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第5話「契約書、燃やされる」

───


 冒険者ギルド。昼下がり。


 誠はギルドの扉の前に立っていた。右手にアイコン契約書の巻物。左手にマリーナが用意した比較データの束。背後にエリーゼが控えている。


「——準備はいいですか」


「私に聞くな。お前の戦いだろう」


「……ですよね」


 深呼吸。一つ。二つ。


 扉を押し開けた。


───


 昼のギルドは、夜ほど混んでいない。だが、それでも二十人ほどの冒険者がカウンター付近や酒場のテーブルに散っている。依頼の打ち合わせをする者、昼から酒を飲む者、武器の手入れをする者。


 誠のスーツ姿は、もう何人かには見覚えがあるらしい。「またあの変なやつか」という視線が刺さる。


 受付カウンターの奥から、バルドが出てきた。


「お前か。何の用だ」


「ギルド長。お時間をいただけますか。冒険者ギルドの運営改善について、具体的な提案があります」


「運営改善? この前も聞いたが——」


「前回は問題提起だけでした。今日は解決策を持ってきました」


 誠は巻物を持ち上げた。


「これは、冒険者の依頼契約のための標準契約書です。読み書きができない方でも使えるよう、絵記号で設計しました」


 バルドが、巻物をじろりと見た。


「……見せてみろ」


 誠は契約書を広げた。テーブルの上に、盾と剣のアイコンが並ぶ。


 バルドは三十秒ほど契約書を眺めた。太い指で項目をなぞり、眉をひそめたり、鼻を鳴らしたりしていた。


 ギルドの中が、少し静かになっていた。何人かの冒険者が、こちらに注目している。


「……絵で描いた契約書か」


「はい。依頼内容、報酬、危険度、双方の権利と義務を明記します。これがあれば——」


「却下だ」


 バルドは即答した。


「——は?」


「聞こえなかったか。却下だ。こんなもん、要らん」


「理由を聞かせてください」


「理由?」


 バルドが立ち上がった。巨体がテーブルの向こうにそびえる。


「冒険者は自由だ。依頼を受けるも受けないも、自分で決める。危険を承知で飛び込む。それが冒険者ってもんだ。紙切れに縛られる筋合いはねえ」


 声が大きくなっていた。ギルド中の視線が集まっている。


「ギルド長、これは縛るためのものではありません。冒険者を守る——」


「紙で命が守れるか」


 バルドの声が、一段低くなった。


「冒険者を守るのは腕だ。剣の腕、魔法の腕、仲間の腕。紙じゃねえ。お前はこの世界で一度でも剣を振ったことがあるか? 魔物の前に立ったことがあるか? ねえだろう。そんな奴が作ったルールに、命を預ける冒険者がいると思うか?」


 誠は、言葉に詰まった。


 ——反論できない。


 バルドの言葉には、一欠片の真実があった。紙は剣を止められない。ルールは魔物を倒せない。この世界で命を張っている人間に、デスクワークしかしてこなかった男が何を言えるのか。


「守る? 冒険者が守られたいなんて言ったか?」


 バルドがギルドの中を見回した。


「おい、お前ら。こいつが言ってんのは、依頼を受ける前に紙にサインしろ、報酬も危険も全部書面にしろ、ガキは危ない仕事するな、ってことだ。どう思う?」


 沈黙。


 そして——笑い声が起きた。


「何だそりゃ。面倒くせえ」


「紙にサインしてる間に依頼取られるだろ」


「俺ら冒険者だぞ。役人じゃねえんだ」


「ガキでも強い奴は強いだろ。年で区切んなよ」


 笑い声と野次が広がっていく。二十人の冒険者が、ほぼ全員、バルドの側についた。


 誠は、その光景を見ていた。


 ——いや。一人だけ、笑っていない冒険者がいた。奥のテーブルで、若い男が杯を握ったまま、目を伏せている。笑いもしない。野次も飛ばさない。ただ、何かに耐えるように、唇を噛んでいた。


 だがその男も、声を上げることはなかった。


「——マリーナさんのデータを見てください」


 声が少し震えたが、押し通した。書類の束をテーブルに置く。


「隣町のギルドとの比較です。冒険者の流出率、依頼達成率、事故率。この街のギルドは、三年前と比べて登録冒険者が二割減少しています。依頼の事故率は他のギルドの一・五倍。このままでは——」


「黙れ」


 バルドの声が、低く響いた。笑いが止んだ。


「お前、商人ギルドの女と組んでるんだろう。あの女狐の差し金か」


「差し金ではありません。ギルドの持続可能性を——」


「持続? 冒険者ギルドは百年続いてんだ。お前みたいなよそ者に、あれこれ言われる必要はねえ」


 バルドはテーブルに手を突いた。ミシリ、と木が軋む。


「それにな——」


 太い指が、契約書をつまみ上げた。


「この『年齢制限』ってのは何だ。十五歳未満は低危険度のみ? ルカのことか」


「……一般的な年齢制限です。特定の個人を——」


「嘘をつくな。お前はあの小娘のために、ギルドの仕組みをいじろうとしてんだ。一人のガキのために、全体のルールを変える? そんなもん——」


 バルドは、契約書を片手で持ち上げた。


 反対の手で、テーブルの上のランプの蓋を開けた。


 炎が、揺れていた。


「——冒険者には、こんなもん要らねえんだよ」


 契約書が、炎に近づけられた。


「待ってください——」


 羊皮紙の端が、赤く色づいた。


 炎が移った。


 乾いた羊皮紙は、あっという間に燃え上がった。盾のアイコンが歪み、剣の記号が灰に変わっていく。報酬保証も、危険度表示も、中途離脱権も、年齢制限も——三日間かけて設計した全てが、目の前で灰になった。


 バルドが燃えかすをテーブルに落とした。


「以上だ。二度と持ってくるな」


 ギルドの中が、静まり返った。


 冒険者たちは、誰も誠を見なかった。見ないようにしていた。


 エリーゼが一歩前に出ようとした。剣の柄に手がかかっている。だが誠が小さく首を振った。ここで力に訴えたら、全てが終わる。


「……わかりました」


 誠は灰を見つめた。まだ、小さな火の粉がくすぶっている。


「本日は、お時間をいただきありがとうございました」


 頭を下げた。


 ギルドを出た。


───


 外は、晴れていた。


 午後の陽射しが石畳を照らし、通りには人が行き交っている。何も変わらない日常。誠の三日間の仕事が灰になったことを、誰も知らない。


 エリーゼが隣を歩いていた。何も言わなかった。


 しばらく無言で通りを歩いた後、誠は壁にもたれて座り込んだ。


「……まいったな」


 声が、乾いていた。


「燃やされるとは思いませんでした。却下は覚悟してたけど、燃やすか、普通」


「……あれが、バルドだ」


「ええ」


 ノートPCを開いた。バッテリー残量、十二パーセント。契約書のデータはローカルに残っている。紙は燃えても、データは消えない。


 だが——。


「データは残ってるんですよ。また刷ればいい。でも……」


 手が、止まった。


「意味があるのかな」


「是永?」


「冒険者は誰一人、僕の味方をしなかった。全員がバルドの側だった。僕が守ろうとした人たちが、僕の提案を笑った」


 エリーゼが黙った。


「僕の世界でもね、同じことがあったんです。社員を守るための規程を提案しても、当の社員に『面倒くさい』と言われる。規則が増えるのを嫌がる。不正を見逃した方が楽だから」


 誠は膝を抱えた。三十二歳のスーツ姿の男が、異世界の路地裏で膝を抱えている。絵面としてはかなり情けない。


「……あの契約書、三日かかったんですよ。マリーナさんの知恵、エリーゼさんの知恵、ルカの声。全部入れて作ったのに。十秒で灰になった」


「…………」


「僕は馬鹿なのかもしれません。異世界に来て、何の力もないのに、制度を変えようなんて」


「——是永」


 エリーゼの声が、硬かった。


「黙って聞いていたが、一つ言わせろ」


「……何ですか」


「お前の言っていることは、間違っていない」


 誠が顔を上げた。


「あのギルドで、正しいことを言ったのはお前だけだ。冒険者たちは笑ったが、笑ったのは理解できなかったからだ。間違いを指摘されたことが恥ずかしかったからだ」


「でも、結果は——」


「結果は失敗だ。それは認めろ。だが、失敗したから間違っていたわけじゃない」


 エリーゼは壁にもたれた。誠の隣に、少し距離を置いて。


「お前がギルドで言ったこと、私はずっと考えていた。冒険者を守る仕組み。年齢制限。責任の所在。全部、この世界に存在しない概念だ。存在しないから、誰も想像できない。想像できないから笑う」


「…………」


「だが——」


 エリーゼが、少しだけ声を落とした。


「正しいことを言っている人間を笑う組織は、腐っている。私は騎士団にいるから、それはよくわかる」


 誠は、エリーゼを見た。


 初めて会った時の、制度に何の疑問も持たない女騎士。「力ある者が戦うのは当然」と言い切った人。


 その人が今、「あの組織は腐っている」と言った。


「エリーゼさん」


「……何だ」


「ありがとうございます」


「礼を言われることじゃない。事実を言っただけだ」


 エリーゼは顔をそむけた。耳が、少し赤い。


───


 マリーナのオフィスに戻ると、マリーナは机に向かって帳簿を付けていた。誠の顔を見て、すべてを察したらしい。


「燃やされた?」


「……どうしてわかるんですか」


「あんたの顔に『燃やされました』って書いてあるわよ」


 マリーナはカップを差し出した。温かい茶。誠は受け取って、一口飲んだ。


「データは残ってます。もう一度刷れば——」


「同じものを持っていっても、また燃やされるわよ」


「……わかってます」


「じゃあ、どうするの。諦める?」


 誠は茶を見つめた。


「……諦めません。でも、正直、方法が見えない」


「そう」


 マリーナは帳簿を閉じた。


「ねえ、是永。一つ教えてあげる」


「何ですか」


「商売で一番大事なのは、タイミングよ。同じ商品でも、売り時を間違えたら一文にもならない。逆に、タイミングさえ合えば、誰もが喉から手が出るほど欲しがる」


「……今は、タイミングじゃなかった?」


「そう。冒険者たちは困ってないのよ。今のやり方で回ってると思ってる。困ってない人に、新しい仕組みを押しつけても拒否される。当然のことよ」


「では、いつ——」


「困った時」


 マリーナの目が、据わった。


「冒険者たちが『今のままじゃまずい』と思った瞬間。その時に契約書を差し出せば、受け取る。人間はそういう生き物なの」


「……困った時を、待つ」


「待つ。そして、その時が来たら迷わず動く。準備だけは完璧にしておくこと」


 誠は頷いた。待つ。自分から動くのではなく、環境が変わる瞬間を待つ。コンプライアンスの世界でも、大きな改革は不祥事の後にしか進まない。それは皮肉な真実だ。


「——人が傷ついてからじゃないと、仕組みは変わらない。それは、僕の世界でも同じでした」


「でしょうね」


「嫌な話ですけどね」


「嫌な話よ。でも、それが現実」


───


 その夜。


 誠は冒険者ギルドの治療室にルカを訪ねた。


 ルカは寝台の上であぐらをかいて、壁に描かれた落書きを数えていた。暇そうだ。


「おっさん。遅い」


「すみません」


「契約書、どうだった?」


 誠は、少し間を置いた。


「……燃やされました」


「は?」


「ギルド長に、目の前で。灰になりました」


 ルカが、目を丸くした。


「——嘘でしょ」


「本当です」


「あんた、あんなに頑張って作ってたのに」


「ええ」


「私に見せてくれた時、あんなに嬉しそうだったのに」


「……そうでしたか?」


「そうだよ。目がキラキラしてて、正直ちょっとキモかったけど」


「キモかった」


「いい意味で」


 いい意味のキモいって何だ。


 ルカが、膝を抱えた。


「……おっさんが来る前から、ずっとこうだったんだよ」


「え?」


「何も変わらないの。誰かが怪我しても、誰かが死んでも、ギルドは『自己責任だ』って言うだけ。おかしいって言う人も、たまにいたよ。でも、みんな諦めて、いなくなった」


 ルカの声は、静かだった。怒りでもなく、悲しみでもなく、ただの事実として。


「おっさんも、いなくなるの」


 その問いに、誠は黙った。


 一秒。二秒。


「——いなくなりません」


「嘘」


「嘘じゃないです」


「みんなそう言って、いなくなった」


「僕は、いなくなりません。契約書は燃えましたけど、データは残ってます。何度でも刷れます。そして、タイミングが来たら——」


「タイミング?」


「この仕組みが必要だと、みんなが思う瞬間が来ます。その時に、すぐに出せるように準備しておく。それが今の僕にできることです」


 ルカは誠をじっと見た。


「……おっさんってさ」


「はい」


「頑固だよね」


「コンプラ担当は頑固じゃないとやってられません」


「ふうん」


 ルカは毛布を引き寄せて、ごろりと横になった。


「……じゃあ、いなくならないで。約束」


「約束します」


「破ったら——」


「コンプラ違反ですね」


「意味わかんないけど、なんかすごそう」


 誠は笑った。負けた日の夜に、笑えた。それだけで、少しだけ前を向けた。


───


 翌日。


 その「タイミング」は、誠が思っていたよりずっと早く来た。


 朝。ギルドに、血まみれの冒険者が一人、担ぎ込まれた。


 Cランクの採取依頼だったはずだ。薬草の採取。危険度は低い。だが実際には、採取地にA級の魔物が巣を作っていた。依頼書にはそんな情報、一切書かれていなかった。


 冒険者は右腕を失った。


 誠は、動けなかった。


 ——間に合わなかった。


 昨日、契約書を通せていたら。依頼内容の事前確認が義務づけられていたら。この人は、両腕のまま帰ってこられたかもしれない。


 その事実が、胸を抉った。


 ギルドの中が、騒然となった。


「どういうことだ! Cランクの依頼だったんじゃないのか!」

「情報が違いすぎる! 殺す気か!」

「ギルド長、説明しろ!」


 怒号の渦の中、バルドが奥の部屋から出てきた。いつもの威圧的な足取りではなかった。血まみれの冒険者を一瞥し、口を開きかけて——閉じた。ほんの一瞬。だが誠は見た。その一瞬の沈黙を。


 バルドは冒険者たちに向き直り、「落ち着け。調査する」とだけ言った。声は硬かった。


 治療室の入り口に、ルカがいた。柱の陰に半分隠れて、血まみれの冒険者を見つめていた。手が、震えていた。小さな拳を握りしめて、それでも止まらなかった。——あれは、自分だったかもしれない。その恐怖が、十一歳の体を震わせていた。


 エリーゼは騒ぎの中、壁に背をつけて立っていた。腕を組んでいたが、その指先が白くなっている。


「……これが」


 小さく、誰にも聞こえない声で、呟いた。


「——これが、"当然"なのか」


 怒号が飛び交う中、誠はマリーナのオフィスでその報せを聞いた。


 マリーナが言った。


「……タイミングよ」


 誠は立ち上がった。


 ノートPCを開く。バッテリー残量、八パーセント。契約書のデータはある。印刷できる。


 だが——右腕を失った冒険者の姿が脳裏に浮かぶ。この瞬間を「チャンス」と呼ぶことの罪深さを、誠は知っていた。


「……人が傷ついてからじゃないと、仕組みは変わらない」


「ええ」


「最悪な話ですね」


「最悪よ。でも——」


 マリーナが、新しいインクの瓶を差し出した。


「——今、動かないのは、もっと最悪よ」


 誠は、インクを受け取った。


───


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