第40話「異世界コンプライアンス」
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就任から、一年が経った。
春が来ていた。
王宮の庭に、白い花が咲いていた。名前は——誠は知らない。前の世界にはない花だった。一年経っても、この世界の植物の名前は、半分も覚えていなかった。
でも——咲いている、ということは、わかった。
誠は——窓の外を見ていた。法務局の自分の机から。一年前、何もなかった部屋。今は、八人の同僚と、書類棚十二と、回り続ける仕組みがあった。
「是永」
マリーナが、入ってきた。
「年次公開報告書、印刷が上がったわ」
「ありがとうございます」
「全部で四百二十部。王都の貴族院、各領主、騎士団、商業ギルド、——それから、エーベルバッハの自治集会所」
「自治集会所にも?」
「フリッツが要望してきたの。『村にも置きたい』って。——読めない人もいるから、フリッツが代読するそうよ」
誠は——少し、笑った。
報告書の表紙に、自分の名前があった。「法務顧問・是永誠」。前の世界では、こういう報告書は決まって匿名だった。「コンプライアンス担当者」とだけ書かれた、無味乾燥な紙。——この世界では、名前を書くことになった。失敗の責任も、成功の責任も、引き受けるために。
「マリーナさん」
「ええ」
「中身、もう一度確認してもらえますか」
「何度目?」
「五度目です」
「……あなた、本当に変わらないわね」
「変わらない方がいい。——コンプライアンスは、変わらないことが仕事です」
マリーナが——笑った。
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報告書には、こう書かれていた。
『年次公開報告書・第一号。法務顧問・是永誠。
就任から一年間の活動を、ここに公開します。
この一年で、何が変わったか。そして、何がまだ変わっていないか。両方を、隠さずに記します』
目次。
一、法務局の設立と運営
二、処理した案件の総数と内訳
三、内部通報の受理状況(被通報者:マリーナ・コルヴィンを含む)
四、未処理の案件
五、私自身の判断ミスの記録
六、未解決の課題
「五、私自身の判断ミスの記録」——前の世界では、絶対に書かれない章だった。この世界では、就任の誓いに含めた。だから、書いた。
誠は——その章を、自分でもう一度読んだ。
『第一の判断ミス。——三月の労働争議において、私は当初、雇用主側の主張を「合理的」と判断した。しかし、後日、エリーゼ監査官の指摘により、雇用主側の主張には、現場の労働実態が反映されていなかったことが判明した。私は判断を撤回し、労働者側の救済を優先する判決を出し直した。——私の最初の判断は、机上の理屈だった。現場を知らない人間の判断だった。
第二の判断ミス。——七月の領地境界紛争において、私は両領主の合意を急ぎすぎた。結果、合意の文面に曖昧さが残り、三ヶ月後に再紛争が発生した。——「合意した」ことを成果と捉え、「合意の質」を軽視した結果だった』
誠は——書きながら、何度もペンを止めた。
書きたくなかった。誰だって、自分の失敗を公開したくなかった。
でも——書かなければ、ルンゲと同じだった。隠せば、隠し続けることになる。隠し続けた先に、三十年後のルンゲがいた。
だから、書いた。
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報告書の公開日。
王都の中央広場に、貴族と平民が集まっていた。前代未聞の光景だった。コンプライアンス報告書の公開朗読会——この世界で、初めての試みだった。
誠は——壇上に上がった。
眼下に、人がいた。
マリーナがいた。エリーゼがいた。クラウスがいた。フリッツがいた。メルダがいた。ルカがいた。——そして、知らない顔の方が、ずっと多かった。
「皆さん」
誠は——話し始めた。
「今日、私はこの一年間の活動を、皆さんに公開報告します。良かったことも、悪かったことも。成功も、失敗も。——一つも、隠しません」
沈黙。
「法務局は、この一年で、九百八十二件のうち、七百四十一件を処理しました。残り、二百四十一件。——終わっていません」
「七百四十一件のうち、私の判断は、二件、間違っていました。詳細は、報告書の第五章にあります」
ざわめき。
貴族の一人が、隣の貴族に何か囁いた。「自分から間違いを認める法務顧問など、見たことがない」と。——誠はそれを、聞こえないふりをした。
「内部通報窓口には、一年で十三件の通報がありました。そのうち、調査の結果、不正が認定されたものが二件。私の同僚であるマリーナ・コルヴィンも、その一件です。詳細は、第三章にあります」
マリーナが、群衆の中で——少しだけ、頷いた。
「最後に、一つだけ、具体的な話をします」
誠は——一通の書類を、壇上に置いた。
「就任初日、私の机に積まれた千件の書類の一番上に、これがありました。北部・ハーゼル村のイルマ・ローエさん、五十一歳、未亡人。三年前、領主代官に押収された農具の返還を求める申立でした」
群衆の中で、ひとりの女性が——わずかに身を硬くした。日に焼けた頬。粗末な肩掛け。前の方ではなく、ずっと後ろの方にいた。
「イルマさんは、家族六人で、農具を借りて耕作を続けていました。年に銀貨四枚の借料を、三年間。——調べると、押収は当時の規定にも違反した、不当なものでした。法務局は六ヶ月かけて、農具を返還し、過去三年分の借料を国庫から補填する判決を出しました」
誠は、書類の隅を指でなぞった。
「金額にすれば、銀貨十二枚。——七百四十一件のうち、たった一件です。この国を変えるほどの話ではありません。でも、イルマさんの家族にとっては——次の冬を越せるか、越せないかの差でした」
後ろの方で、女性が——一度だけ、深く頭を下げた。
「私は、この一件を、自慢するために話すのではありません。——この一件を覚えておくために、話します。報告書に数字を書く時、私は数字の向こうにイルマさんの顔があることを、忘れたくない。——忘れた瞬間、私はルンゲになります」
「未解決の課題は、たくさんあります。各領地の自治制度の整備。法務官の人材不足。地方への情報伝達の遅さ。——一年で、全ては変わりませんでした」
誠は——少し、息を吸った。
「でも、一年前と今とで、確実に変わったことが一つあります」
「何か」
貴族の一人が、問うた。
「——皆さんが、今ここにいる、ということです」
沈黙。
「一年前、法務顧問の報告書は存在しませんでした。法務顧問が公開朗読することも、ありませんでした。皆さんが集まって、報告書を聞くことも、なかった。——今日、それが起きています。一年前にはなかったことが」
「…………」
「変わったのは、大きなことではありません。小さなことです。一つの報告書。一つの朗読会。——でも、この小さなことが、続けば、十年後には、変わります。私は、続けます。来年も、再来年も。——皆さんも、見届けてください」
誠は——頭を下げた。
拍手は、すぐには起こらなかった。
最初に、ルカが——両手を叩いた。
次に、マリーナが。
次に、エリーゼが、フリッツが、メルダが、クラウスが。
最後に、知らない顔の人々が——少しずつ、叩き始めた。
大きな拍手ではなかった。盛大な歓声でもなかった。——静かな、確かな音だった。
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夕方。
報告会が終わった後。
誠は——王宮の回廊を歩いていた。一年前と同じ石の床。同じ靴の音。
でも——歩幅が、少し違っていた。
窓の外に、夕日が見えた。
立ち止まった。
「……家に、帰れるんだろうか」
独り言。
一年前、ふと考えた問いだった。前の世界に戻る方法を、誰も知らなかった。誠も、探さなかった。忙しすぎて、探す暇がなかった。——でも、今日、ふと思い出した。
前の世界に、戻りたいか。
考えた。
前の世界には——スーツがあった。電車があった。コンビニがあった。慣れ親しんだ言葉と、慣れ親しんだ食べ物。コンプライアンスという仕事は、そこでは「退屈」だった。誰にも感謝されない仕事だった。
この世界には——ルカがいる。マリーナがいる。エリーゼがいる。クラウスがいる。フリッツがいる。九百八十二件の書類があり、未解決の課題があり、来年もやるべき仕事がある。
誠は——自分に問うた。
「帰りたいか?」
答えは、出なかった。
「帰らなくてもいいか?」
その問いには、——答えが出た。
「……帰らなくても、いい」
独り言。
帰りたくないのではなかった。帰る必要が、なくなっていた。前の世界で「退屈な仕事」と呼ばれていたものが、ここでは「人を救う仕事」になっていた。同じ仕事のはずだった。同じ手順、同じ書類、同じ責任の所在の確認。——なのに、意味が違っていた。
意味は——文脈で決まる。仕組みの設計者ではなく、仕組みを必要としている人々の存在で決まる。
前の世界では、コンプライアンスは「足を引っ張る役」だった。「うるさい部署」だった。「事業を遅くする人たち」だった。——必要とされていなかった。必要とされていない仕事は、退屈になる。
この世界では、コンプライアンスは「足を支える役」だった。「声を制度に変える人たち」だった。「ルンゲを止められる仕組み」だった。——必要とされていた。必要とされる仕事は、退屈ではなかった。
誠は——少し、笑った。
「異世界に来て、わかったことが一つある」
独り言。
「コンプライアンスって——どこの世界でも、同じ仕事だ。でも、必要とされる場所が、違う。それだけだった」
───
夜。
宿——ではなく、誠は今、小さな家に住んでいた。王宮から徒歩十分。法務顧問の住まいとして与えられた家。——豪邸ではなかった。質素な二階建て。誠が望んだ、最小限の家。
扉の前に、ルカが立っていた。
「おっさん」
「ルカ」
「報告会、お疲れさま」
「ありがとう」
「中、入っていい?」
「いつでもいいって言ったろ」
ルカが、入ってきた。手に、小さな包みを持っていた。
「何それ」
「あのね。——マリーナさんとエリーゼさんと一緒に作った。今日のお祝い」
包みを開けた。——焼き菓子だった。形は不揃いで、焦げ目もまばらだった。十一歳の手作りだった。
「ありがとう」
「食べて」
誠は——一つ、口に入れた。甘かった。少しだけ、塩気があった。前の世界の菓子とは違う味だった。
「美味い」
「ホント?」
「ホント。——前の世界にはない味だ」
「『前の世界』って、どんなとこ?」
誠は——少し、考えた。一年前のルカなら、こんな質問はしなかった。一年経って、ルカは「前の世界」という言葉に興味を持つようになっていた。
「色々あったけど。——でも、ここよりは、ずっと退屈だった」
「退屈?」
「うん」
「おっさん、退屈なの嫌い?」
「嫌いというか——退屈は、人を腐らせる。退屈な仕事を続けていると、人は『なんでこんなことやってるんだろう』って思い始める。それが、ルンゲの始まりだったかもしれない」
「ふーん」
ルカが、菓子を一つ食べた。
「じゃあ、この世界にいた方がいいね」
「うん」
「ずっといるの?」
「ずっと、いる」
「ホント?」
「ホント。——日付を書いておくか?」
ルカが、笑った。
「いい。——日付がなくても、信じる」
「お前、進歩したな」
「おっさんが教えてくれた」
「何を」
「——『信じすぎない』って言うけど、おっさんのこと、ちょっとくらいは信じてもいいって。——だって、おっさんは『自分を信じない』って言ってる人だから。そういう人は、たぶん、信じていい」
誠は——少し、黙った。
十一歳の論理だった。完璧な論理だった。
「……ルカ」
「うん」
「お前、本当に、賢くなったな」
「おっさんが連れてきてくれたから」
「連れてきた?」
「うん。あの日、契約書を読んでくれた日。——あの日、おっさんが私を、ここまで連れてきてくれた」
誠は——窓の外を見た。
星が出ていた。前の世界とは違う星座。でも、星は星だった。光は光だった。
「ルカ」
「うん」
「この世界には、契約書を読めない子供が、まだたくさんいる」
「知ってる」
「だから、僕はまだ、引退できない」
「うん」
「お前が十八歳になる日まで、僕は法務顧問でいる。——その日に、お前が引き継ぐかどうか、決めてくれ」
「七年後ね」
「七年後だ」
「分かった。——その日まで、おっさんが腐らないように、私が見てる」
「頼んだ」
ルカが——もう一つ、菓子を口に入れた。
「おっさん」
「うん」
「この菓子の名前、知ってる?」
「いや」
「『誠さんの一年』」
「……は?」
「マリーナさんが付けた。今日のために作ったから」
誠は——少し、笑った。
菓子の名前にされる人生など、前の世界では考えられなかった。
「美味いか?」
「美味い。——一年分の味がする」
「変な日本語だな」
「日本語?」
「いや、こっちの言葉でも変だ」
二人で、笑った。
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窓の外。
春の風が、吹いていた。
白い花が、揺れていた。
誠は——立ち上がった。机に向かった。次の年の計画書を開いた。
まだ、二百四十一件の書類が残っていた。未処理の案件。来年に持ち越す課題。新しい年も、書類の山から始まる。
でも——悪くなかった。
退屈な仕事ではなかった。誰かに必要とされる仕事だった。
誠は——ペンを取った。
書き始めた。
『年次計画書・第二号。法務顧問・是永誠。
来年の目標。——契約書を読めない子供を、一人でも減らす』
書きながら、誠は——少し、笑った。
異世界に来て、一年。コンプライアンス担当の仕事は、何も変わらなかった。書類を作り、責任の所在を明確にし、報告書を書く。地味で、退屈で、誰にも感謝されない——はずだった、仕事。
でも、この世界では——意味があった。
それで、十分だった。
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窓の外で、ルカが菓子の包みを持って、家に帰っていく音がした。
星空の下。
異世界コンプライアンスは、——明日も、続いていく。
ペン先が、紙の上で、小さく音を立てた。
その音だけが、しばらく、部屋の中で続いていた。
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【完】
「異世界コンプライアンス 〜コンプラ担当の俺が異世界に飛ばされたので、とりあえず全部是正します〜」
最終話 了
ご愛読ありがとうございました。
【最終話に寄せて】
是永誠は、年次公開報告書を書く男でした。
数字を隠さず、失敗も書き、署名する。
それが彼の流儀でした。
なので、最後にひとつだけ、お願いさせてください。
この作品が「読まれた」「届いた」という記録は、
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初めて可視化されます。
数字を残してくださると、誠と同じく、
私もこの作品を「公開報告」できます。
ご協力いただけたら、嬉しいです。




