第6話「人が死んでからでは遅い」
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血の匂いが、まだギルドに残っていた。
右腕を失った冒険者——ドルクという名だと、後で知った——は治療室に運ばれた。回復魔法で命は繋いだが、腕は戻らない。回復魔法にも限界がある。失われたものは、失われたままだ。
ギルドのホールは、昨日と全く違う空気に包まれていた。
昨日、契約書を燃やして笑った冒険者たちが、今日は誰一人笑っていない。壁際に座り込む者、テーブルに突っ伏す者、仲間と低い声で何かを話し込む者。
「Cランクの薬草採取だぞ……」
「情報が全然違う。A級の魔物がいるなんて、どこにも書いてなかった」
「ドルクの前に、あの依頼を受けてた奴がいたらしい。そいつは直前にキャンセルした。何か知ってたんじゃないか」
憶測が飛び交い、怒りの矛先が定まらない。バルドは奥の部屋に引っ込んだきり、出てこない。
───
誠は、マリーナのオフィスにいた。
ノートPCの前に座っている。画面には、昨夜修正を加えた契約書のデータ。バッテリー残量、八パーセント。マリーナが「充電器もないのに毎回開くのね」と呆れた顔をしている。
「——タイミングよ」
マリーナの声は、静かだった。
誠は動かなかった。
「……知ってます」
「なら、立ちなさい」
「わかってるんです。今がその時だって。でも——」
誠は、画面を見つめた。
「あの人の腕が飛んだのを見て、最初に思ったことが『これで契約書を通せる』だったんです」
マリーナが、黙った。
「コンプライアンスの人間って、そうなんですよ。不祥事が起きた時、頭の片隅で『これで改革が進む』って思ってしまう。最低でしょう。人が傷ついて喜んでるんだから」
「……喜んでるの?」
「喜んでません。でも——動ける、と思ってしまった。それは同じことです」
マリーナは椅子から立ち上がり、窓辺に寄った。下の通りには、治療室の前で仲間を待つ冒険者たちの姿がある。
「是永」
「はい」
「あんた、今すごく面倒くさいこと言ってるの、自覚してる?」
「……すみません」
「謝らなくていい。面倒くさいのは長所よ。でもね——」
マリーナが振り返った。
「あんたが動かなくても、次の被害者は出る。その時あんたが『間に合わなかった』ってまた言うの?」
誠の手が、止まった。
「今あんたが罪悪感に浸ってる間にも、次の虚偽依頼が出回ってるかもしれない。自分の気持ちに向き合うのは後でいいのよ。今は——仕組みを動かしなさい」
誠は、画面を閉じた。
「……マリーナさん」
「何」
「あなた、優しくないですね」
「商人に優しさを求めないで」
誠は立ち上がった。
——もう、「間に合わなかった」とは言わない。
───
ギルドのホールに降りた。
冒険者たちの視線が集まる。昨日、契約書を燃やされた男。「紙切れ屋」。「お役所さん」。そんなあだ名がついていることくらい、誠も知っていた。
その視線の中に——昨日、唇を噛んでいた若い冒険者がいた。笑わなかった一人。目が合った。逸らされなかった。
誠は、ホールの中央に立った。
声を出そうとして、一瞬、詰まった。
何を言えばいい。「だから言っただろう」か。「契約書があれば防げた」か。——そんな言葉、今この場で言えるわけがない。
「——すみません」
最初に出たのは、謝罪だった。
冒険者たちがざわついた。
「すみません。昨日、僕は契約書を持ってきました。燃やされました。……もっと早くに、もっとうまくやれていたら、今日のことは防げたかもしれない」
「おい、何言ってんだ——」
「昨日の今日で——」
「聞いてください」
誠の声が、少しだけ大きくなった。大きくなったが、叫んではいなかった。会議室の声だ。何百回もの説明会で鍛えた、静かに通る声。
「僕が昨日持ってきた契約書には、依頼内容の事前開示という項目がありました。依頼を出す側が、危険度と実際の状況を正確に記載する義務。嘘の情報を書いたら、依頼主が賠償責任を負う。——もしあの契約書が使われていたら」
誠は、一拍置いた。
「少なくとも、嘘の情報で依頼を出すことには、ペナルティがあった」
ホールが、静まった。
「紙で腕は戻りません。契約書は魔法じゃない。でも——嘘の依頼を出しにくくする仕組みにはなる。次に同じことが起きた時、『ギルドの責任だ』と言える根拠になる」
「……根拠?」
声を上げたのは、壁際にいた中年の冒険者だった。腕を組んで、誠を睨んでいる。
「そんなもんで何が変わる。バルドが認めるわけないだろう」
「バルドさんが認めなくても、使えます」
誠は、ポケットから折り畳んだ羊皮紙を取り出した。昨夜、マリーナのオフィスで刷り直したアイコン契約書。
「この契約書は、冒険者と依頼主の間で個別に結ぶものです。ギルドの公式制度じゃない。つまり——ギルド長の許可はいらない」
冒険者たちの間に、小さなざわめきが起きた。
「待て。ギルドを通さずに契約を結ぶってことか」
「いえ、依頼はギルドを通します。ただ、依頼を受ける前に——冒険者と依頼主の間で、内容を確認する追加の手続きを入れるだけです。ギルドの業務は何も変わりません」
「でも——」
「しかも」
ここで、マリーナが階段を降りてきた。タイミングが完璧すぎる。打ち合わせ通りだった。
「商人ギルドとして、一つ提案があるわ」
マリーナは冒険者たちの前に立った。商人ギルドマスターの登場に、何人かが背筋を伸ばす。金の話になると、人は自然と姿勢が良くなる。
「契約書付きの依頼については、商人ギルドが報酬を保証します。依頼主が報酬を踏み倒した場合、商人ギルドが立て替えて支払う。回収は私たちがやるわ」
空気が、変わった。
「……報酬保証?」
「マジか」
「踏み倒しがなくなるってことか?」
「条件は一つ。契約書を使うこと。契約書がない依頼については、商人ギルドは一切関知しない。——つまり、今まで通り自己責任よ」
冒険者たちの間で、計算が始まった。誠にはその空気がわかった。正義でも理念でもない。損得勘定。一番確実に人を動かすもの。
「……ちなみに、手数料は?」
腕を組んでいた中年の冒険者が聞いた。さっきまで「そんなもんで何が変わる」と言っていた男が、もう手数料の話をしている。
「報酬の五パーセント。依頼主側の負担よ。冒険者の取り分は変わらない」
「五パーセント……」
「高いと思う? でも考えてみて。今回のドルクの件、右腕の治療費はいくら? 回復魔法の費用、休業中の生活費、そして——もう片腕では受けられない依頼の分の収入。全部合わせたら、五パーセントなんて誤差よ」
沈黙。
誰も反論しなかった。
───
最初に動いたのは、あの若い冒険者だった。
昨日、唇を噛んでいた男。名前はトビアスと言った。二十代前半、Dランクの新人。
「——俺に、一枚くれ」
トビアスが、誠の前に立った。手が、わずかに震えていた。
ホールの全員の視線が集まる。昨日、誰も味方しなかった紙を、最初に受け取ろうとしている。
「……正直、怖えよ。俺みたいな新人が手を挙げたら何言われるかわかんねえし」
トビアスは、それでも手を引っ込めなかった。
「でも——昨日、笑えなかった。笑ったふりもできなかった。今日、また黙ってたら、もう一生黙るやつになる気がした」
誠は、契約書を差し出した。
「……ありがとうございます」
「礼はいい。——昨日、笑わなかっただろ、あんた」
誠が目を見開いた。
「見てたよ。一人だけ、笑ってなかった。でも何も言えなかった。——だから今日は、最初に手を挙げる」
トビアスが契約書を受け取った。アイコンが並んだ羊皮紙を、丁寧に広げて、一つ一つ確認している。
「……この盾のマーク、何だ?」
「報酬保証です。このマークがある依頼は、商人ギルドが支払いを保証します」
「へえ」
トビアスが、小さく笑った。
「なんか——すげえな。紙一枚で、こんなこと決められるんだな」
「決められます。契約書って、そういうものなんです」
二人目が来た。三人目が来た。
四人目は、さっきまで腕を組んでいた中年の冒険者だった。名前は聞かなかった。黙って一枚取って、黙って戻っていった。
三十分で、十二枚の契約書が冒険者の手に渡った。
ギルドに登録されている冒険者は約二百人。十二枚は、たった六パーセント。だが——ゼロじゃない。
───
ギルドの隅で、ルカが柱に背をもたれて見ていた。
誠が気づいて、近寄った。
「ルカ、体はもういいんですか」
「べつに。治療室が暇だから出てきただけ」
「……見てたんですか」
「見てた」
ルカは腕を組んだ。十一歳が腕を組むと、ちょっとだけ生意気で、ちょっとだけ可愛い。誠は思ったが、言ったら殴られるので黙っておいた。
「おっさんさ」
「はい」
「昨日あんなにへこんでたのに、もう立ち直ったの?」
「立ち直ってませんよ。全然」
「え」
「膝はまだ震えてますし、声も裏返りそうでした。さっきのスピーチ、十七回くらい噛みました」
「数えてたの?」
「コンプラ担当は数字に正確じゃないといけないので」
「嘘でしょ」
「嘘です。体感です」
ルカが、呆れた顔をした。
「……でも、やったんだ」
「はい」
「震えてても、やったんだ」
「ええ。——やらなかったら、次に怪我する人に顔向けできないので」
ルカは何か言いかけて、やめた。代わりに、柱から背を離して、ぽつりと言った。
「……あの契約書、私の分もあるの?」
「ルカの分?」
「私だって冒険者なんだけど。依頼受けるんだけど」
「——十一歳は」
「年齢制限の話はあとにして。契約書の話」
誠は苦笑した。
「あります。というか、ルカの分は最初に作ってました」
「……は?」
「最初に契約書を設計した時、ルカが読めるかどうかを基準にしたんです。だから、ルカに一番わかりやすいはずです」
ルカが、ほんの少しだけ目を伏せた。
「……別に、嬉しくないし」
「はい」
「嬉しくないからね」
「はい、はい」
「——一枚、ちょうだい」
誠は一枚を取り出して、ルカに渡した。ルカはひったくるように受け取って、アイコンを指でなぞった。
「……前より、わかりやすくなってる」
「昨夜、少し直しました。ルカが前に『この剣のマークわかんない』って言ってたので、もう少しシンプルにしました」
「——聞いてたの、あれ」
「聞いてました」
「…………」
ルカは契約書を丸めて、ポケットに突っ込んだ。乱暴に。でも、落とさないように。
───
日が暮れて。
誠はマリーナのオフィスに戻った。エリーゼも一緒だった。三人で、今日の結果を整理する。
「十二枚。上出来じゃない?」
マリーナが、帳簿にペンを走らせながら言った。
「正直、五枚いけば御の字だと思ってた。あんたのスピーチ、意外とよかったわよ」
「意外と、は余計です」
「エリーゼ。あんたはどう思った?」
エリーゼは壁に寄りかかり、腕を組んでいた。ずっと何かを考えている顔だった。
「……是永」
「はい」
「今日、冒険者たちが契約書を受け取ったのは、報酬保証があったからだ」
「ええ、そうです」
「正しさではなく、利害で動いた」
「……その通りです」
「それで——いいのか」
誠は、少し考えた。
「よくはないです。本当は、正しいから受け入れてほしい。でも——」
「でも?」
「きっかけは損得でいいんです。使い始めれば、契約書の意味がわかる。『こんなはずじゃなかった』がなくなる。トラブルが減る。そうなったら、損得じゃなくて『当たり前のもの』になる。——僕の世界でも、最初はそうでした」
「なるほど」
エリーゼが腕組みを解いた。
「私には、まだわからないことが多い。契約、権利、責任。お前の世界の言葉は、どれも重い。だが——」
「だが?」
「お前がやろうとしていることは、正しいと思う。方法は——正直まだるっこしいが」
「まだるっこしい」
「騎士なら剣で解決する」
「それコンプラ違反です」
「……また、それか」
マリーナが小さく笑った。エリーゼが顔を赤くした。
───
夜。
全員が帰った後、誠は一人でオフィスに残った。
ノートPCを開く。バッテリー残量、三パーセント。もう長くない。充電できないこの世界では、このパソコンはいつか文鎮になる。
だが——今夜だけは、まだ動く。
誠は、契約書のテンプレートを開いた。今日配った十二枚は、まだ試作品だ。実際の依頼で使われたら、問題が出てくるだろう。文言の曖昧さ、想定外の依頼形態、悪用の可能性。
悪用。
その言葉が、頭の隅に引っかかった。いつかマリーナが言った言葉が甦る。
——契約は人を守る道具にも、縛る鎖にもなる。
自分が作った仕組みが、誰かを縛る鎖になる可能性。それを、忘れてはいけない。
誠は、契約書の末尾に一行を書き加えた。
「本契約は、双方の合意なく改変できない」
当たり前のことだ。当たり前のことを、書いておく。それがコンプライアンスだ。
——画面が、暗くなった。
バッテリーが切れた。
「……まあ、いいか」
誠はPCを閉じた。明日からは、紙とインクだけが頼りだ。
窓の外に、異世界の星が広がっていた。地球と似ているようで違う、知らない星座。
十二枚。ゼロから十二。
少ないけど、ゼロじゃない。
誠は目を閉じた。今日だけは、少しだけ眠れそうだった。
───
同じ夜。
王都から馬車で半日の距離にある、とある館。
暖炉の前で、一人の男がワインを傾けていた。五十代。痩せた体躯に、仕立ての良い上着。指には三つの宝石の指輪。
従者が一通の書簡を持ってきた。
「冒険者ギルドの定期報告でございます、ルンゲ様」
ルンゲは書簡を開いた。目を通す。冒険者の稼働率、依頼の消化状況、収益——その中に、一つの報告があった。
「……契約書?」
目が細くなった。
「異界からの転移者が、冒険者の依頼に契約書を導入しようとしている。商人ギルドマスターの支援あり。現在、十二名の冒険者が採用」
ルンゲは書簡を暖炉に落とした。紙が炎に呑まれる。
「面白いことをする奴がいるらしいな」
従者は黙っていた。
「……契約書、か。結構なことだ」
ルンゲは、ワインを一口含んだ。
「ルールがあるということは——ルールの穴も、あるということだ」
従者が沈黙を保っている。
「しかも契約書は便利だ。人を守れる。だからこそ——」
ルンゲは微笑んだ。暖炉の炎が、その笑みを照らしていた。
「——人を縛るのにも、使える」
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