第一章:見しやそれとも
渋谷のスクランブル交差点は、いつも以上に騒がしかった。
金曜日の午後十時。冷たい秋の雨がパラパラとアスファルトを濡らし、人々の傘が色とりどりの波を作っている。
二十七歳の香子は、フードを深く被りながら、改札へと急いでいた。仕事のトラブルで遅くなり、心も体もすり減っている。
東京に出てきて数年。毎日数え切れないほどの人とすれ違うのに、この街には知っている顔が一人もいないような気がしていた。
学生時代、香子はもともと、文学には全く興味がなかった。まして古典なんて、自分とは無縁の遠い世界の話だと思っていた。しかしある授業でたまたま触れた紫式部の作品や生き方に、雷に打たれたような衝撃を受けて夢中になった時期があった。千年前の恋や孤独に触れるたび、「昔の人も今と同じように悩んでいたんだ」と救われるような気持ちになったのだ。
だが、今の忙しい社会人生活の中では、そんな風に本を開く心の余裕さえ失われかけていた。
信号が青に変わる。人の波が一斉に動き出した。その時だった。対向側から歩いてくる男の、一瞬だけ見えた横顔に、香子の足が止まった。濡れた前髪の隙間から覗く、鋭くも優しい目元。見覚えがある。いや、忘れるはずがない。それは、東京の荒波に溺れそうだった就職直後、運命のように出会った「彼」だった。




