第10話「紳士の仮面」
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契約審査制度の草案を書き上げるのに、三日かかった。
不均衡条項の無効化基準。第三者審査の手続き。弱者側の無条件解除権の適用範囲。全て、現実世界の消費者保護法制を下敷きに、この世界の識字率と法概念の不在を踏まえて設計した。
問題は——これを誰が運用するか、だった。
「商人ギルドだけじゃ無理よ」
マリーナが、草案を読みながら言った。
「審査に必要な人員、最低でも五人。うちのギルドは商売が本業。余剰人員はいない。しかも——審査する側が利害関係者だと、中立性が保てない」
「わかってます。だから、独立した審査機関が必要なんです。商人ギルドにも冒険者ギルドにも属さない、第三者の——」
「そんな機関、この街に存在しないわよ」
「だから作るんです」
「金は? 人は? 場所は?」
誠は黙った。全部ない。
エリーゼが腕を組んだ。
「……騎士団から人を出すことは、できなくはない。だが、上の許可がいる。そして許可を出すのは——」
「貴族院」
「そうだ」
また、壁だ。制度を作ることはできる。でも、制度を動かすリソースがない。
その時——マリーナのオフィスに、一通の書簡が届いた。
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書簡は、高級な羊皮紙だった。封蝋に紋章が押されている。
マリーナが開封して読み、眉を上げた。
「……ルンゲ侯爵からよ」
誠とエリーゼが、同時に顔を上げた。
「何て?」
「『冒険者ギルドにおける契約制度の混乱について、大変心を痛めております。ついては、制度の安定化に向けて微力ながらお力添えしたく、直接お話しする機会をいただけないでしょうか』——だそうよ」
沈黙。
「……ルンゲが、助けたいと」
「書簡にはそう書いてあるわ」
「罠ですよね」
「十中八九、そうでしょうね」
エリーゼが書簡を手に取った。
「ルンゲ侯爵。王都貴族院の有力者。——騎士団内部でも、評判は分かれている。表向きは慈善家として知られているが、裏で何をしているかは誰も知らない」
「誰も知らないんですか」
「知っている者は、沈黙している。——それ自体が、答えだ」
誠は、書簡を見つめた。
露天商が言った言葉が甦る。「その名前、ここで出すな。消えるぞ」。あの倉庫の夜、ルンゲが残したと伝え聞く言葉。「人を縛るのにも、使える」。先日見た搾取契約のテンプレート。素人の仕事じゃない、計画的な設計。
全てが、この男に繋がっている。証拠はないが、確信はある。
「……マリーナさん。どうしますか」
マリーナは窓辺に寄って、外を見た。しばらく黙っていた。
「会いましょう」
「え?」
「使えるものは使う。それが商売の基本よ」
「でも——」
「罠だってわかってる。でも、罠の中身がわからなければ対処もできない。ルンゲが何を考えているのか、直接会って確かめる。——それが一番早いわ」
誠は、マリーナを見た。
この人は、怖いものがないのか。——いや、違う。怖いからこそ、先に動く。商人の生き方だ。
「……わかりました。会いましょう」
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三日後。
ルンゲ侯爵の馬車が、商人ギルドの前に停まった。
馬車は黒塗り。御者は二人。護衛が四人。どれも仕立てが良く、静かだった。金持ちの静かさ。誠はそれを知っている。大手商社のコンプラ担当は、そういう人種に会い慣れている。
ルンゲが降りてきた。
五十代。痩せた体躯。仕立ての良い上着。指には三つの宝石の指輪——書簡で想像した通りの人物だった。だが、一つだけ違った。
笑顔が、完璧だった。
「おお、これは。お噂はかねがね。是永殿、でしたかな」
声は柔らかく、物腰は丁重。握手を求める手は清潔で、爪が整えられている。
「……是永誠です。お会いできて光栄です、ルンゲ侯爵」
「侯爵などと。ルンゲで結構ですよ。——マリーナ殿も、お久しぶりです」
「お久しぶりですわ、ルンゲ侯爵。十年ぶりかしら」
「もう十年になりますか。時が経つのは早いものだ」
マリーナの目が、笑っていなかった。口元だけが微笑んでいる。商人の顔だ。
エリーゼは一歩後ろに控えていた。甲冑の下で、手が剣の柄にかかっている。
ルカは——誠が「来るな」と言ったのに、柱の陰からこっそり覗いていた。
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マリーナのオフィスで、五人が向かい合った。ルンゲ、従者一人。誠、マリーナ、エリーゼ。
ルンゲが口を開いた。
「まず、率直に申し上げます。是永殿が始められた契約制度、大変素晴らしい取り組みだと思っております」
「……ありがとうございます」
「冒険者の労働環境を改善し、依頼の透明性を高め、弱者の保護にまで踏み込んでいる。正直、この世界の人間には発想できない制度です。異界からいらした方ならではの視点だ」
完璧な賛辞。一分の隙もない。
「しかし——先日の混乱は、私も大変心を痛めました」
「搾取契約の件ですね」
「ええ。契約書の形式を悪用して、人を騙す輩が出た。これは、制度の穴を突いた卑劣な行為です」
誠は、ルンゲの目を見た。
——この男は、搾取契約テンプレートの黒幕だ。ほぼ確信している。その男が今、「卑劣な行為だ」と眉を曇らせている。
完璧な演技だ。
「是永殿がお考えの第三者審査制度——私も同じことを考えておりました。契約の内容をチェックする独立機関。それがあれば、悪質な契約は事前に排除できる」
「……仰る通りです」
「ただ、問題は運営資金と人員ですな。商人ギルドだけでは賄えない。騎士団も動けない。——そこで、私から一つ提案がございます」
ルンゲは、従者から書類を受け取った。
「ルンゲ家が、契約審査機関の設立資金を全額負担します。さらに、審査員の人員として、私の領地から書記官を五名派遣する。運営費用は、年間で金貨百枚を保証しましょう」
マリーナが、一瞬だけ目を細めた。
金貨百枚。商人ギルドの年間収益の三分の一に相当する額だ。
「それは——大変ありがたいお申し出ですが」
誠が口を開こうとした。マリーナが先に遮った。
「是永。少し待ちなさい」
マリーナはルンゲに向き直った。
「ルンゲ侯爵。条件は?」
「条件? 特にございませんが。強いて言えば——審査機関の運営報告を、四半期ごとに私にもいただければ。出資者として、使途を確認したいだけです」
「なるほど。——審査機関の人事権は?」
「もちろん、機関の独立性は尊重します。ただ、初期の立ち上げに際して、経験豊富な人材が必要でしょう。私の書記官たちは帳簿と法務に精通しておりますので、お力になれるかと」
「つまり——審査機関の中に、あなたの人間が入る」
「サポート役として、ですよ。運営の主導権は、もちろん是永殿に」
マリーナが、ルンゲを見つめた。長い沈黙。
誠は——この会話の裏を読んでいた。
資金を出す。人員を送り込む。運営報告を受け取る。——つまり、審査機関の金と人と情報を、全て掌握する。「独立機関」の看板を掲げながら、実質的にはルンゲの管理下に置く。
典型的な制度の乗っ取りだ。
誠の世界でも、何度も見たパターンだ。企業が自主規制機関を作り、出資して人を送り込み、規制を骨抜きにする。外から見ると「ちゃんとした仕組み」に見える。中身は空洞だ。
「ルンゲ侯爵」
誠が口を開いた。
「一つ確認させてください。審査機関が、ルンゲ家の関連商会の契約を審査することもあり得ます。その場合、利益相反にはなりませんか」
ルンゲの笑顔が、一ミリも変わらなかった。
「もちろん、その場合は私の書記官は審査から外れます。中立性は担保しますよ。——是永殿は、お若いのに鋭い。さすが、異界の制度をご存知の方だ」
賛辞で包まれた回避。完璧だ。
「…………」
誠は、マリーナを見た。マリーナが、ほんの少しだけ頷いた。
——使えるものは使う。ただし、警戒を解くな。
「……ルンゲ侯爵。大変ありがたいお申し出です。審査機関の設立に向けて、具体的な協議を進めさせていただきたく存じます」
「おお、それは嬉しい。——是永殿、私はこの街の安定を心から願っているのですよ。契約制度という素晴らしい仕組みが、一部の不届き者に壊されるのは忍びない。共に、より良い制度を作りましょう」
ルンゲが手を差し出した。
誠は——握った。
その手は温かかった。力加減も完璧だった。不快感を与えない握手。政治家の握手だ。
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ルンゲが去った後、オフィスには重い空気が残った。
「……受けちゃったわね」
マリーナが椅子に深く座り直した。
「受けるべきだったんですか」
「受けるしかなかったわよ。審査機関の金も人もない。ルンゲの申し出を断れば、搾取契約は野放しのまま。——断る方がリスクが高い」
「でも、これでルンゲの人間が審査機関の中に——」
「入る。当然。でも、入ったからこそ監視できる。外にいる敵より、中にいる敵の方がまだ見える」
「……見えますか?」
「見えるようにするのが、あんたの仕事よ」
エリーゼが口を開いた。
「是永。あの貴族——ルンゲ侯爵。騎士団の間では、『紳士の仮面』と呼ばれている」
「紳士の仮面?」
「誰に対しても丁重で、笑顔を絶やさず、合理的な提案をする。だが——その裏で何をしているか、誰も掴めない。過去にルンゲに逆らった貴族が三人いたが、全員が二年以内に没落した。事故、スキャンダル、借金。どれも『偶然』で片付けられている」
「…………」
「偶然を三回続けられる人間は、この世界にはいない。——あれは、危険な男だ」
誠は、テーブルの上に残ったルンゲの書類を見た。提案書。資金計画。人員リスト。全て丁寧に作られている。一分の隙もない。
「……僕は今日、敵に握手をしたんですね」
「そうよ。でも——」
マリーナが立ち上がった。
「敵と握手するのも、交渉術の一つよ。大事なのは、握手した手で何を掴むか」
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夜。
ルカが来た。
「おっさん」
「ルカ。来るなって言ったのに」
「聞こえなかった」
「嘘でしょう」
「嘘。——あの人、嫌い」
誠は、手を止めた。
「ルンゲ侯爵? 会ったんですか」
「柱の陰から見てた。声は聞こえなかったけど、顔は見えた」
「……どうでしたか」
「目が笑ってない」
誠は、ルカを見た。
「口は笑ってた。すっごく感じいい人に見えた。でも——目が、冷たかった。ずっと、計算してる目だった。おっさんを見てる時も、マリーナさんを見てる時も。全部、品定めしてるみたいだった」
「…………」
「前にね、ガルツも同じ目をしてたの。私を見つけた時。『宝石だ』って言った時。——嬉しそうなのに、目が冷たかった。あの目と同じだった」
十一歳の直感が、三十二歳の分析よりも正確に、ルンゲの本質を見抜いていた。
「ルカ」
「何」
「ありがとう。大事な情報です」
「情報って……感想言っただけだよ」
「感想が一番大事なんです。——コンプラの世界では、数字より先に『なんかおかしい』という直感が正しいことが多い」
「ふうん。——じゃあ、私、コンプラの才能あるってこと?」
「大ありです」
「へえ」
ルカは、少しだけ嬉しそうだった。
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同じ夜。
ルンゲの屋敷。
暖炉の前。ルンゲはワインを傾けていた。
従者が立っている。
「ルンゲ様。本日の会談はいかがでしたか」
「面白い男だよ、あの是永という男は」
ルンゲは、ワイングラスを火に透かした。赤い光が揺れる。
「制度を設計する能力は本物だ。あの契約書の構造は、この世界の人間には作れない。だが——」
「だが?」
「青い。潔癖すぎる。正しさを信じすぎている。——そういう人間は、操りやすい」
ルンゲはワインを一口含んだ。
「契約審査機関。大いに結構だ。あれを管理する側に回れば——今まで以上に好き放題できる」
「審査基準をこちらで設定できる、ということでございますか」
「それだけじゃない。審査機関を通った契約は『認定済み』の印が付く。つまり——我々が作った搾取契約にも、公的なお墨付きが付く。是永が自分で作った信用を、我々が借りるだけだ」
ルンゲは微笑んだ。
「あの男は、自分の制度が乗っ取られていることに気づかないだろう。気づいた時には——もう手遅れだ」
「……是永殿は、かなり鋭い方と見受けましたが」
「ああ、鋭い。だが、鋭いだけでは足りない。力がない。金がない。人脈がない。——正しさだけで勝てるなら、この世界はとっくに変わっている」
ルンゲは暖炉の炎を見つめた。
「第2章が始まるよ。——市場を、いただこう」
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