第33話「エーベルバッハ」
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馬車で三日。
街道を外れてからの道は、ほとんど道ではなかった。轍は草に埋もれ、道標は倒れ、橋は朽ちかけていた。——人が通らなくなった道は、道であることをやめる。
「……これが、ルンゲの管轄地」
マリーナが、馬車の窓から外を見て言った。
「管轄っていうか——放棄よね、これ」
クラウスが、手元の帳簿を見ていた。父が残した記録。
「五年前の記録では、エーベルバッハの年間税収は銀貨三千二百枚。農業と林業が中心で、小さいが安定した領地だった」
「今は?」
「去年の税収報告は——銀貨百四十枚。九十五パーセント減だ」
「九十五パーセント……」
誠は——窓の外を見た。畑があったはずの場所に、雑草が生い茂っている。耕作放棄地。前の世界でも見たことがある。——人がいなくなった土地の姿は、どの世界でも同じだった。
ルカが——黙っていた。いつもなら何か言うルカが、何も言わない。窓の外を、じっと見ている。
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エーベルバッハの集落に着いた。
最初に目についたのは——壊れた家だった。屋根が落ちた家。壁が崩れた家。戸板が外された家。——住人がいなくなった家は、驚くほど早く壊れる。
人は——いた。
だが、少なかった。
集落の中心にある広場に、十数人が集まっていた。——誠たちの馬車を、遠くから見ていた。近づいてこない。
「……歓迎されてないな」
クラウスが言った。
「歓迎する理由がないからだ。——この人たちにとって、外から来る人間は、奪いに来る人間だ」
エリーゼが言った。
誠が——馬車を降りた。
広場に向かって歩いた。
十数人の住民が——誠を見た。目が、暗い。怒りではない。恐怖でもない。——諦め。何を言われても、何をされても、もう何も変わらないと知っている人間の目。
「こんにちは。——僕は、是永誠と言います」
「…………」
「国王陛下の命で、この領地の再建を任されました」
「…………」
誰も、答えない。
一人の老人が——前に出た。日焼けした顔。曲がった背中。手は大きく、節くれだっている。農民の手。
「……再建。——前にも来たよ、そういう人間が」
「前にも?」
「ルンゲ伯の部下が来た。『改善する』と言った。——税を上げた。『効率化する』と言った。——畑を取り上げた。『再建する』と言った。——若い者を徴用して、二度と帰さなかった」
「…………」
「言葉は聞いた。——もう、十分だ」
老人が——背を向けた。
他の住民も、散っていった。
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「……拒絶されたわね」
マリーナが言った。
「拒絶じゃない。——防衛だ」
誠が言った。
「裏切られ続けた人間は、期待しないことで自分を守る。期待しなければ、裏切られない。——合理的な判断だ」
「合理的って——じゃあどうするの。話を聞いてもらえなきゃ、何も始まらないわよ」
「聞いてもらうんじゃない。——見せる」
「見せる?」
「言葉で信じてもらえないなら、行動で示す。——まず、僕たちが何かをする。それを見てもらう。それだけでいい」
「何をするの」
誠は——集落を見渡した。
「……井戸。——マリーナ、井戸が枯れたと言っていたね」
「去年の冬で二つ枯れたって聞いた」
「残りの井戸は?」
「たぶん一つ。——三百人弱が、一つの井戸で暮らしている」
「まず、井戸を掘る」
「井戸? ——あんた、井戸の掘り方知ってるの?」
「知りません。——でも、この中に知っている人がいる」
誠が——エリーゼを見た。
「……なぜ私を見る」
「騎士団の野営訓練で、水源確保の技術を学んでいるはずです」
「…………正解だ。——だが、一人では掘れない」
「クラウス」
「……私に掘れと?」
「手伝ってもらえますか」
「……貴族が井戸を掘るのか」
「貴族が住民のために働く姿を見せることが、最初の一歩です」
クラウスが——少し笑った。
「……父が聞いたら、何と言うだろうな」
「たぶん——記録に残すと思います」
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翌朝から、井戸掘りが始まった。
エリーゼが地形を読み、水脈の位置を推定した。誠とクラウスとマリーナが、交代で穴を掘った。——ルカは土を運んだ。
住民は——見ていた。
遠くから。近づかず。手伝わず。ただ、見ていた。
一日目。——何も出ない。
二日目。——何も出ない。
三日目の昼。
「……手、血が出てるわよ」
マリーナが、誠の手を見て言った。鍬の柄で、掌の皮が剥けていた。
「大丈夫です」
「大丈夫じゃないでしょ。——あんた、前の世界でデスクワークしてた人間でしょ。こんな肉体労働——」
「大丈夫です」
誠は——掘り続けた。
三日目の夕方。
「——出た」
エリーゼが、穴の底に手を入れた。——指の間から、水が滲んでいた。
誰も、何も言わなかった。
泥と水が混じった雫が、エリーゼの指先から落ちた。——たった一滴。でも、それは三百人の命を繋ぐ一滴だった。
「水脈に当たった。——明日から掘り広げれば、使える井戸になる」
誠は——穴の縁に座り込んだ。全身が痛い。手が震えている。——前の世界なら、こんなことをする必要はなかった。報告書を書いて、担当部署に回して、進捗を確認すればよかった。
この世界では——自分で掘る。
ルカが、水を持ってきた。
「おっさん。——飲んで」
「ありがとう」
「おっさんが井戸掘る人になるなんて、思わなかった」
「僕も思わなかった」
ルカが——少し、笑った。でも、目が笑っていなかった。
「どうした?」
「…………」
「ルカ?」
「……この村の子供たち。——さっき、少しだけ話した」
「うん」
「——前の私と、同じ目をしてた」
「…………」
「何も期待してない目。明日が来ても何も変わらないって、知ってる目。——私も、おっさんに会う前は、あの目をしてた」
ルカの声が——震えていた。
「私——何かしたい。この子たちに。——でも、何をすればいいかわからない」
「…………」
「おっさんなら、わかる?」
誠は——少し、考えた。
「わからない。——でも、一つだけわかることがある」
「何?」
「あの子たちに必要なのは、助けてくれる誰かじゃない。——自分で選べるということを知ること。選択肢があると知ること。君が教えられるのは、それだ」
「私が?」
「君は——選択肢がない場所から、自分で選ぶ場所に来た。その経験を持っているのは、この中で君だけだ」
ルカが——黙った。しばらく黙って、それから——頷いた。
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四日目の朝。
変化が起きた。
若い男が一人、穴の前に立っていた。——二十歳くらい。痩せている。手に、鍬を持っていた。
「……手伝う」
「ありがとう。——名前は?」
「……フリッツ」
「フリッツ。——なぜ手伝ってくれるんですか」
「…………」
フリッツは——少し、考えた。
「貴族が——穴を掘ってるのを見た。初めて見た。——何か、違うと思った。……俺の姉ちゃんが、移送された。三年前に。——あの人たちが、姉ちゃんを返してくれるとは思ってない。でも——何もしないよりは」
それだけ言って、穴に降りた。
その日の午後には、もう二人来た。
五日目には、五人。
六日目には——井戸が完成した。
清潔な水が、地面から湧き上がっていた。
住民が——集まっていた。もう、遠くからではなかった。井戸の周りに、三十人ほどが立っていた。
あの老人が——また、前に出てきた。
「……掘ったのか」
「掘りました」
「本当に——水が出たのか」
「出ました。——飲んでみてください」
老人が——柄杓で水を汲んだ。一口飲んだ。
「…………」
何も言わなかった。
でも——二口目を飲んだ。
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井戸が完成してから、空気が変わった。
住民が——少しずつ、話すようになった。
誠は、一人ずつ、話を聞いた。
「税はどのくらいでしたか」
「収穫の七割。——種籾まで持っていかれた年もある」
「七割……」
「最初は五割だった。それがすぐに六割になり、七割になった。文句を言った者は——消えた」
「消えた?」
「ルンゲ伯の部下が来て、連れていった。——どこに行ったかは、わからない。わからないから、誰も聞かなくなった」
誠は——記録した。一人ずつ。一件ずつ。
クラウスが——別の住民から聞いた話を持ってきた。
「是永。——これを見てくれ」
「何ですか」
「住民の一人が、隠していた。——ルンゲの部下が残した書類だ」
黄ばんだ紙。——移送記録。
名前。年齢。性別。「移送先:ルンゲ伯爵家」。
「……この『移送』って」
「奴隷だ。——領民を、ルンゲの別の事業に奴隷として送っていた。合法的に。——領主権限で」
「合法的に——奴隷を?」
「領主が領民の移動を命じる権限は、現行法にある。それを『移送』と名付けて、実質的な人身売買をしていた」
誠は——書類を、じっと見た。
名前が並んでいる。三十七人。——最年少は、十二歳。七番目の名前に、誠の目が止まった。「カタリーナ・ベッカー。十六歳。女性」。——フリッツの姓と、同じだった。
「…………十二歳」
「ルカと——同じ年齢の子もいたかもしれない」
クラウスの声が——低くなった。
「是永。——これは、ただの搾取じゃない。犯罪だ」
「犯罪です。——でも、現行法では犯罪にならない」
「だから——法を変えなければならない」
「はい。——でも、今はまだ変えられない。三ヶ月の試験期間を生き延びなければ、法を変える機会すら失われる。——この記録は、保全する。時が来たら、使う」
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七日目。
誠は——集落の広場に、全住民を集めた。
「みなさん。——これから、この領地の再建計画を説明します」
約三百人。——全員が来たわけではない。でも、井戸を掘った後では、最初の日よりも多くの人が来ていた。
「再建にあたって、三つのことをします」
「一つ目。——税率を五割から三割に下げます」
ざわめき。
「嘘だろ」
「黙って聞け」
フリッツが言った。——最初に井戸掘りを手伝った若者。
「二つ目。——この領地の運営を、住民の自治組織に移します。代表者を選び、役割を分担し、予算を自分たちで管理する」
「自治組織? ——そんなもの、やったことがない」
「やったことがなくて当然です。——今まで、やらせてもらえなかっただけです」
「三つ目。——全ての決定と支出を、毎月一回、全住民に公開します。何に、いくら使ったか。何を、なぜ決めたか。——全て」
「公開……?」
「隠すことは何もありません。——隠す必要がある運営は、最初から間違っています」
沈黙。
老人が——手を挙げた。
「……あんたの言うことは、立派だ。——だが、前にも立派なことを言う人間は来た。そのたびに、裏切られた」
「はい」
「信じろとは言わんのか」
「言いません。——信じてほしいとは言わない。まず、仕組みを見てほしい。仕組みが正しく動けば、信じなくても結果が出る。信じなくても回る仕組みを作るのが——僕の仕事です」
老人が——長い間、誠を見た。
「……変わった人間だな。——信じなくてもいい、と言う人間は初めてだ」
「信じてもらうのは、結果が出てからで十分です」
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再建計画が——動き始めた。
マリーナが、商人ネットワークを使って物資を手配した。種子。農具。建材。——全て、市場価格で。無償ではない。
「タダで配ると、依存が生まれる。——適正な価格で売る。その代わり、分割払いを認める。信用取引の基本よ」
エリーゼが、集落の防衛と水利の整備を指揮した。
「まず生き残ること。——水と安全を確保すれば、人は動き始める」
クラウスが、会計の仕組みを住民に教え始めた。
「帳簿の付け方。入りと出。——これが全ての基本だ」
ルカは——子供たちのところにいた。
五人の子供。全員、十歳前後。——痩せていて、服はボロボロで、目が暗い。
ルカが——膝を折って、子供たちと同じ目線に立った。
「ねえ。——私、前はここの子たちと同じだった」
「…………」
「何も選べなかった。何も変わらないと思ってた。——でも、変わった」
「どうやって?」
「おっさんが来たの」
「おっさん?」
「あの人。——井戸を掘った人。あの人は、仕組みを作る人。仕組みがあれば——選べるようになる」
「……選べるって、何を?」
「全部。——何をするか。どこに行くか。誰を信じるか。——全部、自分で決められるようになる」
子供たちが——ルカを見た。
暗い目。でも——ほんの少しだけ、何かが揺れた。
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夜。
誠は——移送記録を、もう一度読んでいた。
三十七人の名前。
この人たちは——今、どこにいるのか。生きているのか。
「……是永」
エリーゼが来た。
「寝ないのか」
「もう少し」
「移送記録か」
「はい。——三十七人。最年少十二歳。ルンゲの領主権限で、合法的に連れ出されている」
「合法——か」
「合法です。——だから、今は何もできない。でも——この記録は、いずれ法廷で使う」
「法廷?」
「法を変える。——移送の権限を制限する。そして、過去の移送について、記録の開示を求める。三十七人がどこに行ったのか。何をさせられているのか。——明らかにする」
「……三ヶ月で、そこまでたどり着けるか」
「たどり着かなければならない。——井戸を掘るだけでは足りない。仕組みを作るだけでは足りない。不正の証拠を積み上げて、構造を壊さなければ——同じことが、別の場所で繰り返される」
エリーゼが——誠を見た。
「……是永。お前は——怒っているのか」
「…………」
「お前の怒りは——静かだな」
「怒っています。——でも、怒りで動いたら、ルンゲと同じになる。感情ではなく、仕組みで変える。——それが、僕のやり方です」
「コンプライアンスのやり方か」
「はい」
エリーゼが——小さく笑った。
「……悪くない」
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同じ夜。
ルンゲの屋敷。
「エーベルバッハに——是永が着いたそうです」
「予定通りだ。——で、周辺の手配は」
「隣接するベッカー領とヘルマン領の領主に話をつけました。——エーベルバッハとの取引を控えるよう、と」
「物資の流通は」
「街道の関所に指示を出しました。エーベルバッハ向けの荷物には——検問を強化する、と」
「よろしい。——是永が何をしようと、物と人が入らなければ、再建はできない。三ヶ月後、あの土地は今と同じ——いや、今より悪くなっているだろう」
「マリーナの商人ネットワークが動いているようですが」
「マリーナか。——商人は利益で動く。利益が出ないとわかれば、撤退する。エーベルバッハに利益はない。——時間が解決する」
ルンゲが——ワインを口に含んだ。
「是永。——お前の理想は、現実の壁の前で砕ける。それが——統治というものだ」
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