第8話「ルカの契約」
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ルカが、話し始めた。
きっかけは些細なことだった。朝、マリーナのオフィスで、誠が保護契約のひな形を作っていた。未成年の冒険者を守るための文書。年齢制限ができない以上、せめて保護者の同意と労働条件の明示を義務づける仕組み。
ルカがそれを覗き込んで、一行目を読んだ。
「『被保護者の権利』……」
「ルカ、まだ途中なんですけど——」
「権利って何」
誠の手が止まった。
「……権利って、何ですか?」
「そう。私にそれ、あるの?」
十一歳の子供が、「自分に権利があるのか」と問うている。その問いの重さに、誠は言葉を失った。
「——あります。もちろんあります」
「ふうん」
ルカは窓辺に座った。足をぶらぶらさせている。外は晴れていた。
「……私さ、前にも『保護』されたことあるんだよね」
「……エリーゼさんから、少し聞きました。引き取った人がいたと」
「うん。ガルツっておじさん。両親が死んだ後、親戚を名乗って現れた。親戚じゃないと思うけど、私にはわからなかった」
ルカの声は、平坦だった。感情を抜いた声。こういう話をする時、人は感情を抜く。誠は知っていた。コンプラ面談で、何度も聞いた声だ。
「ガルツは私の魔法の才能に気づいた。火の魔法。この世界では珍しくないけど、私のは少し強かった。ガルツは喜んだよ。『お前は宝石だ』って。宝石——」
ルカが、小さく笑った。
「——宝石って、自分で動けないんだよね。磨かれて、売られて、誰かの指にはめられるだけ」
「…………」
「ガルツはギルドに私を売り込んだ。『この子は使える。高難度の依頼に投入してくれ』って。ギルドは喜んだ。魔法使いは貴重だから。書類を作って、ガルツに金を渡して——私は、ギルドの『保護下』に入った」
「その書類が、『保護委託契約書』——」
「そう。私はサインした。読めなかったけど、サインした。ガルツが『これにサインしないと、お前はどこにも行けない』って言ったから」
誠は、テーブルに手を置いた。指先が白くなっている。
「ルカ。その書類の中身は——」
「知らない。読めなかったから。でも、今なら想像がつくよ。おっさんが昨日見た奴隷の売買証書と、たぶん同じようなものだったんだろうね」
同じ。
形式は「保護」。実態は「売買」。名前が違うだけで、構造は同じ。
「……ルカ」
「何」
「怒ってますか」
「怒ってないよ。——もう、怒る気力もない。ただ、そうだったんだなって。今になってわかる。おっさんの契約書を見て、初めてわかった。『ああ、私は売られたんだ』って」
誠は、何も言えなかった。
この子は、「契約書」というものを知って初めて、自分が何をされたのか理解した。知識が増えることは、過去の痛みを初めて言語化することでもある。
それは——残酷なことだ。
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エリーゼが来たのは、昼過ぎだった。
ルカの話を聞いた後、誠は保護契約のひな形を最初から書き直していた。一行目から。全部。
「是永、顔色が悪いが——」
「大丈夫です。ルカの話を聞いて、保護契約を書き直してます」
「書き直す? 何が問題だったんだ」
「全部です」
誠は、新しい羊皮紙を広げた。
「最初に書いたひな形は、『大人が子供を保護する』という前提でした。でも——ルカの話を聞いて気づいた。この世界では、『保護』という名目が搾取に使われている。だから、同じ構造の書類を作ったら、同じことが繰り返される」
「では、どうする」
「発想を逆にします。『大人が子供を保護する契約』じゃなくて、『子供が自分の権利を主張する契約』にする」
エリーゼが首を傾げた。
「……子供が、主張する?」
「はい。被保護者——つまりルカの側に、こういう権利を明記する」
誠は、ペンで箇条書きを書き始めた。
「一つ。保護者の変更を申し出る権利。今の保護者が嫌なら、別の人に代わってもらえる。二つ。労働を拒否する権利。危険だと思ったら断れる。三つ。契約内容の説明を受ける権利。読めなくても、口頭で全部説明してもらえる。四つ。契約の解除を申し出る権利。子供の側から、いつでも契約を終わらせられる」
「……四つ目。それは、かなり強い権利だな」
「強くしないと意味がないんです。弱い側に強い権利を持たせること。それが契約の本来の役割です」
エリーゼは、しばらく沈黙した。
「……お前の世界では、子供にそういう権利があるのか」
「あります。完全ではないですけど。児童福祉法、児童虐待防止法、子供の権利条約——全部、『子供を守る』ために作られた仕組みです。大人が一方的に決めるんじゃなくて、子供の意思を尊重する」
「子供の意思を、尊重する——」
エリーゼは腕を組んだ。
「この世界には、その考え方がない。子供は大人の所有物だ。親が決め、領主が決め、ギルドが決める。子供は従うだけ」
「それを変えたいんです」
「……大きく出たな」
「大きくないですよ。たった一枚の紙から始めるだけです」
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夕方。
誠は、完成した保護契約書を持って、ルカのところに行った。
ルカは治療室の隣の小部屋にいた。ギルドから借りている部屋だが、ベッドと小さな棚しかない。壁に落書きがある。ルカが描いたらしい。炎の絵。上手くはない。
「ルカ」
「おっさん。ノックくらいしてよ」
「すみません。——これ、見てもらえますか」
誠は、羊皮紙を差し出した。
ルカは受け取った。広げて、アイコンを見る。盾のマーク、手のマーク、扉のマーク。
「……これ、何」
「保護契約書です。ルカ用の」
「保護契約——」
ルカの目が、わずかに揺れた。
「前のやつと、何が違うの」
「全部違います。まず、読んでみてください。わからないところは全部説明します。それが——この契約書の三番目の権利です」
ルカは、一行ずつ読み始めた。指でアイコンをなぞりながら。
「……保護者の変更を申し出る権利。——つまり、おっさんが嫌になったら、別の人に代われるってこと?」
「そうです」
「……労働を拒否する権利。——依頼が怖かったら、断っていいってこと?」
「そうです。誰にも文句は言わせません」
「……契約の解除を申し出る権利。——私が嫌だって言ったら、全部なしにできるってこと?」
「そうです」
ルカが、紙から顔を上げた。
「……こんなの、前は——」
声が詰まった。
「——前は、全部、逆だった」
「…………」
「保護者は選べなかった。仕事は断れなかった。契約は私からやめられなかった。全部、向こうが決めた。私はサインしただけ」
ルカの手が、震えていた。紙がかすかに揺れている。
「おっさん」
「はい」
「……こんな紙切れ一枚で、何が変わるの」
その言葉に、怒りはなかった。皮肉でもなかった。
——祈りに近かった。
変わってほしい。でも、信じきれない。信じたいけど、また裏切られるかもしれない。そういう声だった。
誠は、ルカの前にしゃがんだ。目線を合わせた。三十二歳と十一歳。同じ高さで。
「変わります。——いや、変えます。この紙切れ一枚が、ルカを守る盾になる。僕が保証します」
「保証って——」
「この契約書の保護者欄に、僕の名前が入ります。つまり、僕がルカの保護者になる。その代わり、僕にも義務が書いてある。ルカに危険な仕事をさせない義務。ルカの意思を尊重する義務。ルカに契約の内容を説明する義務。——僕がこれに違反したら、ルカは契約を解除できる」
「おっさんが……保護者?」
「嫌なら断ってください。それも権利です」
ルカは、しばらく黙っていた。
紙を見つめている。アイコンを一つずつなぞっている。盾。手。扉。
「……おっさんさ」
「はい」
「保護者ってことは、親みたいなもん?」
「いえ、親とは違います。法的な保護責任者です。——まあ、この世界にその区別はないですけど」
「じゃあ、おっさんが私のお父さんになるの?」
「いや、それは——」
「冗談。おっさんがお父さんとか、キモすぎるし」
「……キモいキモいってね」
「でも——」
ルカが、紙を胸に押し当てた。
「——保護者なら、いい。おっさんなら、いい」
誠は、目頭が熱くなった。また泣きそうだ。三十二歳、泣きすぎだ。
「……ルカ。一つだけ約束してください」
「何」
「この契約書に書いてある権利、全部使ってください。怖い仕事は断ってください。嫌なことは嫌だと言ってください。僕がおかしなことをしたら、契約を解除してください」
「おっさんがおかしなことする想像がつかないんだけど」
「するかもしれませんよ。人間ですから」
「……ふうん」
ルカは、ペンを取った。
「サインしていい?」
「読めましたか? 全部」
「読めた。おっさんのアイコン契約書は、私が一番読めるようにできてるんでしょ」
「——はい」
「じゃあ、サインする」
ルカがペン先を署名欄に当てた。
——止まった。
一秒。二秒。ペン先が紙の上で震えている。
ルカの目が、一瞬だけ遠くなった。ガルツに差し出された紙。読めなかった文字。意味もわからずサインした、あの日。
三秒。
ルカは、息を吐いた。
「……今度は、読めるから」
ルカが、署名欄にサインした。ルカ、と。少し歪んだ字。でも力強い字。
誠がその隣にサインした。是永誠。
ペンを置いた瞬間、指先が冷たくなった。
——もう、逃げられない。
この子の人生の一部を、自分が背負うことになる。正しいと信じた仕組みが、この子を傷つけたら。自分が作った制度が、この子の新しい鎖になったら。——その責任は、全部自分にある。
覚悟はしていた。していたはずだ。でも、署名した瞬間に初めて、その重さが手のひらに乗った。
マリーナが証人欄に署名した。いつの間にか後ろに立っていた。「面白いから見に来たのよ」と言ったが、目が少し赤い。
エリーゼも証人として署名した。「騎士の証印を押す」と言って、甲冑の肩章の紋章を押し付けた。羊皮紙にくっきりと跡がついた。
「……こんなの見たことないわ。異世界人と子供の保護契約に、商人ギルドマスターと騎士が証人として署名するなんて」
「前例がないことは、悪いことじゃないですよ。——前例は、今から作るんです」
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その夜。
ルカは自分の部屋に戻った。保護契約書を丸めて——いや、今日は丸めなかった。丁寧に折り畳んで、枕の下に入れた。
誠はマリーナのオフィスで、保護契約のテンプレートを複数枚刷っていた。
「何枚刷ってるの」
「十枚。ルカ以外にも、必要な子がいるかもしれないので」
「……あんたって人は」
「何ですか」
「休みなさいよ、たまには」
「コンプラ担当に休みはないんです」
「ブラック企業じゃない」
「否定できません」
マリーナが苦笑した。
誠は手を止めた。
「……マリーナさん」
「何」
「ルカの保護契約、結んだじゃないですか」
「ええ」
「これ——広がると思いますか」
「広がるわよ。間違いなく」
「どうしてそう思いますか」
「冒険者の契約書と同じよ。最初の一人が使えば、次が来る。特に——子供を搾取されてる親は、いる。声を上げられなかっただけ。仕組みがなかっただけ」
「…………」
「ただし——」
マリーナの声が低くなった。
「——広がれば広がるほど、邪魔する奴も出てくるわよ。子供を自由に使えなくなると困る連中がいる。ギルドも、商人も、貴族も」
「ルンゲ、ですか」
「名前は出さないけど。——覚悟しておきなさい。これが広がったら、戦争になるわよ。子供を使い捨てにしてきた連中にとって、この契約書は宣戦布告と同じだから」
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翌日。
それは、想像より早く来た。
朝。マリーナのオフィスの前に、人が並んでいた。
冒険者の母親。商人の使用人。鍛冶屋の徒弟。——みな、子供を連れていた。あるいは、かつて子供だった若者が、一人で来ていた。
「あの……聞いたんですけど」
最初に口を開いたのは、二十歳くらいの女性だった。鍛冶屋の徒弟らしい。手が煤で黒い。
「子供を守る契約書があるって——私たちにも、もらえますか」
一人、二人、三人。列が伸びていく。
誠はオフィスの扉の前に立った。並んでいる人たちを見た。
——ゼロから十二。十二から二十八。そして今——。
「もちろんです。全員分、用意します」
声が裏返った。裏返ったけど、気にしなかった。
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