表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
38/40

第38話「就任の日」

───


 就任式の朝。


 誠は——王宮の控室にいた。借り物の正装。襟が硬い。前の世界のスーツより、よほど窮屈だった。


「……似合わないな」


 鏡の前で——独り言。


 扉が開いた。クラウスが入ってきた。同じく正装。騎士団長の礼服。胸の徽章が、朝の光を反射していた。


「是永。——時間だ」


「はい」


「緊張しているのか」


「……していないと言ったら、嘘になります」


「正直でいい。——緊張しないやつほど、現場で潰れる」


「クラウスさんも、緊張したことがあるんですか」


「初めて部下を持った日。——三十人の命を預かった日だ。今でも覚えている」


 誠は——少し、笑った。


 クラウスが——胸ポケットから、小さな紙片を取り出した。折り畳まれていた。


「これを」


「何ですか」


「お前が初めて私に出した『契約書草案』だ。——騎士団の俸給支払いについて。覚えているか」


「……覚えています」


 誠は——その紙を開いた。皺だらけの、小さな紙。あの日、最初に書いた草案。文字は震えていた。条文の番号もバラバラだった。素人の作った、稚拙な文書。


「なんで、これを」


「保管していた。——お前が腐りそうになった時に、見せるためだ」


「…………」


「初心を思い出すための紙だ。——肌身離さず持っていろ」


 誠は——その紙を、内ポケットに入れた。


「ありがとうございます」


「礼はいい。——行くぞ」


───


 謁見の間。


 前回より、人が多かった。貴族たち。文官たち。騎士団の代表。——そして、傍聴席に。


 ルカがいた。エリーゼがいた。マリーナがいた。フリッツがいた。メルダがいた。エーベルバッハの代表団が、十人ほど。


 誠は——一瞬、足を止めた。


 ルカが、手を振った。小さな手を、ぎこちなく。


 誠は——少しだけ、頷いた。


「是永誠」


 メルツ伯の声が——響いた。儀礼官として、就任式を進行している。


「はい」


「前へ」


 誠は——歩いた。赤い絨毯の上を。靴の音が、石の床に響く。あの日と同じ床。あの日と違う歩み。


 王座の前で——膝をついた。


「陛下。——是永誠、参上いたしました」


 王が——立っていた。前回より、少しだけ表情が柔らかかった。少しだけ。それでも、王は王だった。


「是永誠。——汝を、エーゼンライヒ王国法務顧問に任ずる」


「謹んで、お受けいたします」


「立て」


 誠は——立った。


「就任にあたり、汝の誓いを聞こう」


 誠は——息を吸った。


 前の世界で何度も読んだ就任宣誓文ではない。この世界の、この場のための、自分の言葉。


「私、是永誠は——三つのことを誓います」


「言え」


「一つ。——法を、自分のために使いません。法は、最も弱い者のためにあります。私が法を学ぶのは、強い者を守るためではなく、弱い者の声を制度に変えるためです」


「…………」


「二つ。——自分を信じません。仕組みを信じます。私が腐った時に止められる仕組みを、まず最初に作ります。私自身が、最初の監視対象になります」


 貴族席が——少しざわめいた。「自分を最初に監視対象にする顧問」など、聞いたことがなかった。


「三つ。——失敗を、隠しません。私が間違えた時、私が誤った判断をした時、私はそれを公開します。失敗は罪ではありません。隠すことが罪です。——私は、失敗から逃げません」


 誠が——顔を上げた。


「以上、三つの誓いを、ここにいる全ての方々の前で、申し上げます」


 沈黙。


 長い、沈黙。


 王が——ゆっくりと、頷いた。


「汝の誓いを、余は聞いた。——この国も、聞いた」


 メルツ伯が、誓約書を差し出した。誠は——名前を書いた。震えない手で。


───


 就任式の後。


 控室に戻ると——書類の山が、机に積まれていた。


「……何ですか、これ」


 文官の一人が、頭を下げた。


「就任初日の業務、でございます」


「初日の」


「はい。——王国全土から集まった陳情書、訴訟記録、契約紛争の案件。——全て、法務顧問の決裁待ちでございます」


 誠は——書類の山を見た。


 千件はあった。


 軽く、千件。


 一番上の一通を、何気なく手に取った。


 『北部・ハーゼル村より。三年前、領主代官に押収された農具の返還を求める申立。家族六人、現在も農具を借りて耕作、年に銀貨四枚の借料を払い続けている。代官は退任済み。申立人:イルマ・ローエ、五十一歳、未亡人』


 次の一通。


 『東部・ヴェスタ町より。商会の倒産にともなう未払賃金の救済を求める。十二名分。一名は十四歳の見習い。商会主は行方不明』


 誠は——その二通を、机の端に並べた。


 千件の中の、二通。それぞれの紙の向こうに、顔があった。イルマ・ローエ、五十一歳。十四歳の見習い。——名前と年齢が、ある。


「…………これを、僕一人で?」


「先代の法務官は、おりませんでした。——三十年間、この職位は空席でございました」


「三十年」


「はい。——ルンゲ伯の管轄下では、法務は王宮の役職ではなく、各領主の裁量とされておりました」


 誠は——椅子に座った。深呼吸をした。


 千件の陳情。三十年分の空白。一人の人間が決裁する。——前の世界なら、即座に部署を立ち上げる規模だった。


「……一人では、無理です」


「はい?」


「一人で千件を裁くのは、無理です。——というより、一人で裁くべきではない」


 文官が——困惑した顔をした。


「では、どうなさいますか」


「組織を作ります」


「組織」


「法務局を。——僕の下に。複数人の法務官を雇い、案件を分担します。決裁の基準を明文化します。——一人で全て決める仕組みは、また腐ります」


「ですが——人を雇う権限は」


「陛下に申請します。今すぐに」


───


 その日のうちに、誠は王に三つの提案書を提出した。


 一つ目。法務局の設立。職員定数三十名。法務官十五名、書記十名、内部監査五名。


 二つ目。内部監査制度。法務局の活動を、法務局自身ではない第三者が監査する。監査結果は公開する。


 三つ目。法務顧問への内部通報窓口。誰でも通報でき、通報者は匿名性が保護される。通報内容は——法務顧問本人ではなく、独立した審査委員会が判断する。


 王は——三つとも、即決で承認した。


「お前が一人で抱え込むと言えば、止めるつもりだった。——だが、最初に組織を作ると言った。——お前は、わかっている」


「はい」


 王が——一瞬、視線を落とした。


「……正直に言えば、余は不安だ」


「陛下」


「お前を任命したのは余だ。お前が失敗すれば、余の責任になる。——それは構わん。だが、お前が成功しなければ、この国は変われない。——余が変えられなかったものを、お前に背負わせている」


 王の指が、机の上でわずかに動いた。


「うまくやれ。——余はそれしか言えん」


「……はい」


「ただし——一つ条件がある」


「何でしょう」


「法務局の最初の人事は、お前が選べ。——お前が信じる人間を、お前が選んで雇え」


「…………」


「誰でも構わん。——身分も、出自も、問わん。お前が『この人間なら任せられる』と思う者を選べ」


「ありがとうございます」


───


 控室に戻った。


 誠は——紙を取り出した。最初の人事リスト。


 書き始めた。


 一人目。マリーナ・コルヴィン。商人ギルド・ギルドマスター。市場の透明化を一緒に進めた、計算と監査の専門家。


 二人目。エリーゼ・フォルクハルト。元騎士団員。現場主義で、人を見る目がある。法務官ではなく、内部監査官として。


 三人目。フリッツ。エーベルバッハの自治代表。——書こうとして、ペンが止まった。


 フリッツは、姉を失った男だった。三百人の村を立て直した男だった。——でも、彼には村がある。村を離れさせるわけにはいかない。


 誠は——フリッツの名前を書きかけて、消した。代わりに、こう書いた。


 「フリッツ・ベッカー:エーベルバッハ自治代表。法務局の地方協力者として、現地から助言・連携を行う」


 現場を、現場に残す。——これも、仕組みだった。


 四人目。クラウス・フォン・エーベルバッハ。——いや、彼は騎士団長だ。法務局には入れられない。だが、法務局と騎士団の連携窓口として、定期協議を行う相手として、リストの最後に書いた。


 最後に——誠は、ペンを止めた。


 もう一人、書こうとしていた名前があった。


 ルカ。


 書けない名前だった。——ルカはまだ、十一歳だ。法務局の職員にはできない。けれど、ルカがいなければ、誠はここまで来られなかった。ルカがいなければ、自治の意味も、選択肢の意味も、誠は本当には理解できなかった。


 誠は——リストの末尾に、こう書き足した。


 「ルカ:法務顧問の良心の番人。役職外。報酬は、おっさんの背中を蹴ること」


 書いてから、少し笑った。


「……これは、正式な人事リストには載せられないな」


 でも、自分だけが見るリストなら——載せていい。


───


 夕方。


 宿に戻った。一日が、長かった。


 ルカが、扉の前で待っていた。


「おっさん」


「ルカ」


「就任式、見たよ」


「うん」


「カッコよかった」


「……そうか」


「でも、ちょっと言いたいことがある」


「何?」


「『自分を最初の監視対象にします』って言った時——周りの貴族のおじさんたちが、変な顔してた」


「うん、見た」


「あれ、絶対にやらせないって顔だった。——気をつけて」


 誠は——驚いた。十一歳の子供が、貴族たちの表情を読んでいた。


「……ルカ、いつの間にそんなことが」


「マリーナさんに教わった。『相手の顔を見ろ』って。『言葉より顔の方が嘘をつかない』って」


「マリーナさんらしいな」


「うん」


 ルカが——少し、誠の方を見上げた。


「おっさん」


「うん」


「私、もう十一歳だよ」


「知ってる」


「あと七年で、十八歳になる。——その時、私もおっさんの仕事を手伝えるかな」


「……ルカが手伝いたいなら」


「うん。手伝いたい」


「何の仕事を」


「分かんない。でも——おっさんがやってる仕事って、契約書を読めない子供のための仕事でしょ。私は、契約書を読めない子供だった。——だから、私みたいな子のために、何かしたい」


 誠は——少し、黙った。


 あの日、契約書も読めなかった子供が——七年後、自分の隣で働く未来を、口にしている。


「ルカ。——七年後、お前が十八歳になった日に、もう一回その話をしよう」


「忘れないで」


「忘れない。——というか、忘れないように、書いておく」


「書く?」


「うん。——コンプライアンス担当は、約束を文書にする職業だから」


 誠は——内ポケットから、小さな手帳を取り出した。


 書いた。


 「2033年(七年後):ルカが十八歳になった日に、法務局での就労について再協議する。約束した。誠」


 ルカが、覗き込んだ。


「……日付がある」


「うん」


「日付があると、約束って強くなるの?」


「強くなる。——日付のない約束は、いつでも『言ってない』にできる。日付があると、できない」


「そっか」


「これも、仕組みの一つだ」


「……仕組み、好きだね、おっさん」


「好きだ」


 誠は——手帳を閉じた。


───


 夜。


 宿の屋根の上。


 誠は——一人で星を見ていた。


 就任初日。書類の山。組織の設計。最初の人事。ルカとの約束。——すべて、現実になった。前の世界では「制度設計」と呼ばれていた退屈な仕事が、この世界では一つ一つ、人の顔と結びついていた。


 マリーナの計算。エリーゼの監査。フリッツの現場。クラウスの背中。ルカの良心。——一人ひとりの顔があった。一人ひとりの過去があった。


 前の世界では、見えなかったものだった。


「……コンプライアンスって、こういう仕事だったのか」


 独り言。


 星空の下で、誠は——ようやく、わかった気がした。


 コンプライアンスは、ルールを守らせる仕事ではない。——人を、信じすぎないための仕組みを作る仕事だった。人を信じない、ではなく、信じすぎない。信じすぎて、裏切られた時にも、誰かが守られるように。


 ルンゲは——人を信じすぎた。自分を信じすぎた。だから、戻れなくなった。


 誠は——自分を信じない。だから、仕組みを作る。仕組みが自分を止めてくれる日のために。


「……明日も、書類の山だな」


 誠は、立ち上がった。


 屋根を降りた。


 明日の準備があった。


───


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ