ドバイ案件
インターホンの執拗な連打が止んでから、どれほどの時間が経っただろうか。
由紀は、電気もつけない真っ暗なリビングで、スマートフォンの青白い光に照らされていた。画面に映っているのは、かつて絶頂期だった頃の自分の姿。加工という名の魔法を幾重にも塗り重ね、もはや原型を留めていない「偽りの女王」だ。
彼女は、狂ったようにSNSの海を彷徨っていた。
弁護士からの督促、ネットに晒された醜態、差し押さえ間近の高級家具。それらすべての現実から逃避できる「扉」が、どこかにあるはずだと信じて。
「……見つけた」
目に留まったのは、非公開のアカウントから届いていた一通のダイレクトメッセージだった。
『緊急募集。ドバイでの高級ブランド・イメージモデル。撮影期間一週間、報酬総額五百万円。渡航費・宿泊費全額負担。港区界隈でトップクラスのビジュアルの方限定。』
普段の由紀なら、その安っぽすぎる謳い文句に鼻で笑っただろう。だが今の彼女にとって、「五百万円」と「ドバイ」という響きは、この泥沼から一気に飛び上がるための、神が垂らした蜘蛛の糸に見えた。
「五百万……。これだけあれば、慰謝料も家賃も払える。ドバイに行けば、あの女たちも追ってこれない……!」
由紀は震える指で返信を打った。
『詳細希望。私、モデルやってます。すぐに出発できます』
相手からの返信は驚くほど速かった。
『由紀さんですね。噂はかねがね。貴女のような「華」のある方を待っていました。今すぐパスポートを持って羽田へ向かってください。チケットは手配済みです』
「噂」という言葉に、由紀は一瞬だけ嫌な予感を覚えた。鏡張りの部屋での、あの地獄のような「噂」ではないか、と。だが、切迫した現実が彼女の思考を即座に塗り潰す。
彼女はクローゼットから、差し押さえを免れた数少ないブランド服と、ボロボロになったエルメスのバッグを掴み取った。メイクで痣を叩き伏せ、ハイヒールを履き直す。
玄関の扉を開けると、そこには管理会社が貼ったと思われる『最終警告』の赤い紙が。由紀はそれを、ヒールのかかとで踏み躙り、夜の街へと駆け出した。
羽田空港。深夜の国際線ターミナル。
指定されたベンチに座っていたのは、仕立てのいいスーツを着た、だが目が蛇のように冷たいアジア系の男だった。
「由紀さんですね。……実物は、動画で見るよりずっと『食べ甲斐』がありそうだ」
「……仕事の内容、モデルってことで間違いないわよね?」
由紀の問いに、男は低く笑った。
「ええ。ドバイの有力者たちが、貴女のような日本のトップモデルを切望しているんです。彼らの前で、貴女という価値を存分に示していただきたい」
渡されたのは、ファーストクラスの航空券。由紀はそれを見て、勝利の確信を得た。
やっぱり私は終わっていない。私は、選ばれし女なのだ。
機内。高級なシャンパンを煽りながら、由紀は雲海を見下ろしていた。
眼下に広がる日本の灯りが遠ざかっていく。あの忌々しい弁護士も、自分を罵った男の妻たちも、自分を笑ったネットの住人も、すべてはゴミのようだ。
「見てなさいよ。ドバイで大金を掴んで、もっと綺麗な顔になって戻ってきてやるわ。その時は、港区なんて私が買い取ってあげる……」
アルコールが回り、由紀は久々に深い眠りに落ちた。
夢を見る。金色の砂漠の中、自分を跪いて崇める男たちの姿。札束の絨毯。
だが、その夢の中の自分は、なぜかあの「鏡張りの部屋」にいた時と同じように、喉が潰れるまで叫び続けていた。
十数時間のフライトの後。
辿り着いたドバイ国際空港は、熱風と金銀の装飾が入り混じる、狂ったような豪華さに満ちていた。
由紀を迎えに来たのは、真っ黒な窓の高級リムジン。案内されるまま、彼女は砂漠の奥地へと向かう車に乗り込んだ。
車窓から見える超高層ビル群が、次第に途切れ、果てしない砂の地平線に変わっていく。
ふと、由紀は気づいた。
車内に鍵がかかっており、運転手との間を隔てる仕切りは、防弾ガラスのような厚みを持っていることに。
「……ねえ、撮影場所はどこ? ホテルじゃないの?」
問いかけに、運転手は答えない。
スマホを取り出そうとするが、圏外。Wi-Fiも繋がらない。
由紀の心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
数時間後。到着したのは、砂漠の真ん中に隔離された、宮殿のような、あるいは監獄のような巨大な施設だった。
車を降りた瞬間、銃を手にした屈強な男たちが彼女を取り囲む。
「な、何よこれ! 私はモデルの仕事で来たのよ!」
奥から現れたのは、空港で会ったあの蛇のような目の男だった。彼は先ほどまでの丁寧さをかなぐり捨て、由紀の顎を乱暴に掴み上げた。
「ああ、仕事だよ。ただし、カメラの前に立つ仕事じゃない。世界中から集まった富豪たちが、君のような『腐りきった、だが最高級の肉』を弄ぶのを鑑賞する……『人間オークション』の商品としての仕事だ」
「……っ!? 嘘よ、五百万は!?」
「ああ、君を買い取った落札額から、俺たちの仲介料を引いた残りが……あればいいけどな。もっとも、生きて帰れればの話だがね」
由紀は連行される。
たどり着いたのは、天井まで届く巨大な鏡に囲まれた、窓一つない「黄金の檻」。
三田の鏡の部屋とは比較にならない、逃げ場のない、完璧な地獄。
由紀は檻の中で、力なく膝をついた。
手元のスマホに、一通の通知が滑り込む。空港で繋がっていた最後の一瞬に、誰かが投稿した自分の「逃亡写真」へのリプライだった。
『由紀、ついにドバイへ。これで人生逆転だね(笑)』
その皮肉な言葉を最後に、画面は真っ暗に消えた。
砂漠の沈黙の中、由紀はただ一人、鏡に映る無惨な自分を抱きしめて震えるしかなかった。
港区女子という名の幻影を追いかけた末に、彼女が辿り着いたのは、砂に埋もれた泡の墓場だった。




