の伯爵》に対する最初の回答になった。
ベルガ東方の丘陵地帯では、ミレイア・フェルン《Lynx》が双眼鏡を下ろした。
「やっぱりいる」
隣で伏せていたヨハン・リヒター《Hawk》が尋ねる。
「どこ?」
「橋の向こう。森の境目」
ヨハンが光学照準器を向ける。
敵兵らしい姿は見えない。
「見えないぞ」
「人じゃない」
「じゃあ?」
「木」
ヨハンが僅かに眉を寄せた。
言われて初めて気づく。
森の一部だけ、樹木の並びが不自然だった。
伐採された木を別の場所へ移し、地形そのものを偽装している。
「陣地か」
「たぶん」
「砲兵?」
「そこまでは分からない」
ミレイアは無線機へ手を伸ばす。
「LynxよりCipher。橋の東側に偽装陣地らしきものを確認。座標送る」
『受信』
「それと、もう一つ」
『どうぞ』
「橋の手前に誰かいる」
今度は人だった。
武装していない。
老人。
その後ろには女性と子供もいる。
連邦共和国の住民と思われる。
ヨハンの表情が変わる。
「避難民?」
「違う」
ミレイアは双眼鏡を動かした。
森。
橋。
住民。
そして、その配置。
「置かれてる」
敵は民間人を殺していない。
逃がしてもいない。
橋の西側へ集めている。
こちらが救出へ向かうことを知っているかのように。
「NoXに送って」
『もう繋いでる』
数秒後。
レイブンの声が入った。
『Lynx。住民の状態は?』
「衰弱はしてる。でも歩ける人もいる」
『敵との距離は?』
「見える範囲にはいない」
『見える範囲には、か』
「うん」
レイブンはしばらく黙った。
『近づかないで』
「了解」
『Hawkも撃つな。敵が見えても、向こうから攻撃されるまでは位置を残して』
『了解』
ヨハンが応じる。
通信が切れた。
「助けないのか?」
ヨハンが尋ねた。
「助けるよ」
ミレイアは橋を見る。
「でも、今走ったら敵の思い通りになる」
WOLF PACKが道を開く。
EINHERJARが人を救う。
STYXが帰還路を作る。
その原則を。
敵も知り始めていた。 黒猫年代記_全話適用_統合コアバイブル_最新版
◇
ベルガの指揮所では、レイブンが送られてきた画像を見ていた。
「露骨になってきたな」
ガイル《Hound》が言う。
「俺たちなら助けに来ると思ってる」
「間違ってない」
レイブンは答えた。
「行く?」
「行く」
「即答かよ」
「ただし、向こうが考えてる行き方では行かない」
地図を広げる。
街道をそのまま東へ進めば橋に着く。
だが南には河川があり、ベルガでSTYXが確保した水路と繋がっている。
北側には丘陵地帯が広がり、RATATOSKRが偵察を続けている。
「Valkyrie」
『聞いてる』
「正面から救出隊を見せられる?」
『囮にするの?』
「違う。敵が期待してる形を見せる」
エリシアは意図を理解した。
『その間にWOLF PACKが回る?』
「半分だけ」
『半分?』
「俺が全部やると、また怒られるから」
エリシアの声に僅かな笑いが混じった。
『ようやく分かってきたじゃない』
「誰のおかげだろうな」
『私とSage』
「父さんも入れて」
『あとNyx』
「俺以外全員じゃないか」
『そうね』
レイブンは苦笑しながら、別回線を開いた。
「Nyx」
『はい、兄様……じゃなくてNoX』
「勤務中」
『言い直しました』
「南から橋へ近づける?」
ルナはすぐには答えなかった。
地図ではなく。
水位、流速、川幅、河岸の状態を確認している。
彼女の戦場は、レイブンとは違う。 黒猫年代記_全話適用_統合コアバイブル_最新版
『大型艇は無理です。でも小型なら上流側の支流へ入れます。ただ、昨日回収した魔導具と同じものがある可能性を考えたいです』
「アビス・クラーケン?」
『それだけじゃありません。水そのものを使って誘導される可能性もあります』
「なら無理はしない」
『でも行けます』
「どっち?」
『行けるけど、今までと同じ行き方はしないという意味です』
レイブンが笑った。
「兄妹だな」
『嫌です』
「即答?」
『兄様の無茶まで似てると思われたくありません』
「傷つくなあ」
『Valkyrieに言いますよ』
「作戦の話に戻ろう」
ルナの笑い声が通信に残った。
すぐに。
声がNyxへ戻る。
『STYXは南から観測と回収経路を作ります。敵が水域へ何か置いていた場合は、無理に突破しません』
「了解」
最後にノアを見る。
「Cipher。HUGINNとRATATOSKRを繋いで。敵の通信だけじゃなく、伝令が走った場所を全部残して」
「了解」
「GUNGNIRには撃つ準備だけしてもらう。こっちから撃たない」
「TYRは?」
「待機。大物が出た時だけ」
「SKYFALL?」
「上から見ててもらう。でも低く降ろさない」
ガイルが地図を見ながら尋ねた。
「慎重だな」
「相手が俺たちを学んでるからな」
レイブンは橋を見る。
「だったら、こっちも一回くらい期待を裏切らないと」
◇
夕刻。
橋の西側へ。
EINHERJARの車両が姿を現した。
ゆっくりと。
住民たちから見える場所へ進む。
エリシアは先頭車両の中にいた。
「反応は?」
「まだありません」
「住民は?」
「こちらに気づいています」
助けを求めている。
だが。
走ってこない。
走れば何が起きるのかを知っているのだろう。
エリシアは胸の奥に湧いた焦りを押さえる。
助けたい。
今すぐ行きたい。
だからこそ。
敵はそこへ置いた。
「待つ」
彼女は命じた。
EINHERJARは動かない。
数分。
さらに数分。
敵にも動きがない。
その間に。
北の丘陵地帯ではRATATOSKRが偽装陣地を一つずつ確認していた。
南ではSTYXの小型艇が河岸の陰へ入り、橋脚下流の水中を調べている。
そして。
WOLF PACKは。
正面にはいなかった。
レイブンは〔透明〕を使っていない。
敵がそれを待っている可能性があるからだ。
代わりにLynxが見つけた地形の死角を使い、HoundとGrizzlyを伴って北側から接近していた。
Hawkはさらに後方。
SageはEINHERJAR側に残した。
全員で同じ場所へ入らない。
それもまた。
敵の期待を外すためだった。
レイブンの〔兵装接続〕がISG-42A3《RAVEN》の状態を伝えてくる。
装填状態。
作動。
残弾。
それ以上の奇跡は起こさない。
武器の性能を無限に高める能力ではなく、今手にしている兵器を正確に理解し、自分の感覚へ繋げるためのものだった。 黒猫年代記_全話適用_統合コアバイブル_最新版
レイブンは立ち止まる。
前方。
草の陰。
細い糸のようなものが見えた。
「Hound」
ガイルも気づいた。
「見えてる」
魔法ではない。
単純な仕掛け。
だからこそ。
ゴーストでは抜けられない。
足を掛ければ終わる。
「伯爵さん、嫌な性格してるな」
ガイルが囁く。
「まだ本人だって確定してない」
「じゃあ仮伯爵」
「何だそれ」
レイブンは僅かに笑った。
その時だった。
耳が動く。
遠くから。
金属の音。
殺気ではない。
だからアタック・シールドは反応しない。
しかし。
レイブン自身の聴覚が拾った。
「伏せろ」
三人が身を沈める。
直後。
丘の向こうから。
何かが放たれた。
砲弾ではない。
矢でもない。
空中へ上がった物体が。
橋の上空で破裂した。
黒い煙が広がる。
「煙幕?」
Grizzlyが見る。
レイブンは首を振る。
「違う」
煙が。
風に逆らって動いている。
魔力。
「Valkyrie!」
『見えてる!』
エリシアの声が返る。
『魔術煙幕。視界だけじゃない、魔力観測まで乱してる!』
同時に。
南からルナの声。
『NoX、水中に反応!』
「怪物?」
『違います。複数の魔導具が起動しました!』
橋の周囲で。
水面が変わる。
流れが。
不自然に速くなった。
STYXの小型艇が押される。
『Marlin、下がって! 無理に船首を向けないで、流れに合わせて離脱!』
ルナは敵へ向かわない。
まず舟艇を生かす。
退路を失わない。
その判断は、STYXが後に異界水域で磨き上げていく教義へ繋がる原型でもあった。 黒猫年代記_全話適用_統合コアバイブル_最新版
橋の東。
森が動いた。
偽装されていた敵兵が姿を現す。
だが。
こちらへ突撃してこない。
住民たちへも向かわない。
「NoX」
ガイルが気づく。
「あいつら、下がってるぞ」
レイブンも見た。
敵は。
戦うために出てきたのではない。
見せるために出てきた。
自分たちがどこにいるか。
何ができるか。
こちらがどう反応するか。
「観察されてる」
レイブンが呟く。
「俺たちがどう動くか見てるんだ」
『NoX!』
エリシアの声。
『住民の近くで術式反応!』
レイブンの表情が変わった。
「何の?」
『病院と同系統!』
時間が。
止まったように感じた。
橋。
民間人。
敵の偽装陣地。
水中の魔導具。
そして。
空間術式。
「全隊」
レイブンが通信を開く。
「救出を優先。ただし橋には乗るな」
ガイルが見る。
「どうやって?」
「向こうに来てもらう」
レイブンはエリシアへ繋ぐ。
「Valkyrie。住民を走らせられる?」
『こちらから合図する。でも途中で術式が起動したら――』
「その時は止める」
『分かった』
「Nyx」
『聞いてます』
「西岸に回収地点を作って」
『もう作ってます』
レイブンが一瞬黙る。
「早いな」
『妹なので』
「さっき嫌って言っただろ」
『今は作戦中です』
こんな時でも。
ほんの僅かに笑える。
だから。
恐怖に飲まれない。
「始める」
◇
EINHERJARが動いた。
エリシアは前へ出ない。
拡声装置を使って住民へ指示を送る。
走らせない。
互いに支えながら。
西へ。
ゆっくり。
敵が求める混乱を起こさない。
最初の老人が歩く。
女性が続く。
子供が。
その手を握る。
十メートル。
二十メートル。
敵は撃たない。
WOLF PACKも撃たない。
水上ではSTYXが異常な流れを避けながら、万一住民が河川側へ落ちた場合の回収位置を維持している。
RATATOSKRは敵の位置を送り続け。
HUGINNはその情報を全隊へ繋ぐ。
SKYFALLは高高度から戦場全体を見ている。
そして。
住民の最後尾が。
橋から十分に離れた瞬間。
空間が歪んだ。
レイブンとエリシア。
そして河上のルナが。
同時に胸元へ手を当てた。
「来る!」
三人の声が。
ほとんど重なった。
住民のいた場所で。
光が走る。
病院地下より大きい。
しかし。
第二異界門よりはるかに小さい。
空間が裂ける。
向こう側に。
紫色の空が見えた。
黒い森。
岩山。
そして。
何かが。
こちらを見ていた。
人ではない。
巨大な影。
次の瞬間。
門は閉じた。
戦場に。
沈黙が戻る。
「……今の」
ガイルが呟く。
レイブンは答えなかった。
胸の熱が。
消えない。
エリシアも。
河上のルナも。
同じだった。
そして。
初めて。
レイブンの〔殺気看破〕が。
遅れて反応した。
橋の向こうではない。
敵兵でもない。
たった今閉じた。
空間の向こう側から。
背筋を這うような敵意が。
一瞬だけ。
届いた。
レイブンの顔から。
完全に笑みが消えた。
「NoX?」
ガイルが呼ぶ。
「……見られた」
「何?」
レイブンは。
閉じた空間を見つめる。
「俺たちが見たんじゃない」
その言葉を。
ノアも。
エリシアも。
ルナも聞いていた。
「向こうも、俺たちを見た」
◇
遠く東方。
《鉄血の伯爵》ゲルハルト・フォン・バルツァーの前にも報告が届いていた。
「観測は?」
「成功しました」
「黒猫は?」
「術式起動直前に行動を変更。民間人の救出には成功しております」
「そうか」
「作戦は失敗です」
若い将校が言った。
老将は首を横へ振る。
「何をもって失敗とする?」
「敵を殺せませんでした」
「殺すことが目的ではない」
ゲルハルトは地図を見る。
「黒猫は門へ反応したか?」
「はい」
「銀白の女は?」
「同様です」
「白猫の娘も?」
「水上観測班の報告では、ほぼ同時刻に動きを止めたと」
老将は。
長く黙った。
「三人か」
「閣下?」
「記録しておけ」
彼はベルガではなく。
さらに東。
第二異界門の向こう側を示す記号へ目を向けた。
「我々が知るべき相手は、FENRIRだけではないらしい」
◇
夜。
救出された住民たちはベルガへ戻された。
死者は出なかった。
橋も渡らなかった。
敵の罠にも深入りしなかった。
戦術だけを見れば。
FENRIR側の勝利だった。
だが。
レイブンは眠れなかった。
仮設宿舎の外で。
一人。
夜空を見ている。
「やっぱりいた」
声で分かる。
エリシアだった。
「寝てないの?」
「あなたもでしょう」
「俺は見張り」
「当番じゃないでしょ」
「……眠れなかった」
エリシアが隣へ立つ。
「私も」
少しして。
もう一つ足音が聞こえた。
「兄様」
「Nyxも?」
「今はルナです」
「そうだった」
三人が並ぶ。
誰も。
すぐには話さなかった。
やがて。
ルナが尋ねる。
「あの場所、どこなんでしょう」
「分からない」
レイブンが答える。
「でも異界だと思う?」
「たぶん」
エリシアが静かに言った。
「第二異界門の先とも限らないわ」
「うん」
門は。
一つの世界と一つの世界だけを繋いでいる。
そう考えていた。
だが。
日本へ繋がる門が現れ。
第二異界門が現れ。
そして今。
別の場所を映す小さな境界が出現した。
世界は。
自分たちが考えていたより。
ずっと広いのかもしれない。
「兄様」
「何?」
「もし、向こうへ行くことになったら」
レイブンは妹を見る。
「帰ってくるよ」
「まだ何も言ってません」
「顔に書いてある」
「猫だからって何でも分かると思わないでください」
「妹だから」
ルナが少しだけ頬を膨らませる。
エリシアが笑った。
「じゃあ私も言っておく」
レイブンが彼女を見る。
「何?」
「どこへ行っても帰ってきて」
その言葉だけは。
冗談にできなかった。
父ヴァルターからも。
何度も言われてきた。
どこへ行こうが。
何と戦おうが。
何年かかろうが。
帰ってこい。
レイブンは。
静かに頷いた。
「分かってる」
しかし。
この時の三人は知らなかった。
やがて第二次異界大戦の戦場で発生する一つの異常が、レイブンとルナをこの世界から消失させることを。
後に《クロウ兄妹異界失踪事件》と呼ばれるその出来事によって、兄妹は正規軍の支援も、FENRIRの兵站も、仲間との通信も届かない異界へ取り残される。
そこで二人が経験する異界先攻防戦は、WOLF PACKが道を開き、STYXが帰還経路を確保するという後世の戦術思想をさらに深く刻み込むことになる。 黒猫年代記_全話適用_統合コアバイブル_最新版
そして。
それはまだ。
少し先の話だった。
今は。
三人とも同じ世界にいる。
レイブンの隣にはエリシアがいて。
その反対側にはルナがいる。
ベルガには仲間がいる。
西には家族が待っている。
東では敵が待っている。
そのさらに向こうには、まだ名前すら知らない世界がある。
この時、彼らが初めて知ったのは、境界とは世界を隔てるだけの壁ではなく、条件さえ揃えば誰かが越え、あるいは向こう側から何かが渡ってくることのできる扉なのかもしれない、ということだった。
そして、その扉の先に広がる《世界の狭間》が、やがてクロウ兄妹の運命を大きく変えることを、三人はまだ知らなかった。




