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第9話「首輪が紙に変わっただけ」

───


 最初に異変を報告したのは、トビアスだった。


「是永さん。ちょっと、見てほしいものがある」


 朝。マリーナのオフィス。トビアスは一枚の羊皮紙を持っていた。契約書だ。だが、誠が作ったものとは違う。


「これ、昨日、東区の依頼で渡された契約書です。でも——なんか、おかしいんです」


 誠は受け取った。


 一読して、目が止まった。


 形式は、誠のアイコン契約書を模倣している。盾のマーク。剣の記号。署名欄。だが、条項の中身が——。


「……契約期間、十年。報酬は月額銀貨二枚。途中解約の場合、違約金として全財産を没収。依頼内容の変更は雇用主の裁量。被雇用者の異議申し立ては認めない——」


 誠の声が、徐々に小さくなった。


「——これ、何ですか」


「わかんないんです。契約書だって言われたんですけど、是永さんのやつと全然違う。でも、アイコンは同じで——」


「どこで手に入れましたか」


「東区の大手商会。ベルツ商会ってところです。最近、契約書付きの長期雇用を募集してるって聞いて、行ってみたんです。そしたら、これを渡されて——」


 誠は、紙を握りしめた。


「……トビアス。この契約書にサインしましたか」


「いえ。なんかおかしいと思って、持って帰りました。——よかったですか?」


「よかったです。サインしなくて、本当によかった」


───


 その日のうちに、同じ報告が三件、四件と増えた。


 東区のベルツ商会。南区の貿易組合。西区の鍛冶ギルド。いずれも「契約書付き雇用」を謳い、誠のアイコン契約書に似た形式の書類を使っている。


 だが中身は、全て同じ構造だった。


 長期拘束。低賃金。解除不可。違反時は全財産没収。


「——これは」


 誠は、マリーナのオフィスのテーブルに五枚の契約書を並べた。マリーナとエリーゼが、それを見ている。


「全部、同じテンプレートから作られてます。条項の順序、文言の選び方、違約金の設定——コピーです。誰かが雛形を作って、複数の商会にばら撒いている」


 マリーナが、一枚を手に取った。


「……これ、うまいわね」


「うまい?」


「形式的には、契約書よ。双方の署名がある。条項が明記されている。アイコンも付いている。——あんたが作った契約書の形式を、完璧に踏襲してる」


「だから問題なんです。形式を満たしている以上——」


「合法、ってこと?」


「……はい」


 誠の声が、掠れた。


「僕が導入した契約書のルールに照らせば——これは、有効な契約書です」


 沈黙。


「十年拘束も、低賃金も、解除不可も。条項として明記されていて、署名がある。僕のルールでは——止められない」


───


 午後。誠は東区を回った。


 状況は、想像よりはるかに悪かった。


 契約書付き雇用は、爆発的に広がっていた。冒険者だけでなく、一般の労働者にも。「契約書があるから安心」「商人ギルドの保証がつく」——そういう触れ込みで人を集めている。


 だが「保証」がつくのは、誠が作った正規の契約書だけだ。これらの偽物には、商人ギルドの保証はない。しかし、形式が似ているから区別がつかない。特に、識字率の低い人間には。


 誠は、東区の路地で、一人の若い女性と話した。鍛冶屋の徒弟。——昨日、マリーナのオフィスに保護契約をもらいに来た人たちの一人だった。


「あの……是永さん。この契約書に、昨日サインしちゃったんですけど——」


 女性が差し出した書類。十年拘束。月額銀貨一枚。解除不可。


「——読めなかったんです。アイコンが付いてたから、是永さんのと同じだと思って。でも、友達に見てもらったら、全然違うって——」


 女性の目が、赤かった。


「解除したいんです。でも、違約金が——全財産って書いてあるって——」


 誠は——何も言えなかった。


 自分が作ったアイコン契約書の形式が、模倣された。自分が広めた「契約書は安心」という認識が、利用された。


 これは——自分のせいだ。


───


 夕方。ギルドに戻ると、ホールが騒然としていた。


 理由はすぐにわかった。


 奴隷市場が、閑散としている。


 そのこと自体は——朗報のはずだった。契約書が普及して、奴隷を買わなくても労働力が確保できるようになった。だから奴隷市場の需要が減った。それは、誠が望んだ世界のはずだった。


 だが——。


「是永さん」


 トビアスが、蒼い顔で走ってきた。


「南区の奴隷市場、見ましたか。閑散としてます。でも——奴隷がいなくなったんじゃないんです。名前が変わっただけなんです。『契約労働者』って。売買証書が、契約書に変わっただけで——やってることは同じなんです」


 誠の足が止まった。


「……何だって?」


「見てきたんです。南区で。前は奴隷として売られてた人たちが、今は『契約労働者』として雇われてる。契約書にサインさせられて、十年拘束で——実質、前と何も変わってない。いや、むしろ悪い。だって、『契約だから自分で選んだ』って扱いになるから、誰も助けてくれない」


 誠は、壁に手をついた。


 ——契約だから自分で選んだ。


 それは、ルカが言われたのと同じだ。「本人が了承している」。形式的な同意。自由な意思なき合意。


 自分が作った仕組みが、それを加速させている。


───


 その夜。


 マリーナのオフィス。誠、エリーゼ、マリーナ、ルカ。四人がテーブルを囲んでいた。


 テーブルの上に、五枚の搾取契約書が広がっている。


 最初に口を開いたのは、ルカだった。


「おっさん」


「……何」


 ルカは、契約書の一枚を指で押さえた。


「——前と同じだよ」


「…………」


「首輪が、紙に変わっただけ」


 その一言が、誠の胸を貫いた。


 首輪が紙に変わっただけ。


 革の首輪から、羊皮紙の契約書に。鎖から、署名欄に。奴隷商から、契約テンプレートに。道具が変わっただけで、構造は何一つ変わっていない。


「……これは」


 誠の声が、かすれた。


「——僕が作った、新しい奴隷制度だ」


 沈黙。


 エリーゼが、静かに言った。


「是永。お前が正しいと思ってやったことが、こうなった。——どうするんだ」


 その問いに、怒りはなかった。非難もなかった。ただ、事実を突きつけている。


 誠は、答えられなかった。


 テーブルの上に、コンプライアンス・マニュアルのメモがある。異世界に来てから書き続けたノート。契約の条件、手続きのフロー、チェックリスト。全部書いてある。でも——。


 誠はノートを開いた。ページをめくる。契約の定義。署名の要件。解除の条件。


 ——答えが、ない。


 自分のルールに従って作られた契約書が、人を搾取している。ルールの中に、これを止める条項がない。なぜなら——形式が正しいから。


「……ルールなんて」


 誠の声が、震えていた。


「作らない方が、よかったのかもしれない」


 マリーナが、目を見開いた。


「何を——」


「僕が契約書を持ち込まなければ、こんなことにはならなかった。アイコンを作って、形式を整えて、『これが正しい』って広めて——その結果がこれだ。新しい奴隷制度。僕が設計した奴隷制度」


 誠はノートを閉じた。テーブルに突っ伏した。


「……わからない。何が正しいのか、わからない」


 三十二歳の男が、異世界のオフィスで頭を抱えている。コンプライアンス担当が、コンプライアンスそのものを否定している。


 しばらく、誰も何も言わなかった。


───


 最初に沈黙を破ったのは、ルカだった。


「おっさん」


「…………」


「おっさんがルール作ったから、私は助かったんだけど」


 誠が、顔を上げた。


「保護契約がなかったら、私は今もギルドで使い潰されてた。あの契約書があるから、私は断れるようになった。怖い依頼を断れるようになった。——それは、おっさんが作ったルールのおかげだよ」


「でも——」


「でもじゃない」


 ルカの声が、強かった。いつものツンデレではなく、本気の声だった。


「悪い奴が悪用したのは、おっさんのせいじゃないよ。包丁で人を刺した奴がいるからって、包丁を作った人が悪いわけじゃないでしょ」


「包丁は——」


「比喩。おっさんの得意な比喩」


「僕の比喩はそこまで雑じゃ——」


「要するにね」


 ルカが、テーブルの上の搾取契約書を一枚取った。そして——びりり、と破った。


「——これは、偽物。おっさんの契約書じゃない。形だけ真似た偽物」


「ルカ——」


「おっさんの契約書は、私が読めるように作ってある。私の権利が書いてある。解除権がある。——こいつには、それがない。全然違うよ」


 誠は、ルカを見た。


 十一歳の子供が、自分よりも正確に問題を切り分けている。


「…………」


「泣くなよ、おっさん」


「泣いてません」


「嘘。目、赤い」


───


 エリーゼが、壁から背を離した。


「是永」


「……はい」


「間違っていたなら、直せばいい。それがお前の仕事だろう」


 エリーゼの声は、硬かった。騎士の声だった。


「騎士団でもある。訓練で失敗した者に、『最初からやらなければよかった』とは言わない。『やり方を変えろ』と言う。お前がやったことは間違ってない。でも、足りなかった。なら——足りない分を足せ」


「足りない分——」


「契約書の中に、悪用を防ぐ条項がないんだろう。なら入れろ。新しい規則を作れ。お前の世界にも、そういう仕組みがあるはずだ」


 誠は、エリーゼを見つめた。


 ——この人は、いつの間にか、こんなにも「制度」の言葉を使うようになっていた。


 マリーナが、帳簿を閉じた。


「壊れた制度をどう直すか。——それを考えられるのは、あんただけよ。この世界で、契約書を設計できる人間は、あんたしかいない」


「…………」


「泣いてる暇はないわ。今この瞬間も、搾取契約にサインさせられてる人がいるのよ。——立ちなさい」


 誠は——立てなかった。


 まだ、手が震えている。自分が作った仕組みが人を傷つけた。その事実は消えない。


 でも。


 ルカの言葉が、胸に残っている。


 ——おっさんがルール作ったから、私は助かったんだけど。


 エリーゼの言葉。


 ——間違っていたなら、直せ。


 マリーナの言葉。


 ——立ちなさい。


「…………」


 誠は、手を見た。震えている。でも——。


 ノートを開いた。


 新しいページ。白紙。


 ペンを取った。


 書き始めた。


「——契約の有効要件を、改定します」


「何を入れるの」


「三つ。一つ目、不均衡条項の無効化。極端に一方に有利な条項は、仮に署名があっても無効とする。二つ目、第三者審査制度。契約の内容を、当事者以外の人間がチェックする仕組み。三つ目——」


 誠は、一拍置いた。


「——弱者側の無条件解除権。力関係に差がある契約では、弱い側がいつでも契約を解除できる。違約金なし」


「それ——かなり、強い規定ね」


「強くしないと止められません。悪用する側は、常にルールの穴を突いてくる。穴を塞ぐだけじゃ追いつかない。だから——ルールの思想そのものを変える。形式ではなく、実質を見る。署名があっても、自由な意思がなければ無効。条項が明記されていても、不公正なら無効」


「……お前の世界の法律みたいだな」


「はい。消費者契約法、労働基準法、独占禁止法。全部、同じ思想から生まれた法律です。形式的な自由だけでは弱者を守れない。だから、実質的な公正さを法が担保する」


 誠は、書き続けた。手はまだ震えている。でも、ペンは止まらなかった。


───


 深夜。


 全員が帰った後、誠は一人で机に向かっていた。


 新しいルールの草案。不均衡条項の定義。審査制度の設計。解除権の範囲。


 書いている途中で、ふと、手が止まった。


 テーブルの端に、あの搾取契約書が一枚残っていた。ルカが破ったのとは別の一枚。誠はそれを手に取り、もう一度読んだ。


 よくできている。自分の契約書の形式を、完璧に模倣している。アイコンの配置、条項の構成、署名欄の位置。——誰が設計したにしても、契約書というものを深く理解している人間の仕事だ。


 素人の仕事じゃない。


 誠は、紙の隅に目を凝らした。何もない。紋章もない。署名もない。完全に匿名のテンプレート。


 だが——マリーナが以前言った言葉が甦る。


 ——バルドが逆らえないのも、ルンゲの金がギルドに流れているから。


 そして、あの倉庫の夜にルンゲが言ったという言葉。


 ——人を縛るのにも、使える。


 誠は、搾取契約書をテーブルに置いた。


「……これは、偶然じゃない」


 誰かが、最初からこうなることを見越して動いた。契約書の普及を待ち、形式を学び、テンプレートを設計して、複数の商会にばら撒いた。計画的だ。——誠の制度を、最初から「乗っ取る」つもりだった。


 証拠はない。まだ。


 でも——誠のコンプラ担当としての勘が告げている。この搾取の構造の裏に、一人の人間がいる。


 ルンゲ。


 今は、証明できない。でも——記録は残す。証拠を集める。エリーゼに、そう誓ったばかりだった。


 誠は、新しい羊皮紙に書いた。


「搾取契約テンプレートの出所調査——」


 深夜の灯りの中、ペンだけが動き続けていた。


───


 翌朝。


 騒ぎを聞きつけたバルドが、ギルドのホールに姿を現した。


 冒険者たちが搾取契約の被害を訴えている。怒号。混乱。「契約書が信用できない」「あの紙切れ屋のせいだ」——そんな声が飛ぶ。


 バルドが、冒険者たちの前に立った。そして、誠をまっすぐに見た。


「——ほら見ろ」


 その声は、嘲笑ではなかった。むしろ——静かな確信だった。


「お前の制度が、新しい地獄を作っただけだ」


 誠は——反論できなかった。


「紙で人は守れねえ。最初からそう言ったはずだ。契約だの権利だの、そんなもんは力のある奴が使い方を決める。弱い奴は、どんな制度になっても弱いままだ」


 冒険者たちが、沈黙していた。


 バルドの言葉は——正しかった。少なくとも、今この瞬間は。


「お前の『正しい仕組み』とやらが、結局は搾取の道具になった。それが現実だ。——まだ、紙で世界を変えるつもりか」


 誠は、口を開いた。声が、出なかった。


 一秒。二秒。


「——変えます」


 声は震えていた。自信はなかった。でも、言った。


「仕組みが悪用されたなら、仕組みを直す。壊れたなら直す。何度でも。——それが、コンプライアンスです」


 バルドは、鼻を鳴らした。


「好きにしろ」


 踵を返して、奥の部屋に消えた。


 誠は、膝が笑っていた。立っているのがやっとだった。


 でも——立った。倒れなかった。それだけで、今は十分だった。


───


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