第三章:夜半の月かな
かつて覚えた歌の続きが、蘇る記憶と、目の前の戸惑いに重なるように胸の内でリフレインする。
確信が持てない、刹那の間に会社員風の男たちが二人の間に割り込んだ。視界を完全に塞がれ、慌てて背伸びをして探したが、もうそこに彼の姿はなかった。地下鉄の入り口へと吸い込まれていく人の流れの中に、彼は消えてしまったのだ。まるで、さっきまで夜空に見えていた光が、一瞬で雲の向こうへ隠れてしまったかのように。本当に、雲がくれにしてしまった。
香子はぽつんと、交差点の真ん中で立ち尽くしていた。何も知らないから、メッセージを送る手段さえない。もし見間違いでなかったとしても、もう連絡を取る術はないのだ。
「せっかく会えたかもしれないのに……早すぎるよ」
ぽつりと言い訳のように呟いた言葉は、冷たい雨の中に溶けていった。
顔を確認する暇もないほどの、一瞬の邂逅。玲央との日常を壊したいわけじゃない。それなのに、彼の面影を感じただけで、凍りついていた香子の心に、あの頃の狂おしいほど熱かった温かさがじんわりと広がっていく。いや、違う。私はただ、あの時の熱い気持ちが都合よく蘇ったような気になっているだけだ。深く知る前に終わったからこそ、美化された幻を見ているだけ。自分にそう言い聞かせる。
空を見上げると、ビルの隙間から、細い月がほんの少しだけ顔を覗かせていた。かつて大好きだった歌人の寂しさに、今の自分が重なる。名前しか知らない彼との一瞬のすれ違いは切ないけれど、同時に、都会の真ん中でずっと忘れていた「熱い感情」の残火を、ほんの少しだけ愛おしく思わせてくれた。
香子はフードを深く被り直し、今の恋人である玲央が待つ場所へと向かうため、今度は迷わずに、駅の階段を駆け下りていった。




