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第3話「ギルドマスターは帳簿を二冊持っている」

───


 マリーナに案内されたのは、冒険者ギルドから通りを三つ隔てた場所にある、石造りの二階建ての建物だった。


 正面に商人ギルドの紋章——天秤と麦穂の意匠が掲げられている。冒険者ギルドの荒々しさとは対照的に、こちらは整然としていた。磨かれた石の床、壁に並ぶ帳簿棚、カウンター越しに忙しく動き回る事務員たち。


「ここが商人ギルドよ。私の城」


 マリーナは自分のオフィスに誠を通した。


 二階の角部屋。窓から夕暮れの街並みが見渡せる。重厚な木の机の上には書類が几帳面に積まれ、壁一面の棚には帳簿が年代順に並んでいる。これだけでも、冒険者ギルドとの管理レベルの差が歴然としている。


「座って。お茶でも出すわ」


 マリーナが棚から茶器を取り出す間、誠は部屋を見回していた。


「……帳簿がきちんと管理されていますね」


「商売の基本よ。金の流れを把握できない商人は、商人じゃないわ」


 マリーナがカップを差し出しながら、向かいの椅子に座った。足を組み、誠を値踏みするように見つめる。


「さて。あなた、面白いことをしてたわね。奴隷市場で大声を出して、冒険者ギルドでギルド長に噛みついて」


「ご存じなんですか」


「商人ギルドのマスターよ? 街で起きたことは大抵、半日で耳に入るわ」


 マリーナはカップに口をつけた。


「で、こんぷら、だったかしら。もう少し詳しく聞かせてもらえる?」


「コンプライアンス。組織が守るべきルールを定め、それが正しく運用されているか監視し、違反があれば是正する。僕のいた世界では、あらゆる組織に必要とされている仕事です」


「あらゆる組織に」


「はい。企業、行政、非営利団体。ルールのない組織は、必ず腐敗します」


 マリーナの目が、わずかに鋭くなった。


「……腐敗、ね」


 何かに触れた気配があったが、マリーナはすぐに表情を戻した。


「なるほど。それで、あなたはこの世界に来て、最初にやったことが奴隷市場への殴り込みと、冒険者ギルドへの苦情申し立て」


「殴り込みというか、是正勧告です」


「結果は?」


「……奴隷市場は一日止めただけ。ギルド長には門前払いされました」


「予想通りね」


 マリーナは微笑んだ。嘲笑ではない。だが、甘さもない。


「あなたの言ってることは、たぶん正しいのよ。この世界にはルールがなさすぎる。冒険者は口約束で命をかけて、商人は帳簿を誤魔化して、貴族は好き放題。私だってそう思うことはある」


「なら——」


「でもね」


 マリーナはカップを置き、身を乗り出した。


「正しいだけじゃ、何も変わらないの。この世界じゃ特にね。あなた、昨日今日で何か変えた? 奴隷はまだ売られてる。ルカはまだギルドの駒。何一つ変わってない」


 反論できなかった。事実だ。


「理想論は結構。正義感も嫌いじゃないわ。で——」


 マリーナの目が、据わった。


「代案は?」


───


 代案。


 誠は、マリーナの問いを正面から受け止めた。


 正論だけでは動かない。力では勝てない。権威もない。金もない。この世界のことも何も知らない。


 だが——是永誠には一つだけ、武器がある。


「……契約書を、作りましょう」


「契約書?」


「はい。この世界には契約という概念がほとんどない。すべてが口約束と慣習で回っている。だから不正が起きても証拠がない。搾取されても反論できない。ルールを破っても記録が残らない」


 誠はノートPCを開いた。電源はまだ持つ。Wi-Fiはないが、ローカルに保存された資料がある。


「僕のいた世界では、あらゆる取引に契約書が存在します。売買、雇用、業務委託。双方の権利と義務を明文化し、署名することで法的な拘束力を持つ」


「……それは、あなたの世界の話でしょう」


「ええ。でも原理は同じです。口約束は『言った言わない』になる。文書にすれば、それが証拠になる。ギルドが冒険者を搾取しているなら、適正な契約書があれば冒険者側にも交渉の武器ができる」


 マリーナは黙って聞いていた。


「ルカのようなケースも同じです。業務内容、報酬、危険度の説明、年齢制限。契約書にこれらが明記されていれば、少なくとも『知らなかった』という言い逃れはできなくなる」


「…………」


「契約書は万能じゃありません。でも、最初の一歩にはなる。ルールを文字にすること。それが——」


「——面白いことを言うわね」


 マリーナが遮った。その表情は、もう値踏みの目ではなかった。


「やれるの? あなた、この世界の文字も読めないんでしょう」


「読めません」


「この世界の法律も知らないんでしょう」


「知りません」


「金もない、人脈もない、戦えない」


「はい」


「それで契約書を作る、と」


「はい」


 マリーナが、ふっと笑った。


「……いいわ。面白い」


 立ち上がり、壁の帳簿棚から分厚い冊子を数冊引き抜いた。机の上にどさりと置く。


「これがこの街の商取引の慣習をまとめた記録。こっちが冒険者ギルドとの取引履歴。それからこれが——」


 もう一冊、薄い冊子を置いた。


「この街の識字率の調査結果よ。三年前に私が独自に調べたもの」


「識字率を調査してたんですか」


「商売には情報が命だもの。読み書きできない相手に、どうやって契約を結ぶかは大問題でしょう?」


 誠は少し驚いていた。この人は、単に商売が上手いだけではない。仕組みの必要性を、肌で理解している。


「……マリーナさんは、最初からこういう仕組みが必要だと思っていたんですか」


 マリーナの目が、一瞬だけ暗くなった。


「必要だと思ったのは、商売の相手を何人も潰してからよ。情報がないまま取引して、騙されて、潰れていった商人を何人も見た。何人かは——私が潰した側だった」


 誠は黙った。


「綺麗な動機じゃないの。ルールがなかったから、私は勝てた。でも同時に、ルールがないせいで、この街の商売は信用を失っていってる。それじゃ長期的には誰も儲からない」


「……そうですか」


「がっかりした?」


「いいえ。むしろ信用できます。綺麗な理由だけで動く人より、痛みを知ってる人の方が、仕組みを壊さない」


 マリーナが、少し驚いた顔をした。


「ありがとうございます。これがあれば——」


「勘違いしないで」


 マリーナが人差し指を立てた。


「私はあなたに協力するんじゃない。ギブアンドテイクよ。あなたが契約書を作って、冒険者ギルドの取引を透明化してくれるなら、私にもメリットがある。冒険者ギルドとの取引で商人側が不当に損をしてるケースが山ほどあるの。それが可視化されるなら、素材くらい提供するわ」


「十分です。利害の一致は、協力関係の最も健全な形ですから」


「……変な言い方」


 マリーナが苦笑した。


───


 夜。マリーナのオフィスで、誠は資料を読み込んでいた。


 といっても、この世界の文字は読めない。マリーナが事務員を一人つけてくれて、読み上げてもらいながらノートPCにメモを取っていく。


 状況は想像以上に酷かった。


 冒険者ギルドの取引記録は存在しない。すべてが口頭。報酬の基準も曖昧で、同じ依頼でも冒険者によって報酬が倍以上違うケースがざらにある。つまり、ギルド長の裁量一つで冒険者の収入が決まる。


「これ、完全に裁量行政ですね……」


「あらりょう何?」


「すみません。つまり、ギルド長が好き勝手に報酬を決められる状態です」


 さらに問題だったのは、マリーナの帳簿だった。


 商人ギルドの帳簿は、冒険者ギルドとは比べものにならないほど精緻に管理されている。マリーナの商売人としての能力の表れだろう。だが——


「マリーナさん。この数字、合わないんですけど」


「……どの部分?」


「冒険者ギルドとの取引総額と、実際にギルドに支払った額の差。毎月、銀貨二百枚から三百枚くらい、行方不明の金がある」


 マリーナの表情が、一瞬だけ固まった。


「……気づいたのね。早いわ」


「これは何ですか」


 マリーナは窓の外に目を向けた。夜の街に、ぽつぽつと灯りが点いている。


「冒険者ギルドの"上納金"よ。帳簿に載らない金。ギルド長を通じて、ある貴族に流れてる」


「ある貴族」


「名前は——今は言えない。ただ、この街の商取引の裏には、必ずその人物の影がある。私がギルドマスターになれたのも、その人物との取引があったから」


 マリーナの声が、わずかに暗くなった。


「……あなたの契約書が広まれば、この金の流れも可視化される。それがメリットだと言ったでしょう? でも同時に——」


「同時に、その貴族を敵に回す」


「そう。わかった上で、やる?」


 誠は資料から顔を上げた。


「やります。不正な金の流れを放置する方が、長期的にはリスクが大きい」


「……あなた、怖いもの知らずなのか、本当にそう信じてるのか」


「信じてますよ。仕組みを整えれば、不正は減る。完全にはなくならなくても、少なくとも見える化はできる。見えないものは直せないんです」


 マリーナが、しばらく誠を見つめた。


 この男は、本気だ。打算でも虚勢でもない。本気で、仕組みの力を信じている。馬鹿なのか、純粋なのか——あるいは、この世界で初めて出会う種類の人間なのか。


「……わかったわ。素材は提供する。紙もインクも人手も。ただし——」


 マリーナは机の引き出しから、もう一冊の帳簿を取り出した。先ほどの帳簿より薄い。だが、こちらの方が明らかに使い込まれている。


「これは?」


「私の本当の帳簿。表の帳簿と、裏の帳簿。商人ギルドのマスターが帳簿を二冊持ってるなんて、笑えるでしょう」


「……笑えないです」


「ええ、笑えないわね」


 マリーナは帳簿を誠の前に置いた。


「あなたの契約書がうまくいったら、この二冊をいずれ一冊にまとめたい。それが、私の本当の目的。帳簿を二冊持たなきゃいけない世界を、変えたいの」


 誠は、その帳簿を手に取った。裏帳簿の存在はコンプライアンスの観点からは完全にアウトだ。だが——この人は、それが間違っていることを知っている。知った上で、そうせざるを得なかった。


「マリーナさん」


「何?」


「この帳簿、預からせてもらっていいですか。分析すれば、契約書を設計する上での基礎データになる」


「……好きにしなさい。あんたに預けた方が、金庫に入れとくより安全な気がするわ」


「それは光栄ですが、僕にセキュリティ機能はありませんよ」


「そういうところが安全なのよ。悪用する発想自体が、あんたにはないでしょ」


 図星だったので、誠は黙った。


───


 深夜。


 マリーナのオフィスの一角を借りて、誠は作業を続けていた。ノートPCのバッテリー残量が心もとないが、今は充電方法を考えている場合ではない。


 帳簿のデータを整理しながら、契約書の設計を始める。まず必要なのは——


「テンプレートだ」


 この世界に合った契約書の雛形。最低限必要な項目を洗い出す。


 一、依頼内容の明記。

 二、報酬額と支払い条件。

 三、危険度の段階表示。

 四、責任の所在。

 五、紛争時の解決手段。


 そして——


 六、年齢制限。


 項目を並べていくうちに、ある種の高揚感があった。ルールを設計する快感。これがあれば、あのギルド長も、奴隷商も——縛れる。


 誠は、自分の思考に一瞬ぎくりとした。


「……縛る、か」


 ルールは守るためのものだ。縛るためじゃない。だが今、一瞬だけ——「相手を支配する道具」としてルールを見ていなかったか。


 頭を振った。気をつけろ。ルールを作る側が、ルールに酔ったら終わりだ。


 ルカの顔が浮かんだ。


「……必ず、入れる」


 誠はキーボードを叩いた。この世界の文字は書けない。だがロジックは組める。構造は設計できる。翻訳は、明日マリーナに手伝ってもらえばいい。


 カタカタとキーボードの音だけが響くオフィスに、足音が近づいた。


「まだ起きてたの」


 マリーナが、カップを二つ持って戻ってきた。温かい茶の香りがする。


「ありがとうございます。すみません、こんな夜中まで場所を——」


「いいわよ。私もまだ仕事があるし」


 マリーナは自分の机に戻り、帳簿を開いた。ペンを走らせながら、ちらりと誠の方を見る。


「ねえ。一つ聞いていい?」


「はい」


「あなた、元の世界に帰りたいとは思わないの?」


 誠の手が止まった。


「……正直に言えば、帰りたいですよ。上司に報告書を出さなきゃいけないし、来月の監査スケジュールも——」


「仕事のことしか出てこないのね」


「……あ」


「家族は? 恋人は?」


「家族は地方にいます。恋人は——いません。いたことも、ここ五年くらいないですね」


「五年」


「コンプライアンスの仕事が忙しくて」


 マリーナが、呆れたような、感心したような顔をした。


「あなた、本当にこんぷらのことしか考えてないのね」


「よく言われます」


「……まあ、そういう人だから信用できるのかもしれないけど」


 マリーナは小さく笑って、帳簿に目を戻した。


 しばらくして、ぽつりと言った。


「一つだけ、覚えておいて」


「何ですか」


「契約はね、人を守る道具にもなるけど——縛る鎖にもなるの。使い方を間違えたら、奴隷の首輪と変わらない」


 誠の手が、一瞬止まった。


「……肝に銘じます」


「本当に覚えてなさいよ。商人はそうやって何百年も人を縛ってきたんだから」


 二人の間を、静かな夜が流れていった。


───


 翌朝。


 誠は冒険者ギルドに向かった。ルカの様子を見るためだ。


 治療室のドアを開けると、ルカは寝台の上に座って、包帯を器用に巻き直していた。昨日よりも顔色はいい。だが、誠を見た瞬間、また棘が立った。


「あ、おっさん。まだいたの」


「おはようございます。具合はどうですか」


「別に。ポーション飲めば明日には動けるし」


「明日の依頼のことなら、今ギルド長に——」


「いい。余計なことしないで」


 ルカの声が、少し強くなった。


「あんたが何か言ったせいで、ギルド長が機嫌悪くなってるんでしょ。私が余計怒られるの。わかる?」


 誠は口をつぐんだ。


 正論を振りかざした結果、当事者が余計に苦しむ。これはコンプライアンスの現場でも、よくあることだった。通報者が報復を受ける。改革を訴えた者が孤立する。正しいことをしたはずなのに、状況が悪化する。


「……すみません。配慮が足りませんでした」


「は? 謝るの?」


「僕の行動であなたの立場が悪くなったなら、それは僕の責任です。ルカさんを守るつもりが、逆に追い詰めてしまった」


 ルカが、少し面食らった顔をした。大人に謝られることに、慣れていないらしい。


「……べ、別に。怒ってるわけじゃないし。ただ、余計なことはしないでって言ってるだけ」


「わかりました。ただ、一つだけ約束させてください」


「何」


「明日の依頼で危険を感じたら、逃げてください。命より大事な依頼はない」


「……おっさんに言われなくても、死ぬ気はないよ」


「よかった」


 誠は微笑んだ。ルカはぷいと顔を背けたが、耳がわずかに赤い。


「……あんた、さ」


「はい」


「昨日言ってた、こんぷら。あれ、何なの。本当に」


「長くなりますよ」


「暇だし。寝てるしかないんだから」


 誠は丸椅子に座り直した。


「コンプライアンスっていうのは——簡単に言えば、『ルールを作って、ルールを守る仕組みを作ること』です」


「ルール?」


「たとえば、依頼の報酬は最低いくら以上とか。危険な依頼には十五歳以上しか参加できないとか。依頼の内容と実際が違った場合はギルドが補償するとか」


「……そんなのあるの? あんたの世界」


「あります。完璧じゃないですけどね。ルールがあっても破る人はいる。でも、ルールがなければ破ったことすら問えない」


 ルカが膝を抱えた。


「ルールがあれば、私みたいな子は戦わなくてよかった?」


「そのためのルールを、今作ってます」


「……ふうん」


 ルカは毛布を引き寄せた。


「できたら、見せて。私、字読めるから」


「約束します」


───


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