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第37話「コンプラ担当の最終報告」

───


 ルンゲが拘束されて、三日が経った。


 エーベルバッハは——静かだった。


 静かすぎた。


 嵐の後の静けさ。——誠は、その静けさの中に、不安を感じていた。勝った。でも、何が変わったのか。ルンゲがいなくなっただけで、仕組みが変わったわけではない。


「是永。——メルツ伯から書状が届いた」


 クラウスが——封を切った。


「月次報告書の受領確認。および——国王陛下が、ルンゲ伯の処遇について審議を開始した、と。是永の出頭を求める。一週間以内に王都へ」


「出頭。——呼び出しですか」


「呼び出しだ。——だが、悪い意味ではないと思う。メルツ伯の追記がある。『陛下は是永殿の報告書を読了された。内容について、直接確認したいとのこと』」


「報告書を——王が、読んだ」


「七十二ページ全て。——陛下は、思ったより読む人間のようだ」


───


 王都へ向かう前に、誠は——一つ、やるべきことがあった。


 ルンゲが拘留されている場所。——王宮の地下ではない。王都の外れにある、貴族用の拘留施設。石造りの小さな建物。窓は一つ。


「面会を希望します。——是永誠です」


 看守が——少し驚いた顔をした。


「……被害者が加害者に面会? 珍しいな」


「話したいことがあります」


「ルンゲ伯は——面会を拒否していませんが。自己責任で」


「はい」


───


 部屋は——狭かった。机と椅子が二つ。窓から薄い光が入っている。


 ルンゲが——座っていた。


 仮面は、なかった。穏やかな微笑みも、計算された余裕も。——ただの、五十代の男が座っていた。服は質素なものに変わっている。髪は乱れていた。


「……是永か」


「はい」


「何の用だ。——勝利の報告か」


「違います」


「では何だ」


「…………」


 誠は——椅子に座った。


「聞きたいことがあります」


「聞きたいこと? ——法廷の準備か。証言を引き出しに来たのか」


「違います。——個人的に、聞きたいことです」


「…………」


「ルンゲ伯は——最初から、こうだったんですか」


「…………こう、とは」


「搾取。移送。弾圧。——最初から、そのつもりでこの地位に就いたのですか」


 ルンゲが——少し、笑った。笑いというよりは、息が漏れた。


「……最初から。——最初から、か」


 沈黙。


「……三十年前。——私が父の爵位を継いだ時、エーベルバッハはまだ豊かだった。私は——若かった。領地を豊かにしたかった。民を守りたかった。——今のお前のように」


「…………」


「最初の五年は、うまくいった。税収は上がり、人口は増え、領地は発展した。——私は、自分が正しいと思っていた。正しいことをしていると」


「何が変わったんですか」


「……隣の領地が不作になった。——難民が流入した。食料が足りなくなった。治安が悪化した。私は——効率を求めた。効率のために、人を動かした。人を——配置した」


「配置」


「移送だ。——最初は、本当に配置転換だった。領内の別の場所に移しただけだ。でも——次の年も不作だった。その次の年も。そのたびに——もう少しだけ、もう少しだけと。効率のために。必要悪だと」


「必要悪」


「そうだ。——効率のためだと言い聞かせた。領地のためだと。民のためだと。——いつの間にか、民のためではなく、自分の体面のためになっていた。税収を維持するために。成果を見せるために。上に報告するために」


「…………」


「気づいた時には——もう戻れなかった。移送した人間は戻せない。搾取した税は返せない。——だから、隠した。隠し続けた。三十年間」


 ルンゲが——一度だけ、目を閉じた。


 まぶたの裏に、何かを見ているようだった。三十年前の自分か、最初に移送した人間の顔か、それとも——戻れたはずの分岐点か。


「……一度だけ、戻ろうとしたことがある。十年前だ。報告書を全て公開して、罪を認めて、爵位を返上しようと——書きかけて、破った。怖かった。三十年分の沈黙より、たった一日の正直の方が、怖かった」


 乾いた声だった。


「それが、私の一番の罪だ。——気づいていたのに、戻らなかった」


 ルンゲの声は——穏やかだった。穏やかで、乾いていた。


「是永。——お前と私の違いは何だ」


「…………」


「お前も最初は正しいことをしようとしている。私もそうだった。——何が違う? 才能か? 人格か? ——違うな。お前も私も、大して変わらない人間だ」


 誠は——少し、考えた。


「違いは——仕組みです」


「仕組み?」


「僕一人でも腐る。——権力を持てば、誰でも腐る可能性がある。ルンゲ伯だけが特別に悪い人間だったわけじゃない。——仕組みがなかったから、腐った」


「仕組みがあれば——腐らなかったと?」


「腐る前に、止められた可能性がある。——報告制度。監査。内部通報。情報公開。——誰かが見ていれば、最初の一歩で止められたかもしれない。でも、誰も見ていなかった。見る仕組みがなかった」


「…………」


「ルンゲ伯。——あなたは、悪人ですか」


「……悪人かどうかは、私が決めることではない」


「僕もそう思います。——でも、一つだけ言えることがある。あなたが悪人かどうかに関係なく、仕組みがなければ同じことが起きる。別の人間が、別の場所で、同じことをする。——だから、人を裁くだけでは足りない。仕組みを変えなければ」


「……仕組みを変える、か」


「はい」


「その仕組みとやらが——本当に機能するか、見届けてやろう」


「…………」


「裁判は——受ける。逃げるつもりはない。——三十年間、逃げ続けた。もう十分だ」


 ルンゲが——窓の外を見た。


「是永。——一つだけ忠告しておく」


「何ですか」


「王に近づくな。——いや、近づくなら——自分を見張る仕組みを持て。権力は——甘い。気づかないうちに、お前もこちら側に来る」


「…………」


「私のようになりたくなければ——自分を信じるな。仕組みを信じろ。——お前が言ったことだ」


───


 拘留施設を出た。


 外は——晴れていた。


 エリーゼが、門の前で待っていた。


「話したのか」


「話しました」


「何を」


「仕組みの話を。——ルンゲ伯は、最初は正しいことをしようとしていた」


「…………」


「エリーゼさんは——知っていましたか」


「知っていた。——ルンゲが若い頃、騎士団に視察に来たことがある。——熱心で、誠実で、民のことを考えている人間だった」


「いつ、変わったんですか」


「わからない。——少しずつだ。少しずつ、気づかないうちに。——だから、怖い」


「怖い?」


「お前もそうなるかもしれない。——私もそうなるかもしれない。誰でも。——だから、仕組みが要る。お前の言う通りだ」


───


 王都。


 王宮。謁見の間——ではなく、小さな執務室。


 王が——机に座っていた。前回と同じ、退屈した知性の目——ではなかった。何かが、変わっていた。目の奥に、覚悟のようなものが見えた。


「是永」


「陛下」


「お前の報告書を読んだ。——七十二ページ。全て」


「ありがとうございます」


「ありがとう、ではない。——読んで、恥ずかしくなった」


「…………」


「ルンゲの管轄下で何が起きていたか。——余は知らなかった。知ろうとしなかった。知る仕組みもなかった。——お前の言う通りだ。仕組みがなければ、トップは現場を知れない」


「陛下——」


「ルンゲの裁判は行う。公開で。——お前が言った通り、密室では信頼が生まれない」


「はい」


「その上で——法改正の議論を始める。契約法。情報公開法。領主の報告義務。——全て、お前が提案したものだ」


「ありがとうございます。——ただ」


「ただ?」


「法を作るだけでは足りません。——法を運用する仕組みが必要です。監査。内部通報。定期報告。——法を守らせる仕組みがなければ、法は紙の上の文字で終わる」


「わかっている。——だから、お前に提案がある」


 王が——誠を見た。


「法務顧問として、王宮に仕えよ」


「…………」


「この国に、法令遵守の仕組みを作る責任者が必要だ。——お前以外にいない」


 誠は——黙った。


 前の世界では、考えられない話だった。コンプライアンス担当が、国の最高顧問になる。——荒唐無稽。でも、この世界では——あり得る。あり得てしまう。


 ——あり得てしまう、ということが、怖かった。


 ほんの一瞬、誠の喉が詰まった。ルンゲの顔が浮かんだ。三十年前、若くて、誠実で、民を守りたいと思っていた男の顔。その男が、三十年後、自分の前に座っていた、あの乾いた目。


 ——僕も、ああなる。


 その確信が、一瞬だけ、全身を冷やした。


「……お答えする前に、三日だけ時間をください」


「三日?」


「相談したい人たちがいます」


───


 宿。


 全員がいた。クラウス。エリーゼ。マリーナ。ルカ。


「王が——法務顧問になれと言った」


 沈黙。


「…………マジ?」


 ルカが、最初に口を開いた。


「マジです」


「おっさんが——王様の部下になるの?」


「部下というか——顧問です。法律の仕組みを作る責任者」


 マリーナが——腕を組んだ。


「受けるべきよ」


「…………」


「中から変えるチャンスは、二度と来ない。外から叩いても限界がある。あんたが中に入れば——仕組みそのものを設計できる」


 エリーゼが——少し、眉をひそめた。


「……でも」


「でも?」


「権力の側に行ったら——あなたも変わってしまうかもしれない」


「…………」


「ルンゲも——最初は正しかった。権力は——人を変える。近くにいれば、なおさら」


 クラウスが——黙って聞いていた。


「是永。——私は賛成だ。ただし、条件をつけろ」


「条件?」


「自分を監視する仕組みを、自分で作れ。——お前が腐った時に、止める仕組みを」


「ルンゲ伯と——同じことを言いますね」


「ルンゲが言った?」


「自分を信じるな。仕組みを信じろ、と」


 沈黙。


 ルカが——誠の袖を引いた。


「おっさん」


「うん」


「おっさんはおっさんだよ。権力持っても——おっさんだと思う。でも——約束して」


「何を?」


「おかしくなったら——私が止める。それを、止めないで」


「…………」


「私がおっさんに『おかしいよ』って言った時に、『うるさい』って言わないで。ちゃんと聞いて。——それが条件」


 誠は——ルカを見た。


 この子は——あの日、契約書も読めなかった子供だった。選択肢がなかった子供だった。——今は、権力者に条件を出せる人間になっている。


「約束する。——ルカが止めると言ったら、止まる」


「……絶対?」


「絶対」


───


 三日後。王宮。


「陛下。——法務顧問の件、お受けします」


「そうか」


「ただし——条件があります」


「条件だと? 余が提案しているのに、条件をつけるか」


「はい。——二つ」


「言え」


「一つ。——法務顧問への内部通報制度を作ってください。僕自身を監視する仕組みを。法務顧問が不正をした場合、誰でも通報でき、通報者は保護される。——僕自身が、ルンゲと同じことをしない保証を、仕組みとして」


「…………」


「二つ。——法務顧問は、年に一度、全ての活動を公開報告する義務を負う。何をしたか。何を変えたか。何が問題だったか。——全て、国民に開示する」


 王が——しばらく、誠を見ていた。


 そして——笑った。


「お前は本当に——面白い男だな」


「面白くはないです。——当然のことです」


「当然、か。——ルンゲに三十年仕えてもらったが、自分を監視しろと言った人間は一人もいなかった」


「だから——三十年、誰も止められなかった」


「…………その通りだ」


 王が——立ち上がった。


「条件を認める。——法務顧問・是永誠。お前の就任式は、一週間後だ。——それまでに、自分を縛る仕組みとやらを、ちゃんと設計しておけ」


「はい」


「それから——エーベルバッハの件」


「はい」


「あの領地は——ルンゲの管轄から外す。当面は王室直轄とする。自治組織の運営は——そのまま続けてよい」


「……ありがとうございます」


「礼は言うな。——余が早く動いていれば、三十七人は消えなかった。遅すぎた礼など——受け取れん」


 王の声が——少し、震えた。


───


 王宮を出た。


 回廊を歩く。——あの日と同じ石の床。同じ靴の音。


 でも——何かが、違っていた。


 誠は——立ち止まった。


 窓の外を見た。王都の街並み。人が歩いている。商人が荷を運んでいる。子供が走っている。——普通の、日常。


 この世界に来た日のことを——思い出した。何もわからなかった。言葉も、制度も、文化も。ただ一つ持っていたのは——コンプライアンスの知識だけだった。


 契約を見直す。帳簿を作る。情報を公開する。責任の所在を明確にする。——前の世界では退屈な仕事だった。誰にも感謝されない仕事だった。


 この世界では——人を救う武器になった。


「…………」


 誠は——少し、笑った。


「コンプライアンス担当は——どの世界でも、地味な仕事だな」


 独り言。


 でも——悪くない。


───


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