第38話「就任の日」
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就任式の朝。
誠は——王宮の控室にいた。借り物の正装。襟が硬い。前の世界のスーツより、よほど窮屈だった。
「……似合わないな」
鏡の前で——独り言。
扉が開いた。クラウスが入ってきた。同じく正装。騎士団長の礼服。胸の徽章が、朝の光を反射していた。
「是永。——時間だ」
「はい」
「緊張しているのか」
「……していないと言ったら、嘘になります」
「正直でいい。——緊張しないやつほど、現場で潰れる」
「クラウスさんも、緊張したことがあるんですか」
「初めて部下を持った日。——三十人の命を預かった日だ。今でも覚えている」
誠は——少し、笑った。
クラウスが——胸ポケットから、小さな紙片を取り出した。折り畳まれていた。
「これを」
「何ですか」
「お前が初めて私に出した『契約書草案』だ。——騎士団の俸給支払いについて。覚えているか」
「……覚えています」
誠は——その紙を開いた。皺だらけの、小さな紙。あの日、最初に書いた草案。文字は震えていた。条文の番号もバラバラだった。素人の作った、稚拙な文書。
「なんで、これを」
「保管していた。——お前が腐りそうになった時に、見せるためだ」
「…………」
「初心を思い出すための紙だ。——肌身離さず持っていろ」
誠は——その紙を、内ポケットに入れた。
「ありがとうございます」
「礼はいい。——行くぞ」
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謁見の間。
前回より、人が多かった。貴族たち。文官たち。騎士団の代表。——そして、傍聴席に。
ルカがいた。エリーゼがいた。マリーナがいた。フリッツがいた。メルダがいた。エーベルバッハの代表団が、十人ほど。
誠は——一瞬、足を止めた。
ルカが、手を振った。小さな手を、ぎこちなく。
誠は——少しだけ、頷いた。
「是永誠」
メルツ伯の声が——響いた。儀礼官として、就任式を進行している。
「はい」
「前へ」
誠は——歩いた。赤い絨毯の上を。靴の音が、石の床に響く。あの日と同じ床。あの日と違う歩み。
王座の前で——膝をついた。
「陛下。——是永誠、参上いたしました」
王が——立っていた。前回より、少しだけ表情が柔らかかった。少しだけ。それでも、王は王だった。
「是永誠。——汝を、エーゼンライヒ王国法務顧問に任ずる」
「謹んで、お受けいたします」
「立て」
誠は——立った。
「就任にあたり、汝の誓いを聞こう」
誠は——息を吸った。
前の世界で何度も読んだ就任宣誓文ではない。この世界の、この場のための、自分の言葉。
「私、是永誠は——三つのことを誓います」
「言え」
「一つ。——法を、自分のために使いません。法は、最も弱い者のためにあります。私が法を学ぶのは、強い者を守るためではなく、弱い者の声を制度に変えるためです」
「…………」
「二つ。——自分を信じません。仕組みを信じます。私が腐った時に止められる仕組みを、まず最初に作ります。私自身が、最初の監視対象になります」
貴族席が——少しざわめいた。「自分を最初に監視対象にする顧問」など、聞いたことがなかった。
「三つ。——失敗を、隠しません。私が間違えた時、私が誤った判断をした時、私はそれを公開します。失敗は罪ではありません。隠すことが罪です。——私は、失敗から逃げません」
誠が——顔を上げた。
「以上、三つの誓いを、ここにいる全ての方々の前で、申し上げます」
沈黙。
長い、沈黙。
王が——ゆっくりと、頷いた。
「汝の誓いを、余は聞いた。——この国も、聞いた」
メルツ伯が、誓約書を差し出した。誠は——名前を書いた。震えない手で。
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就任式の後。
控室に戻ると——書類の山が、机に積まれていた。
「……何ですか、これ」
文官の一人が、頭を下げた。
「就任初日の業務、でございます」
「初日の」
「はい。——王国全土から集まった陳情書、訴訟記録、契約紛争の案件。——全て、法務顧問の決裁待ちでございます」
誠は——書類の山を見た。
千件はあった。
軽く、千件。
一番上の一通を、何気なく手に取った。
『北部・ハーゼル村より。三年前、領主代官に押収された農具の返還を求める申立。家族六人、現在も農具を借りて耕作、年に銀貨四枚の借料を払い続けている。代官は退任済み。申立人:イルマ・ローエ、五十一歳、未亡人』
次の一通。
『東部・ヴェスタ町より。商会の倒産にともなう未払賃金の救済を求める。十二名分。一名は十四歳の見習い。商会主は行方不明』
誠は——その二通を、机の端に並べた。
千件の中の、二通。それぞれの紙の向こうに、顔があった。イルマ・ローエ、五十一歳。十四歳の見習い。——名前と年齢が、ある。
「…………これを、僕一人で?」
「先代の法務官は、おりませんでした。——三十年間、この職位は空席でございました」
「三十年」
「はい。——ルンゲ伯の管轄下では、法務は王宮の役職ではなく、各領主の裁量とされておりました」
誠は——椅子に座った。深呼吸をした。
千件の陳情。三十年分の空白。一人の人間が決裁する。——前の世界なら、即座に部署を立ち上げる規模だった。
「……一人では、無理です」
「はい?」
「一人で千件を裁くのは、無理です。——というより、一人で裁くべきではない」
文官が——困惑した顔をした。
「では、どうなさいますか」
「組織を作ります」
「組織」
「法務局を。——僕の下に。複数人の法務官を雇い、案件を分担します。決裁の基準を明文化します。——一人で全て決める仕組みは、また腐ります」
「ですが——人を雇う権限は」
「陛下に申請します。今すぐに」
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その日のうちに、誠は王に三つの提案書を提出した。
一つ目。法務局の設立。職員定数三十名。法務官十五名、書記十名、内部監査五名。
二つ目。内部監査制度。法務局の活動を、法務局自身ではない第三者が監査する。監査結果は公開する。
三つ目。法務顧問への内部通報窓口。誰でも通報でき、通報者は匿名性が保護される。通報内容は——法務顧問本人ではなく、独立した審査委員会が判断する。
王は——三つとも、即決で承認した。
「お前が一人で抱え込むと言えば、止めるつもりだった。——だが、最初に組織を作ると言った。——お前は、わかっている」
「はい」
王が——一瞬、視線を落とした。
「……正直に言えば、余は不安だ」
「陛下」
「お前を任命したのは余だ。お前が失敗すれば、余の責任になる。——それは構わん。だが、お前が成功しなければ、この国は変われない。——余が変えられなかったものを、お前に背負わせている」
王の指が、机の上でわずかに動いた。
「うまくやれ。——余はそれしか言えん」
「……はい」
「ただし——一つ条件がある」
「何でしょう」
「法務局の最初の人事は、お前が選べ。——お前が信じる人間を、お前が選んで雇え」
「…………」
「誰でも構わん。——身分も、出自も、問わん。お前が『この人間なら任せられる』と思う者を選べ」
「ありがとうございます」
───
控室に戻った。
誠は——紙を取り出した。最初の人事リスト。
書き始めた。
一人目。マリーナ・コルヴィン。商人ギルド・ギルドマスター。市場の透明化を一緒に進めた、計算と監査の専門家。
二人目。エリーゼ・フォルクハルト。元騎士団員。現場主義で、人を見る目がある。法務官ではなく、内部監査官として。
三人目。フリッツ。エーベルバッハの自治代表。——書こうとして、ペンが止まった。
フリッツは、姉を失った男だった。三百人の村を立て直した男だった。——でも、彼には村がある。村を離れさせるわけにはいかない。
誠は——フリッツの名前を書きかけて、消した。代わりに、こう書いた。
「フリッツ・ベッカー:エーベルバッハ自治代表。法務局の地方協力者として、現地から助言・連携を行う」
現場を、現場に残す。——これも、仕組みだった。
四人目。クラウス・フォン・エーベルバッハ。——いや、彼は騎士団長だ。法務局には入れられない。だが、法務局と騎士団の連携窓口として、定期協議を行う相手として、リストの最後に書いた。
最後に——誠は、ペンを止めた。
もう一人、書こうとしていた名前があった。
ルカ。
書けない名前だった。——ルカはまだ、十一歳だ。法務局の職員にはできない。けれど、ルカがいなければ、誠はここまで来られなかった。ルカがいなければ、自治の意味も、選択肢の意味も、誠は本当には理解できなかった。
誠は——リストの末尾に、こう書き足した。
「ルカ:法務顧問の良心の番人。役職外。報酬は、おっさんの背中を蹴ること」
書いてから、少し笑った。
「……これは、正式な人事リストには載せられないな」
でも、自分だけが見るリストなら——載せていい。
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夕方。
宿に戻った。一日が、長かった。
ルカが、扉の前で待っていた。
「おっさん」
「ルカ」
「就任式、見たよ」
「うん」
「カッコよかった」
「……そうか」
「でも、ちょっと言いたいことがある」
「何?」
「『自分を最初の監視対象にします』って言った時——周りの貴族のおじさんたちが、変な顔してた」
「うん、見た」
「あれ、絶対にやらせないって顔だった。——気をつけて」
誠は——驚いた。十一歳の子供が、貴族たちの表情を読んでいた。
「……ルカ、いつの間にそんなことが」
「マリーナさんに教わった。『相手の顔を見ろ』って。『言葉より顔の方が嘘をつかない』って」
「マリーナさんらしいな」
「うん」
ルカが——少し、誠の方を見上げた。
「おっさん」
「うん」
「私、もう十一歳だよ」
「知ってる」
「あと七年で、十八歳になる。——その時、私もおっさんの仕事を手伝えるかな」
「……ルカが手伝いたいなら」
「うん。手伝いたい」
「何の仕事を」
「分かんない。でも——おっさんがやってる仕事って、契約書を読めない子供のための仕事でしょ。私は、契約書を読めない子供だった。——だから、私みたいな子のために、何かしたい」
誠は——少し、黙った。
あの日、契約書も読めなかった子供が——七年後、自分の隣で働く未来を、口にしている。
「ルカ。——七年後、お前が十八歳になった日に、もう一回その話をしよう」
「忘れないで」
「忘れない。——というか、忘れないように、書いておく」
「書く?」
「うん。——コンプライアンス担当は、約束を文書にする職業だから」
誠は——内ポケットから、小さな手帳を取り出した。
書いた。
「2033年(七年後):ルカが十八歳になった日に、法務局での就労について再協議する。約束した。誠」
ルカが、覗き込んだ。
「……日付がある」
「うん」
「日付があると、約束って強くなるの?」
「強くなる。——日付のない約束は、いつでも『言ってない』にできる。日付があると、できない」
「そっか」
「これも、仕組みの一つだ」
「……仕組み、好きだね、おっさん」
「好きだ」
誠は——手帳を閉じた。
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夜。
宿の屋根の上。
誠は——一人で星を見ていた。
就任初日。書類の山。組織の設計。最初の人事。ルカとの約束。——すべて、現実になった。前の世界では「制度設計」と呼ばれていた退屈な仕事が、この世界では一つ一つ、人の顔と結びついていた。
マリーナの計算。エリーゼの監査。フリッツの現場。クラウスの背中。ルカの良心。——一人ひとりの顔があった。一人ひとりの過去があった。
前の世界では、見えなかったものだった。
「……コンプライアンスって、こういう仕事だったのか」
独り言。
星空の下で、誠は——ようやく、わかった気がした。
コンプライアンスは、ルールを守らせる仕事ではない。——人を、信じすぎないための仕組みを作る仕事だった。人を信じない、ではなく、信じすぎない。信じすぎて、裏切られた時にも、誰かが守られるように。
ルンゲは——人を信じすぎた。自分を信じすぎた。だから、戻れなくなった。
誠は——自分を信じない。だから、仕組みを作る。仕組みが自分を止めてくれる日のために。
「……明日も、書類の山だな」
誠は、立ち上がった。
屋根を降りた。
明日の準備があった。
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