第7話「奴隷契約は契約じゃない」
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契約書が動き始めて、三日が経った。
十二枚から始まった契約付き依頼は、三日で二十八件に増えた。理由は単純で、契約付き依頼は報酬の踏み倒しがない。冒険者は損をしない。それだけで十分だった。
誠はマリーナのオフィスで、依頼の処理状況を羊皮紙に記録していた。ノートPCはもう動かない。文鎮だ。だが不思議と、不便さには慣れた。紙とインクとそろばん。マリーナが貸してくれた商人用の計算道具は、Excelほど便利ではないが、嘘はつかない。
「二十八件。うち完了が十九件。報酬未払いゼロ。依頼内容の相違による中断が二件。これは依頼主側の記載不備で、再調査の上で再依頼——」
「あんた、楽しそうね」
マリーナが茶を啜りながら言った。
「楽しいです。数字が積み上がるのは楽しい」
「コンプラ担当って、変わってるわね」
「よく言われます」
扉が開いて、エリーゼが入ってきた。甲冑の肩当てに朝露がついている。パトロール帰りだ。
「是永。少し、いいか」
「どうしました」
「今日のパトロールで、南区を回った。——奴隷市場の前を通った」
誠の手が止まった。
「……奴隷市場」
「ああ。この街には奴隷市場がある。知らなかったか?」
「いえ、——来た日に、競りを見ました。ただ、それ以降は——」
「それ以降、お前はギルドの契約書に集中していた。それは正しい。だが——」
エリーゼが、一枚の紙を差し出した。
「これを見てほしい」
誠は受け取った。羊皮紙。書式が整っている。上部に紋章、下部に署名欄。一見すると——契約書だった。
「……これは?」
「奴隷の売買証書だ。奴隷商から入手した。奴隷にも『契約書』があるのだと、商人に言われた」
誠は、文面を読んだ。
読み進めるにつれて、顔から表情が消えた。
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「——これは、契約書じゃない」
誠の声は、静かだった。静かすぎて、マリーナが顔を上げた。
「どういうこと?」
「形式は契約書に見えます。署名欄がある。条項が並んでいる。日付も入っている。でも——中身を読んでください」
誠は、紙をテーブルに広げた。
「第一条。所有者は被所有者の労働、居住地、婚姻を決定する権利を持つ。第二条。被所有者は所有者の命令に従う義務を負う。第三条。本証書の解除は所有者のみが行える。第四条——」
誠は、そこで止まった。
「……第四条。被所有者の逃亡は、財産の窃盗とみなす」
沈黙。
「——これのどこが『契約』ですか」
誠の指が、紙の上を滑った。
「契約の最低条件は、双方の自由な合意です。売られる側に拒否権がない。解除権がない。条件交渉の余地がない。これは契約じゃない。一方的な所有権の証明書です。——命令書だ」
エリーゼが黙って聞いていた。
「エリーゼさん、この世界では、これが普通なんですか」
「……普通だ。奴隷制度は王国法で認められている。奴隷商は正規の免許を持ち、税を納めている。合法だ」
「合法」
誠は、その言葉を噛んだ。
「合法だけど、正しくない」
「…………」
「僕の世界にも、そういう時代がありました。奴隷制度が合法だった時代。人を売買することが法で認められていた。でも——法が間違っていた。後の時代の人間が、そう判断した」
「後の時代、か」
エリーゼの声に、微かな揺れがあった。
「私は騎士だ。王国法に従うのが騎士の務めだ。だが——」
エリーゼは、テーブルの上の売買証書を見つめた。
「——法に従うことと、法が正しいと信じることは、別なのか」
誠は、エリーゼを見た。
この人は、変わり始めている。最初に会った日、「力ある者が戦うのは当然」と言い切った人が。あの夜、契約書が燃やされた酒場で「これが当然なのか」と呟いた人が。今、「法が正しいとは限らない」という問いに、自分からたどり着いた。
「——別です。少なくとも、僕はそう思います」
「そうか」
エリーゼは腕を組んだ。いつもの仕草だが、今日は少しだけ力が抜けている。
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マリーナが、帳簿を閉じた。
「是永。あんたの言いたいことはわかる。奴隷制度を潰したい。——でも、それは今じゃないわ」
「……わかってます」
「わかってないわ。あんたの顔に『今すぐ何とかしたい』って書いてあるもの」
「……そんなにわかりやすいですか」
「ガラス張りよ」
マリーナは窓辺に寄った。
「いい? 今あんたがやっていることは、冒険者ギルドの依頼に契約書を導入すること。それがやっと動き始めた。二十八件。まだ全体の一割にも満たない。この段階で奴隷制度に手を出したら——」
「全部が潰れる」
「そう。あんたは王国法に喧嘩を売ることになる。契約書の導入は民間の取り決めだから成立してるの。法に逆らったら、ギルドの契約書ごと潰される。今の仕組みを守りたいなら、射程距離を間違えちゃダメよ」
誠は椅子に座り直した。
「……コンプラの世界でも同じです。全部を一度に変えようとすると、何も変わらない。段階的に、一つずつ——」
「でしょう?」
「でも——目の前で人が売られているのを見て、『今は射程外です』と言い切れるほど、僕は割り切れない」
「割り切れなくていいわよ。感情は持っておきなさい。ただ、行動は分けなさい。——それが、あんたの世界の言葉で言うと何だっけ」
「……優先順位の管理、ですかね」
「そう。それ」
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午後。
誠は、一人で南区に向かった。
マリーナには「散歩」と言った。嘘だ。奴隷市場を見に行く。手を出せないことはわかっている。でも、見なければならない。見ないふりをするのは、コンプラ担当のやることじゃない。
南区は、街の外れにあった。大通りから一本裏に入ると、空気が変わる。石畳が途切れ、土の道になる。建物の壁は薄汚れ、窓が板で塞がれた店が並ぶ。
奴隷市場は、思ったより小さかった。広場に木製の台が一つ。その周りに、商人と買い手がまばらに集まっている。
台の上に、人が立っていた。
——子供だった。
ルカと同い年くらいの、痩せた少年。目が虚ろだ。手首に縄。裸足。
誠の足が止まった。
競りが始まった。奴隷商が少年の「仕様」を読み上げる。年齢、体力、魔力適性、健康状態。家畜の品評会と同じだ。
「——魔力適性は中の上。鉱山労働、畑作、どちらにも使えます。本日の開始価格は銀貨十五枚——」
誠は、拳を握った。爪が掌に食い込んで、じわりと血が滲んだ。呼吸が浅くなる。肺が締め付けられるように苦しい。
動くな。今は動くな。ここで叫んでも何も変わらない。むしろ、ギルドの契約書まで潰される。わかってる。わかってるんだ。
競りが進む。銀貨十五枚。二十枚。二十五枚。
少年は一度も顔を上げなかった。
——一瞬だけ、上げた。
誠と、目が合った。少年の瞳には何もなかった。怒りも、悲しみも、助けを求める光も。ただ、空だった。
その目が、誠の胸に焼きついた。
「三十枚で落札——」
その時、落札者が書類にサインした。奴隷商が差し出した売買証書。
誠は、その書類の上部を見た。
紋章が入っていた。
見覚えのない紋章——いや。エリーゼが今朝持ってきた売買証書にも、同じ紋章があった。
「……あの紋章」
誠は、隣にいた露天商に小声で聞いた。
「すみません、あの書類に入っている紋章——あれはどこの家紋ですか」
露天商はちらりと見て、何でもないことのように答えた。
「ルンゲ家だよ。この辺の奴隷商は大体ルンゲ家の息がかかってる。奴隷の仕入れから売買まで、全部あそこが仕切ってるんだ」
ルンゲ。
あの倉庫の夜に、名前だけ聞いた。「面白いことをする奴がいるらしいな」と言った男。契約書の存在を知った男。
その男の紋章が、奴隷売買の書類に入っている。
「……ルンゲ家って、どういう——」
露天商の顔色が変わった。
「おい。その名前、ここで出すな。消えるぞ」
それだけ言って、露天商は足早に去った。振り返りもしなかった。
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マリーナのオフィスに戻った。
エリーゼが待っていた。誠の顔を見て、すぐに察した。
「……行ったのか。奴隷市場に」
「行きました」
「何を見た」
「子供が売られるのを見ました。ルカと同い年くらいの子が。——そして、売買証書にルンゲ家の紋章を見ました」
マリーナが、ペンを置いた。
「……あんた、ルンゲの名前、知ってるの」
「名前だけです。どういう人物なんですか」
マリーナとエリーゼが、視線を交わした。重い沈黙。
マリーナが先に口を開いた。
「ルンゲ侯爵。王都貴族院の有力者。表向きは慈善事業と農地経営。裏では——冒険者ギルドへの出資、奴隷売買の元締め、街の利権の大半を握っている。バルドが逆らえないのも、ルンゲの金がギルドに流れているから」
「……バルドが、ルンゲの——」
「傀儡、とまでは言わない。でも、金の流れには逆らえない。あの帳簿の不自然な金の流れ、覚えてる? 全部、ルンゲに繋がってるのよ」
誠は、いつかマリーナが見せた帳簿を思い出した。不自然な金の流れ。使途不明金。あの時はまだ意味がわからなかった。
「つまり——この街のシステム全体が、ルンゲの利益のために設計されている」
「そこまで単純じゃないけど、大筋はそう。奴隷売買で人を仕入れ、ギルドで働かせ、利益を吸い上げる。契約がない世界だから、誰も文句を言えない。——言えなかった、というべきね。あんたが来るまでは」
「僕の契約書が、その構造を脅かしている」
「そういうこと」
エリーゼが口を開いた。
「ルンゲは、お前の動きを把握している。定期報告で知ったはずだ」
「……でも、まだ動いてこない」
「ああ。それが怖い。すぐに潰しに来るなら対処できる。泳がせているということは——」
「何かを考えている」
「そうだ」
三人の間に、沈黙が落ちた。
誠は、窓の外を見た。南区の方角。あの少年は今頃、どこにいるのだろう。
「……マリーナさん」
「何」
「奴隷制度に手を出すのは、今じゃないと言いましたね」
「言ったわ」
「それは正しいと思います。今の僕には、法を変える力がない。でも——」
誠は、テーブルの上の売買証書を手に取った。
「この証書、コピーさせてもらっていいですか」
「何をする気?」
「記録です。今は手を出せない。でも、記録は残せる。いつか手が届く範囲が広がった時のために——証拠を集めておきたい」
マリーナが、じっと誠を見た。
「……あんたの世界では、それも『コンプラ』なの?」
「内部監査の基本です。すぐに是正できなくても、記録は残す。記録があれば、後から追える。——証拠がないと、何も始まらない」
「……ふうん」
マリーナは新しい羊皮紙とインクを差し出した。
「好きにしなさい。ただし、ルンゲの耳に入らないようにね」
「わかってます」
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夜。ルカが誠の部屋に来た。
正確には、マリーナのオフィスの隅に置かれた仮眠用の寝台。誠の「部屋」はそこだ。
「おっさん。今日、南区に行ったでしょ」
「……なんでわかるんですか」
「靴の泥。南区の土は赤いの。知らないの」
「探偵か」
「冒険者だから。観察力は大事」
ルカは床に座り込んだ。膝を抱える。いつもの姿勢。
「……私も、あそこから来たの」
誠の手が止まった。
「奴隷市場から?」
「ううん。市場には出てない。でも——両親が死んだ後、私を引き取った人がいた。魔法の才能を見つけて、ギルドに売り込んだの。お金はその人が受け取った。私には一銭も来なかった」
「…………」
「書類もあったよ。『保護委託契約書』って書いてあった。私は読めなかったけど、大人が『これにサインしなさい』って言ったから、サインした。——今思えば、あれ、おっさんが言う『命令書』だったんだろうね」
誠は、何も言えなかった。
目の前にいるのは、かつて「契約書」の名を借りた紙切れ一枚で、人生を売られた子供だ。
「ルカ」
「何」
「僕が作った契約書は——君を縛るためのものじゃない。守るためのものだ。それだけは、約束する」
「知ってるよ」
ルカは、あっさりと言った。
「おっさんの契約書は、ちゃんとしてる。読める。意味がわかる。嫌なら断れるって書いてある。——前の『契約書』とは、全然違う」
「…………」
「だから——おっさんの契約書は、信じてもいいかなって。ちょっとだけ。ほんのちょっとだけ、思ってる」
誠は、鼻の奥が熱くなった。泣くな。三十二歳が十一歳の前で泣くな。
「……ありがとう、ルカ」
「別に。感謝されるようなことは言ってないし」
「はい」
「泣きそうな顔しないで。キモいから」
「キモくないです」
「キモい」
ルカは立ち上がって、ドアに向かった。振り返らずに、一言だけ。
「——あの市場、いつかなくして」
ドアが閉まった。
誠は、天井を見上げた。
いつか、なくす。今は無理だ。射程外だ。でも——記録は残す。証拠を集める。仕組みを育てる。手が届く範囲を、少しずつ広げる。
それがコンプラ担当の仕事だ。派手じゃない。遅い。まだるっこしい。——でも、確実に。
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