第4話「口約束の国で契約書を書く」
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契約書を作る。
言うのは簡単だ。だが、やってみると壁だらけだった。
マリーナのオフィスの一角を借りて三日目。誠の周囲には、書き損じの羊皮紙が山のように積まれていた。
「……駄目だ。また詰まった」
誠は頭を抱えた。
問題は三つあった。
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問題その一。識字率。
マリーナが三年前に調べた識字率データによると、この街の住民のうち文字が読めるのは約三割。冒険者に限ると、二割を切る。
「二割……」
「驚いた? 商人はほぼ全員読み書きできるけど、冒険者は剣と魔法で生きてるからね。文字なんか覚える暇がないのよ」
マリーナが書類仕事の合間に解説してくれた。
「つまり、契約書を作っても、八割の冒険者が読めない」
「そうなるわね」
「読めない契約書に署名させたら、それ自体がコンプラ違反です。説明義務を果たしていないことになる」
「こんぷら違反って、あんたの世界の基準でしょ」
「基準はこれから作るんです。だからこそ、最初から正しく作りたい」
マリーナが肩をすくめた。
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問題その二。度量衡の不統一。
この世界には統一された単位がなかった。距離は街によって違う歩幅で測り、重さは「大きな石一つ分」「小さな袋三つ分」。通貨は金貨・銀貨・銅貨があるが、地域によってレートが違う。
「報酬を契約書に明記しようにも、基準がない……」
「この街では銀貨が基本通貨よ。それで統一すればいいんじゃない?」
「この街ではそれでいいですが、依頼先が他の街だった場合は?」
「……面倒くさい男ね」
「面倒くさいのがコンプライアンスの仕事です」
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そして問題その三。これが一番深刻だった。
「権利」という言葉が、存在しない。
誠はマリーナの事務員に協力してもらい、この世界の語彙を一つずつ確認していた。
「『義務』に近い言葉はありますか」
「うーん……『務め』とか『課せられたこと』なら」
「では『権利』は」
「……『もらえるもの』? でも、それだと恩恵みたいな意味になっちゃうわ」
誠はペンを置いた。
権利がない。正確に言えば、「権利」という概念を表す語彙が存在しない。この世界の人々は、「自分が当然持っているもの」という発想を持っていない。与えられるか、奪われるか。その二択でしか物事を捉えていない。
「……権利という概念がないのに、契約書を作る」
これは、ただの翻訳作業ではなかった。概念そのものを、この世界に輸入しなければならない。
「マリーナさん」
「何?」
「この世界の人に、『あなたにはこれを要求する権利がある』と伝えるには、どう言えばいいと思いますか」
マリーナが顎に手を当てた。
「そうね……『あなたの取り分』、とか? 商人的に言えば」
「取り分……利益配分に近い発想ですね。なるほど」
「あとは『守られるべきもの』。騎士の言葉で言えば」
「守られるべきもの。それもいい」
誠はメモを取った。「権利」を直接翻訳するのではなく、この世界の人々が持っている概念——「取り分」「守られるべきもの」——から逆算して権利の概念を構築する。
思ったより面白い作業だ。制度を他国に導入するコンサルタントの仕事に似ている。
「でも、一番の問題は残ってるわよ」
「何ですか」
「読めない人、どうするの。識字率二割で契約書は成り立たないでしょう」
「…………」
それは、確かにそうだった。
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その日の夕方、エリーゼがマリーナのオフィスを訪ねてきた。
騎士のパトロールの帰りらしく、銀の鎧に夕陽が反射している。
「是永。ルカの件だが——」
「何かありましたか」
「明日の依頼は、別の冒険者を当てることになった。ルカの代わりがいないか、ギルド内で調整がついたらしい」
「……本当ですか」
「ああ。ギルド長は不機嫌だったが、治療師が『もう二日は安静にしろ』と強く言ったらしい。治療師には頭が上がらんようだ」
誠は深く息を吐いた。根本的な解決ではない。だが、時間ができた。
「それで、お前の契約書とやらは進んでいるのか」
「進んでますが、壁にぶつかってます」
誠は三つの問題を説明した。識字率、度量衡、そして「権利」の不在。
エリーゼは腕を組んで聞いていた。
「……難しいことを考えているな」
「難しいんです。実際」
「識字率が問題なんだろう。読めない人間が八割」
「はい」
「なら——」
エリーゼは、壁に貼られた冒険者ギルドの依頼書を指差した。マリーナが資料として持っていたもので、危険度に応じて色分けされている。赤が高難度、青が低難度。
「これ、読めなくても色でわかるだろう」
「……色分け」
「文字が読めなくても、絵ならわかる。剣の絵は戦闘依頼。薬草の絵は採取依頼。この世界の人間は、文字より絵に慣れている」
誠は、しばらくエリーゼを見つめた。
「……エリーゼさん」
「何だ」
「天才ですか?」
「は?」
「アイコン契約だ。文字の代わりに絵記号を使う。依頼内容は絵で表す。報酬は数字と硬貨の絵。危険度は色で段階表示。署名の代わりに拇印。これなら識字率に関係なく機能する」
誠はノートPCを開き、猛烈な勢いで図を描き始めた。
「しかも絵記号なら、度量衡の問題も緩和できる。『銀貨の絵×数字』で報酬を表せば、文字による誤解が減る。権利の概念も——」
誠は手を止めた。
「盾の絵だ」
「盾?」
「権利を『守られるべきもの』として表す。盾のアイコン。盾の横に書かれた項目は、あなたが守られるべきこと。つまり、あなたの権利。剣のアイコンは、あなたが果たすべきこと。つまり、義務」
「盾と剣で、権利と義務を」
「騎士にとっては、直感的でしょう?」
エリーゼが、ふっと笑った。珍しい表情だった。
「……悪くない。それなら、馬鹿な冒険者にもわかるだろう」
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その夜は、三人での作業になった。
誠がロジックを組み、マリーナが現実的な調整を加え、エリーゼが「現場ではこうだ」と修正する。
契約書のアイコン体系が、少しずつ形になっていった。
【依頼内容】剣=戦闘 薬草=採取 盾=護衛 巻物=調査
【報酬】銀貨の絵×数字(前払い/後払いを矢印で表示)
【危険度】赤=高 黄=中 青=低
【権利(盾)】報酬保証、危険度の事前説明、中途離脱権
【義務(剣)】依頼完遂、報告、仲間の安全配慮
【年齢制限】15歳未満は青(低危険度)のみ
【署名】拇印+ギルド印
「年齢制限、十五歳ですか」
マリーナが確認した。
「本来は十八歳にしたい。でも、この世界の現実を考えると——」
「十五でも、かなり厳しい基準よ。今は年齢制限なんて概念自体がないんだから」
「わかってます。だから段階的に。まずは十五歳未満は高危険度の依頼を受けられない、というラインから」
誠はルカの顔を思い浮かべた。十一歳。青ランクの依頼しか受けられなくなる。戦力としては大幅な制限だ。ギルド長は絶対に反発する。
「これ、冒険者ギルドに持ち込んだら揉めるわね」
「揉めるでしょうね」
「あのギルド長、まともに話が通じる相手じゃないわよ。前に契約の話を持ちかけた商人がいたけど、怒鳴りつけて追い返したって聞いたわ」
「……ですよね」
「どうするの?」
誠は少し考えた。
「正面から行っても燃やされるだけですね。直接ギルド長に提案するんじゃなく、冒険者側から声を上げてもらう形を——」
「甘いわね」
マリーナが遮った。
「冒険者は今の仕組みに慣れきってるのよ。不満はあっても、自分から変えようとはしない。だって変え方を知らないんだから」
「…………」
「ギルド長に話を通すなら、利害で攻めるしかない。あの男が恐れていることは一つ。冒険者が他の街のギルドに流出すること。この街のギルドが選ばれなくなることよ」
「競争原理、ですか」
「そう。『契約があるギルドの方が安全だ』と冒険者が思えば、契約なしのギルドは人が来なくなる。バルドはそれを恐れる」
誠は頷いた。マリーナの分析は的確だ。正論では動かない。利害で動かす。
「ただし——」
マリーナの目が鋭くなった。
「契約書を持ち込むなら、一発で通す覚悟でやりなさい。二度目のチャンスはないわよ。一度拒否されたら、冒険者たちも『やっぱり無理なんだ』と諦める。そうなったら終わり」
マリーナの声が、少しだけ低くなった。
「——これが失敗したら、私も終わるわ。冒険者ギルドに公然と楯突いた商人ギルドマスター。ルンゲの……あの貴族の傘下にいる連中が黙ってない」
「マリーナさん……」
「同情はいらないわ。自分で選んだことよ。ただ、中途半端にやるなら最初からやらないで。やるなら、通して」
「……わかりました」
誠は、完成しかけたアイコン契約書を見下ろした。
盾と剣。権利と義務。
この紙切れ一枚が、この世界の最初のルールになる。
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翌朝。冒険者ギルドの治療室。
誠が試作品を持ってルカのところに行ったのは、約束を果たすためだった。
「ルカさん。契約書、できました」
ルカは寝台の上で朝食の残りのパンを齧っていた。誠を見て、パンを咥えたまま言った。
「……もふはやいんだけど」
「すみません。でも、見てほしいんです。最初の読者になってください」
ルカはパンを飲み込み、渋々ながら羊皮紙を受け取った。
しばらく眺めていた。絵記号の並ぶ契約書を、指でなぞりながら。
「……これ、剣の絵が戦闘ってこと?」
「はい」
「で、盾が……守られるもの?」
「そうです。あなたの権利です」
「権利」
「あなたが当然受け取れるもの。報酬の保証、危険度の事前説明、途中で帰る権利」
「途中で帰っていいの?」
「はい。危険を感じたら逃げていい。それは権利です」
ルカが、目を丸くした。
「……そんなの、聞いたことない」
「今日からあるんです」
「でも、逃げたらギルドに怒られる」
「この契約書がある限り、怒る方が間違いです」
ルカが、もう一度契約書を見た。
指が、「年齢制限:15歳未満は青ランクのみ」の項目で止まった。
「……これ、私のこと?」
「はい。十五歳未満の冒険者は、低危険度の依頼しか受けられません」
「じゃあ私、もう前線に出なくていいの」
「この契約書が採用されれば、そうなります」
ルカの手が、わずかに震えた。
「……べ、別に。前線が嫌だったわけじゃないし。ただ——」
言葉が詰まった。
「ただ?」
「……こんなの、紙切れ一枚じゃん」
「紙切れ一枚ですよ」
「こんな紙切れで、何が変わるの」
誠は、ルカの目を見た。
「紙切れ一枚が、あなたを守る盾になる。僕は、そう信じてます」
ルカは何も言わなかった。しばらくして、小さな声が落ちた。
「……ほんとに? ほんとに、この紙が守ってくれるの?」
棘のない声だった。ツンデレでも、虚勢でもない。ただの、十一歳の子供の声。
「守ります」
「……前にもね、大丈夫って言った大人がいたの。でも、何もしてくれなかった」
「僕は、します。この紙がその証拠です」
ルカは契約書を握る手に、少しだけ力を込めた。信じたい。でもまだ、信じきれない。その間で揺れているのが、指の震えに出ていた。
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「——ところで一つ聞いていい、おっさん」
「はい」
「この『甲』と『乙』って何。読めないんだけど」
「あ——」
それは、誠の世界の言葉がそのまま残っていた部分だった。
「……甲は依頼者、乙は受注者です。日本語なので——」
「にほんご?」
「僕の世界の言葉です。すみません、翻訳し忘れてました」
「っていうか、この字きもい」
「きもい言うな。由緒正しい漢字です」
「かんじ? なにそれ」
マリーナの事務員に相談した結果、甲は「太陽」の記号、乙は「月」の記号に置き換えることになった。依頼者が太陽で、受注者が月。この世界の人にはしっくりくるらしい。
「……文化の違いって、こういうところに出ますね」
「おっさんの文字、ほんと変。ミミズみたい」
「日本語をミミズ呼ばわりしないでください」
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試作品は完成した。あとは、これを冒険者ギルドに持ち込むだけだ。
マリーナのオフィスに戻ると、マリーナとエリーゼが待っていた。
「見せて」
マリーナが契約書を受け取り、目を通す。エリーゼも横から覗き込む。
「……よくできてるわ。商人として言わせてもらえば、この項目設計は実務で回せる。これなら全員を同じ基準で回せる」
誠はその言葉に、かすかな引っかかりを覚えた。同じ基準。同じ型。全員を同じルールにはめる。それは——公平であると同時に、窮屈でもある。
だが今は、その引っかかりを押し込めた。まず作る。問題は後で考える。
「ただ——」
エリーゼが腕を組んだ。
「問題は、バルドだ」
「ええ。一発で通す必要がある。失敗すれば二度目はない」
三人の目が、互いに交わった。
「……明日、持ち込みましょう」
誠は契約書を丁寧に巻いた。
「一発勝負です」
マリーナが髪をかき上げた。
「バルドを動かす材料は、私が用意するわ。他の街のギルドとの比較データ。冒険者の流出率、依頼達成率、事故率。あの男が一番嫌がる数字よ」
「数字で攻めるんですか」
「金の話をすれば、あの男は絶対に聞く。聞かざるを得ないの。冒険者ギルドの収益が落ちてるのは事実だから」
エリーゼが剣の柄に手を置いた。
「万が一荒れた場合は、私が場を収める」
「荒れる前提なんですね」
「あのギルド長相手だ。荒れない方が珍しい」
誠は苦笑した。
戦闘力ゼロのコンプライアンス担当。交渉の武器は紙切れ一枚。
——でも、この紙切れには、盾と剣が描かれている。
明日。口約束の国で、最初の契約書が試される。
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