第二章:雲がくれにし
当時は名前しか聞いていなかったけれど、それでも寝食を忘れるほど彼に夢中になった。しかし、お互いの家族のこと、本当の素顔を深く知る前に、仕事の忙しさと心のすれ違いから、二人の関係はあっけなく終わりを迎えてしまったのだ。
今の連絡先も、私は何も知らない。今の私には、穏やかに寄り添ってくれる玲央という恋人がいる。もうあの頃のような、不安定で寂しい夜を過ごすこともない。それなのに、何万人もの人が行き交うこの街で、まさか彼とめぐりあってしまうなんて。
香子は思わず振り返り、人混みをかき分けた。しかし、街頭の眩しいLEDライトの逆光と、人々の掲げる黒い傘の群れが、彼の輪郭をひどく曖昧にさせる。本当に彼なのだろうか。それとも私の見間違いなのだろうか。香子の頭の中に、あの短い日々の記憶が濁流のように押し寄せ、ぐるぐると駆け巡った。
終電間際のホームで見せてくれた不器用な笑顔。狭いワンルームで、一つのマグカップを分け合って飲んだ温かいココアの味。まだ仕事に慣れず、ベランダで泣いていた私の肩を、何も言わずに抱きしめてくれた手の温もり。名前しか知らなくても、あの時の私たちは確かに繋がっていた。なのに、どうして私たちは互いの背景を何一つ知らないまま、あんなに急いで離れてしまったのだろう。




