第二章:名前という名の細い糸
大学1年生の春。上京したばかりの私は、大学近くの小さな古着屋でアルバイトを始めた。そこで、「葵」に出会った。
彼は、雨の日にふらりとやってきた。濡れた髪を軽く拭いながら、熱心にヴィンテージのシャツを選んでいる。その立ち姿や、服に触れる指先の繊細さに、私の目は釘付けになった。会計の時、差し出されたクレジットカードの署名を見て、私は彼の名前を知った。彼もまた、私の胸元の名札を見て、私の名前を口にした。
私達が交わしたのは、本当にその名前だけだった。どこの大学に通っているのか、何歳なのか、どんな生活をしているのか。お互いの背景を何一つ知らないまま、ただ名前という細い糸だけで繋がっていた。それはまるで、激しい濁流に飛び散る、一ひらの紅葉のようだった。
互いの素性も知らぬまま、ただ名前という存在だけで惹かれ合い、寄り添う。私の激しい情熱の川に、彼の存在が鮮やかに飛び込んできたのだ。そしてその瞬間、私のなかに強烈な衝動が駆け抜けた。彼の白い肌、濡れた髪、差し出された指先。それらを取り巻く空気のすべてを、圧倒的な「赤」で塗り潰したい。彼という存在を私の世界に迎えた喜びと、彼を自分の手で表現したいという狂おしいほどの渇望が、私に「赤をモチーフにした作品を作りたい」と思わせた。
彼に出会うまで、私の絵にはこれほど明確な色彩の軸はなかった。彼こそが、私のなかの眠れる赤を目覚めさせたのだ。私たちは、互いの境界線を失うほど深く結ばれた。誰かを好きになることも、誰かに肌を許すことも、私にとっては彼が初めてだった。真っ白で何も知らなかった私の世界が、彼という存在によって一瞬で真っ赤に染め上げられていった。それはまさに、川の清流が、一瞬にして唐紅の絞り染めのように染まっていく景色そのものだった。それまでのどの時代でも聞いたことがないほどの、鮮烈で、狂おしい恋だった。




