第34話「自治という実験」
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エーベルバッハ。二週目。
井戸は動いている。畑の再開も始まった。——だが、問題はそこからだった。
「是永。——自治組織の件、進んでいない」
クラウスが、帳簿を閉じて言った。
「進んでいない?」
「代表者を選ぶ集会を開いた。——誰も立候補しなかった」
「……誰も」
「正確には、立候補しようとした者がいた。フリッツだ。だが、別の住民に止められた。『目立つな。目をつけられる』と」
誠は——考えた。
この人たちにとって、「代表になる」ということは——責任を負うことではなく、標的になることだった。前の領主の下では、目立った人間は消えた。声を上げた人間は連れていかれた。——自治組織は、仕組みとしては正しい。でも、この土地の記憶が、仕組みを拒んでいる。
「……仕組みの前に、安全の保証が必要だ」
「安全の保証?」
「代表になっても、罰せられない。代表になっても、連れていかれない。——それを、明文化する」
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誠は——一枚の紙を書いた。
「エーベルバッハ自治憲章。——第一条。本憲章に基づき選出された代表者は、その職務の遂行において、いかなる者からも報復を受けない」
クラウスが——読んだ。
「……第一条が、報復禁止か」
「はい。——普通なら、目的や権限から書く。でも、ここでは違う。この人たちが最初に必要としているのは、目的の説明じゃない。安全の約束です」
「約束を信じてもらえるか」
「約束じゃない。——仕組みです。報復があった場合の通報手段と、対応手順を定める。約束は破れる。仕組みは、破りにくい」
エリーゼが——横から言った。
「報復があった場合の対応は、私がやる」
「エリーゼさん?」
「元騎士だ。——肩書きはないが、剣はある。住民の安全を守る。それが、私がここにいる理由だ」
「……ありがとうございます」
「礼はいらない。——仕事だ」
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自治憲章を広場に掲示した。
住民が——集まってきた。読める者が、声に出して読んだ。
「……報復の禁止。通報制度。対応手順。——こんなものが、本当に機能するのか」
声が上がった。
「機能させます。——でも、機能するかどうかは、使ってみなければわからない。使ってみて、問題があれば直す。直すために——修正手続きも定めました。第七条。本憲章は、住民の三分の二の賛成で修正できる」
「住民が——法を変えられるのか」
「自分たちのルールを、自分たちで変えられる。——それが自治です」
ざわめき。
老人が——また、前に出た。
「……あんた、前に言ったな。信じなくていい、と」
「はい」
「信じない。——だが、試す。やってみて、駄目なら辞める。それでいいか」
「それで十分です」
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代表者の選出が——行われた。
立候補したのは、三人。
フリッツ。——二十歳。井戸掘りを最初に手伝った若者。
メルダ。——四十代の女性。集落で唯一の産婆。住民の健康を一手に引き受けていた。
ゲオルク。——五十代の男。元木こり。林業の知識を持っている。
投票は——全住民による挙手。
結果。フリッツが代表に選ばれた。——賛成百二十三。反対四十一。棄権が残り。
「フリッツ。——代表だ」
「……俺が」
「君が選ばれた。——やれるか」
フリッツは——少し、黙った。
「……やる。——姉ちゃんに、恥ずかしくないようにやる」
メルダとゲオルクは、副代表として参加することになった。
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自治が始まった。
最初の一週間は——混乱だった。
「誰が畑の割り当てを決めるんだ」
「フリッツだろ。代表なんだから」
「フリッツは若すぎる。何も知らない」
「じゃあお前がやれよ」
「俺は立候補しなかったんだから関係ない」
住民同士の言い争い。——毎日、広場で声が飛び交った。
フリッツが——誠のところに来た。
「……是永さん。——みんな、俺の言うことを聞いてくれない」
「聞かなくて当然です」
「……当然?」
「フリッツ。——リーダーの仕事は、命令することじゃない。情報を集めて、全員に共有して、全員で決めることです」
「全員で決める? ——でも、意見がバラバラで——」
「バラバラでいい。意見が揃わないのが普通です。——大事なのは、決め方を決めること。何を、どうやって決めるか。そのルールを、みんなで作る」
「ルールを——みんなで」
「そう。——僕が作るんじゃない。君が作るんじゃない。住民全員で作る。時間はかかる。でも、自分たちで作ったルールは、押しつけられたルールより守られる」
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住民集会が開かれた。——週に一度、広場で。
最初の議題は——畑の割り当て。
二十人以上が意見を言った。怒鳴る者もいた。泣く者もいた。——三時間かかった。
結論は——出なかった。
「……駄目だ。まとまらない」
フリッツが、疲れた顔で言った。
「まとまらなくて正常です」
誠が言った。
「正常?」
「今まで、この人たちは意見を言ったことがなかった。意見を言う場所がなかった。——堰を切ったように言葉が溢れるのは、当然です。最初は出し切らせる。出し切った後に、整理する」
「整理?」
「クラウス」
「ここだ」
クラウスが——大きな紙を広げた。
「全員の意見を書き出す。分類する。共通点を見つける。——帳簿と同じだ。入りと出を整理すれば、全体が見える」
二回目の集会。——全員の意見が、紙に書き出された。壁に貼られた。
住民が——自分の意見が紙に書かれているのを、じっと見ていた。
「……俺の言ったことが、書いてある」
「当然です。——全員の意見を記録します。記録しないものは、なかったことにされる。記録するから、存在する」
三回目の集会。——意見が整理され、選択肢が三つに絞られた。
四回目の集会。——投票。
畑の割り当てが決まった。——完璧ではない。全員が満足しているわけではない。でも、全員が手続きに参加した。
「…………」
老人が——畑の割り当て表を見ていた。
「……こんなこと——初めてだ」
「何がですか」
「自分たちで——決めたのが」
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三週目。
問題が起きた。
マリーナが、険しい顔で誠のところに来た。
「物資が届かない」
「届かない?」
「手配した種子と農具。——街道の関所で止められている。理由は『検問強化による一時的な遅延』。——嘘よ。エーベルバッハ向けだけ止めてる」
「ルンゲか」
「間違いない。——直接の命令は出していないでしょうけど。関所の役人に圧力をかけた。周辺の領主にも。ベッカー領もヘルマン領も、うちとの取引を断ってきた」
「……兵糧攻めだ」
「ええ。——物が入らなければ、再建はできない。三ヶ月の期限は減っていく。ルンゲは何もしていないように見えて、環境ごと殺しにきてる」
外で、子供の泣き声がした。——メルダが、誰かの子供をあやしている。「お腹すいたの、わかってる。もう少しだけ待って」。種子が届かなければ、冬の蓄えが間に合わない。数字の問題ではない。——腹を空かせた子供の問題だ。
誠は——考えた。
王はルンゲの直接介入を禁じた。だが、間接的な妨害は禁じていない。ルンゲは、王命の文言を厳密に守りながら、実質的に破っている。——コンプライアンスの抜け穴。前の世界でも、何度も見た手口だった。
「対抗手段は?」
「二つ。——一つは、別の流通ルートを探すこと。関所を通らない山道がある。商人ギルドの中に、辺境取引の経験がある者がいる」
「もう一つは?」
「王に報告すること。——メルツ伯に月次報告を出す約束だった。報告の中に、物資遅延の事実を含める。間接的な妨害を、記録として残す」
「両方やる」
「両方? ——山道は危険よ。盗賊が出る可能性もある」
「エリーゼ」
「聞いていた。——護衛は引き受ける」
「一人で?」
「私についてきた騎士が五人いる。——使える」
マリーナが——誠を見た。
「……あんた、本当に全部使い切るわね。手持ちの札を」
「使わない札に意味はない」
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山道の物資輸送が——始まった。
エリーゼと元騎士五人が護衛し、マリーナが手配した商人が荷を運んだ。——関所を迂回するルート。時間はかかるが、物は届く。
同時に、誠は月次報告書を書いた。
「エーベルバッハ再建報告・第一月。——井戸の新設。自治組織の設立。畑の再開。住民投票による代表者選出。税率の引き下げ。——なお、街道関所における物資の遅延が発生しており、原因を調査中」
クラウスが——報告書を読んだ。
「……『原因を調査中』。——ルンゲの名前は出さないのか」
「出さない。——事実だけを書く。名前を出せば、告発になる。告発は証拠が揃ってからやる。今は、記録を積み上げる段階です」
「コンプライアンス的に正しいやり方か」
「はい。——感情で動かない。事実で動く」
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四週目。
自治組織が——少しずつ、形になり始めた。
フリッツが週次の報告会を開くようになった。——何をしたか。何に使ったか。次に何をするか。全て、住民の前で報告する。
「今週は——井戸の修繕に銅貨三十枚。畑の整地に延べ四十人日。収穫予定は——」
「フリッツ。銅貨三十枚は高すぎないか」
「石材の調達に二十枚、工賃に十枚です。——内訳はここに書いてあります」
フリッツが——紙を見せた。帳簿。クラウスが教えた方法で、全ての収支が記録されていた。
「……ほう」
住民が、帳簿を覗き込んだ。
中には読めない者もいた。——ルカが、その横で声に出して読んだ。
「えっと——石材、二十枚。運搬費、五枚。工賃、五枚。合計三十枚。——うん、合ってるよ」
ルカが——子供たちに向かって言った。
「ね。こうやって、全部見えるようにするの。見えないお金は、怖いお金。見えるお金は、みんなのお金」
子供たちが——頷いた。
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変化は——数字にも表れ始めた。
クラウスが、第一月の集計を出した。
「住民の参加率。——初回集会は三十パーセント。先週は六十八パーセント。倍以上に増えている」
「畑の作付面積は?」
「着任時の三倍。——まだ全体の二割だが、冬までに最低限の収穫は見込める」
「税収は」
「まだ収穫前だから、実数はない。だが——住民の自主的な拠出金が始まっている。自治組織の運営費として、各家庭が月に銅貨二枚ずつ出し始めた」
「自主的に?」
「フリッツが呼びかけた。——強制ではない。出せる人が出す。出せない人は出さなくていい。——それで、今月は銅貨四百十二枚集まった」
「四百十二枚……」
「去年の月間税収が銀貨十二枚。——銅貨四百十二枚は、銀貨四枚強。自主拠出で、旧税収の三分の一を超えている」
誠は——少し、息を吐いた。
「……動いている」
「動いている。——だが、これは最初の波だ。問題はこれからだ」
「わかっています。——あと二ヶ月。まだ、何も証明できていない」
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夜。
フリッツが——誠のところに来た。
「是永さん」
「どうした」
「……移送記録の話。——クラウスさんから聞いた。記録の中に——姉ちゃんの名前があったって」
「…………」
「カタリーナ——」
フリッツの声が、途切れた。名前の続きが、出てこなかった。唇を噛んで、もう一度。
「カタリーナ・ベッカー。——俺の姉ちゃんだ」
フリッツの目が——赤かった。
「……知ってた? 俺が手伝いに来た時から」
「いや。——記録を見て、気づいた」
「姉ちゃんは——今、どこにいるの」
「わかりません。——でも、必ず調べます」
「…………」
「フリッツ。——法を変える。移送の権限を制限する法を。そして、過去の移送について記録の開示を求める。——カタリーナさんがどこにいるか、明らかにする」
「……本当に?」
「約束します。——でも、今はまだ三ヶ月の試験期間を乗り越えなければならない。この領地の再建が成功しなければ、法を変える機会すら——」
「わかってる」
フリッツが——拳を握った。
「わかってる。——だから、俺はやる。この村を立て直す。代表としてやる。それが——姉ちゃんを取り戻すための、最初の一歩なら」
「…………」
「是永さん。——俺、初めて思った。自分がやってることに、意味があるって」
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同じ夜。
ルンゲの屋敷。
「エーベルバッハの報告が上がっています」
「内容は」
「井戸の新設。自治組織の設立。畑の再開。——予想以上に動いています」
「…………」
「物資の遮断も——山道経由で迂回されているようです。元騎士が護衛についている、と」
「エリーゼか。——しぶとい女だ」
「いかがいたしますか」
ルンゲが——立ち上がった。
「管轄権を行使する」
「管轄権?」
「エーベルバッハは——まだ、法的には私の管轄だ。王は是永に再建を任せたが、管轄権の移転は行っていない。——つまり、私には法的根拠がある」
「王命と矛盾しませんか」
「矛盾しない。——王は『是永に任せる』と言った。だが、『ルンゲの管轄権を剥奪する』とは言っていない。任せることと、管轄権を移すことは、別だ」
「…………」
「法の抜け穴は——是永だけの武器ではない」
ルンゲが——微笑んだ。
「是永。——お前は制度で戦う。ならば、制度で潰す」
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