第39話「最初の試練」
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就任から二週間が経った。
法務局——王宮の東棟、二階。元は使われていなかった会議室を改装した。机が八つ。書類棚が十二。窓から朝の光が入る。
マリーナが——書類を仕分けていた。エリーゼが——監査用の台帳を整えていた。新しく雇った書記官が三人。法務官が四人。まだ定員には届いていない。でも、回り始めていた。
「是永」
マリーナが、振り向いた。
「内部通報窓口に、最初の通報が来たわ」
「来ましたか」
「ええ。——封を切る前に、あなたに伝えるべきだと思って」
「規定では、僕は最初に見ない。独立審査委員会が先に見る。——僕がこの場で封を切るのは、規定違反です」
「わかってる。だから、私は封を切らずにここに持ってきた。——ただ、伝えておく必要があると思った」
「何をですか」
「通報の宛名に、書いてある被通報者の名前を、看守が読み上げてしまった。——私の名前」
誠は——ペンを置いた。
封筒を見た。机の上に置かれた、白い封筒。
——中を見たい。
ほんの一瞬、本気でそう思った。封を切って、内容を確認して、深刻なものでなければ握りつぶしてしまう。それで終わる。誰にも知られない。マリーナは守られる。
その「一瞬」が——怖かった。
誠は、封筒から目を逸らした。両手を、机の下に下ろした。物理的に、手が届かない場所に。
「マリーナさんを通報した、ということですか」
「そういうこと」
沈黙。
「……どんな内容かは」
「知らない。封は切ってない。——でも、想像はつく」
「想像」
「ギルドマスターになる前——一商人として、自分の商会を回していた頃の話よ。——ルンゲ系列の商会との取引。あの頃の私は、グレーゾーンの仕事をしていた。完全に黒ではないけど、白でもなかった。——市場の透明化を始める前の、私自身の話」
誠は——黙った。
マリーナが——少し、笑った。乾いた笑いだった。
「あなたが私を雇った時、私は言うべきだったかもしれない。『私には過去がある』と。——でも、言わなかった。市場の透明化に貢献できれば、過去は消えると思っていた」
「マリーナさん——」
「言い訳するつもりはない。——通報があった以上、規定通りに処理して。私は調査を受けるわ」
「…………」
「是永。——あなたの規定を、あなた自身が守れるかどうかの試験よ。これは」
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独立審査委員会の三人が招集された。
委員長はメルツ伯。委員の二人は、法務局とは独立した文官と、外部の書記専門家。誠が選んだ人選ではない。王が選んだ。——それも、設計の一部だった。
会議室。
メルツ伯が——封を切った。
通報書を読み上げた。
「『被通報者:マリーナ・コルヴィン。法務局法務官。通報内容:被通報者は商人ギルドマスター就任以前、自身の商会経営において、ヴァルツ商会(ルンゲ伯爵系列)より三度にわたり「相談料」名目の金銭を受領していた。総額、銀貨百二十枚。当時の商人ギルドの倫理規定では、競合商会との取引相談料は事前申告が必要だが、申告記録は存在しない。証拠:ヴァルツ商会の旧帳簿写し(通報者保管)。通報者:匿名』」
沈黙。
メルツ伯が——誠を見た。
「是永法務顧問。——規定により、本件の調査期間中、あなたは関与できません。退室してください」
「はい」
誠は——立ち上がった。
「ただし——一つだけ、申し上げます」
「何ですか」
「マリーナ・コルヴィンは、この法務局で最も重要な人材の一人です。——だから、調査は厳格に、そして公正にお願いします。情けは要りません。——僕の友人だからといって甘くするな、ということです」
「……了解しました」
誠は——退室した。
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廊下。
窓の外を見た。
就任式の日と、同じ窓だった。同じ街並み。同じ人々。——でも、自分の中の何かが、違っていた。
あの日、誠は誓った。「自分を信じない。仕組みを信じる」と。——今、自分が雇った人間が、仕組みによって調査されている。誠の信念がそのまま機能しているはずだった。
でも——胸が、苦しかった。
「……きついな」
独り言。
マリーナを信じたかった。「この人は無実だ」と言いたかった。「証拠の方が間違っている」と言いたかった。——でも、それを言ってしまえば、ルンゲと同じになる。「自分が信じる人間は無条件で守る」——それが、三十年前のルンゲの始まりだった。
誠は——壁にもたれた。
仕組みを作るのは、難しくなかった。仕組みを守るのは——こんなに、難しかった。
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その夜。
宿。
ルカが、誠の部屋に来た。
「おっさん」
「ルカ」
「マリーナさん、元気なかった」
「会ったのか」
「うん。——廊下で。『元気ないけど、大丈夫よ』って」
「…………」
「マリーナさん、どうしたの?」
誠は——少し、迷った。十一歳の子供に、どこまで話すべきか。
でも、ルカは——もう「契約書を読めない子供」ではなかった。
「マリーナさんが、調査を受けている」
「調査?」
「内部通報があった。——マリーナさんの過去について」
「過去……何かしたの?」
「わからない。今、調べている。——僕は調べる側じゃない。僕が雇った人だから、調べることはできない」
「じゃあ、誰が調べるの?」
「審査委員会。——僕とは別の人たち」
「ふーん。……それって、おっさんが作った仕組みでしょ」
「そう」
「自分が作った仕組みで、自分が好きな人が調べられてるんだ」
「……そうだ」
ルカが——少し、考えた。
「おっさん、つらい?」
「つらい」
「やめたい?」
「……いや」
「やめないの?」
「やめない。——やめたら、ルンゲと同じになる」
ルカが——うなずいた。
「私もそう思う」
「お前が?」
「うん。——だってさ、おっさんが『マリーナさんは無実だから調査やめろ』って言ったら、私、おっさんのこと信じられなくなるよ」
誠は——驚いた。
「……ルカ」
「だって、おっさんは『自分を信じない、仕組みを信じる』って言った人でしょ。それなのに、自分の好きな人だけ仕組みから外したら——嘘になるじゃん」
「…………」
「だから、つらくても、続けて。——私、見てるから」
誠は——深く、息を吐いた。
就任式の日、ルカが言った言葉を思い出した。「おかしくなったら、私が止める」。——今、ルカは止めていない。むしろ、「続けろ」と言っている。
止める時と続けさせる時を、ルカは——わかっていた。
「ありがとう、ルカ」
「うん」
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三日後。
審査委員会の結論が出た。
メルツ伯が、誠を呼んだ。
「結論を伝えます」
「はい」
「マリーナ・コルヴィンは——当時の商人ギルドの倫理規定では、申告義務違反があったと認定します」
「…………」
「ただし。——当時の申告制度は形骸化しており、ヴァルツ商会以外にも同種の『相談料』は広く存在していました。当時、ルンゲ系列との取引で申告を行っていた商人は、調べた限り、一人もいません」
「全員が、違反していた」
「その通り。——マリーナだけを罰することは、公正ではない。委員会の結論は——『規定違反は認定するが、処罰は科さない。本人に対しては、書面による警告のみとする』」
「警告」
「はい。——ただし、もう一つ条件があります」
「何でしょう」
「マリーナは、当時の『相談料』の総額を、自主的に国庫へ返納すること。返納額は本人の申し出による。——これは、委員会が命じるのではなく、本人の意思に委ねます」
誠は——少し、考えた。
「……命じない、ということですか」
「はい。命じれば、公正性に疑問が残る。——本人が、自分の意思で返納するかどうか。そこに、彼女の人間性が現れます」
「…………」
「是永法務顧問。——この結論に、異論はありますか」
「ありません。——むしろ、僕が出すよりも、ずっと深い結論です」
「ありがとうございます」
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マリーナが、誠の部屋に来た。
書面を持っていた。
「結論、聞いた」
「はい」
「警告のみ。処罰なし。——あなたが圧力をかけたんじゃないわよね」
「圧力はかけていません。——むしろ、『情けは要らない』と委員会に言いました」
「……知ってる。メルツ伯から聞いた」
マリーナの目の下に、薄い隈があった。三日間で、頬が少し痩せたように見えた。
「三日間——眠れなかった」
「マリーナさん」
「食事も、ほとんど入らなかった。エリーゼが心配して、スープを運んでくれた。半分しか飲めなかった。——情けない話よね、ギルドマスターやってる人間が」
「…………」
「でも、これでよかった。——眠れない三日間を経験したから、わかったことがある。私は、こういう三日間を、これまで誰かに与えてきたかもしれない。商会主の決裁一つで。——その重さを、初めて自分の側で感じた」
「マリーナさん——」
「言わせて」
マリーナが、書面を机に置いた。
「銀貨百二十枚、全額返納するわ。——委員会は『本人の意思』と言った。私の意思は、これよ」
「…………」
「私が一商人として商会を回していた頃、私は『これくらいいいだろう』と思っていた。——みんなやっている、と。グレーゾーン、と。——でも、そう言い続けた人間が、ルンゲになった。三十年かけて」
「マリーナさん」
「私も、ルンゲになる可能性があった。——あなたが作った仕組みが、私を止めた。今のうちに止めてくれた」
「…………」
「ありがとう、是永。——私を雇ってくれたこと。私を調査してくれたこと。両方、ありがとう」
誠は——黙った。
マリーナが、立ち上がった。
「あ、それから」
「はい」
「今後、私は法務局の業務を続ける。——警告を受けた身で。それでいいかしら」
「いいですか、じゃないです。——続けてください。あなたがいないと、法務局は回りません」
「ふふ。——わかった」
マリーナが、扉を開けた。振り返った。
「是永。——あなたの仕組みは、機能した。私が証人よ」
扉が、閉まった。
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その夜。
誠は——机の前で、報告書を書いていた。
「年次公開報告書・第一号草稿」と書かれた紙。
就任の誓いの三つ目。「失敗を、隠さない」。——年に一度、全ての活動を公開報告する義務。
誠は——書いた。
『就任から二週間以内に、内部通報窓口へ最初の通報があった。被通報者は、法務局法務官マリーナ・コルヴィン。本人と私の関係は、業務上の同僚であり、信頼関係にある。——通報内容と調査結果は、別紙参照』
筆を止めた。
考えた。
次の一行を、書いた。
『私は、調査期間中、本件への関与を避けた。だが、感情的には、彼女の無実を願っていた。——この感情は、報告すべき事実である。私は完全に中立ではなかった。仕組みが、私の感情を補正した』
書きながら、誠は——少し、笑った。
前の世界で、誰がこんな報告書を書いただろうか。「私は感情的には部下の無実を願っていた」と。——書く人間は、いなかった。「中立であった」と書くのが普通だった。
でも、それは嘘だった。誰も完全に中立ではない。——中立を装うことの方が、危険だった。
誠は——書き続けた。
『仕組みは機能した。だが、仕組みは「痛みなく」は機能しなかった。マリーナは三日間、不安の中で過ごした。私も、苦しかった。——仕組みには、コストがある。そのコストを引き受ける覚悟がない者は、仕組みを作ってはならない』
最後に、署名した。
「法務顧問・是永誠」
日付を書いた。
報告書を、机の引き出しにしまった。来年、公開する時まで、寝かせる。
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窓の外。
星が出ていた。
誠は——窓を開けた。冷たい風が入ってきた。
就任式から二週間。最初の通報。最初の試練。——マリーナを失わずに済んだ。仕組みも壊れずに済んだ。
でも——わかっていた。これは、最初の試練に過ぎない。次は、もっと厳しいものが来る。仕組みを壊したい人間は、必ずいる。——ルンゲと同じ目をした人間が、この国にはまだ、たくさんいる。
「……まだ、終わってない」
独り言。
誠は——窓を閉めた。
机の上には、千件の書類のうち、まだ九百八十二件が残っていた。
明日も、書類の山だった。
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