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第32話「国王の前で」

───


 王宮。


 誠が最初に感じたのは——匂いだった。石と蝋と、古い布の匂い。何百年もの権力が染み込んだ匂い。


 クラウスが横を歩いている。エリーゼが後ろを歩いている。マリーナとルカは、王宮の外で待っている。——謁見に同席できるのは、貴族と、王に呼ばれた者だけだ。


「右足から」


 エリーゼが、小さく言った。


 誠は——右足から、謁見の間に入った。


───


 謁見の間は——広かった。


 天井が高い。壁には肖像画が並んでいる。歴代の王。——全員が、同じような無表情で、同じような方向を見ている。


 正面に——玉座があった。


 そして——玉座に、人が座っていた。


 アルブレヒト三世。


 五十二歳。——思ったより、小さかった。痩せてはいないが、太ってもいない。髭は整えられている。目は——鋭くはないが、死んでもいない。退屈した知性の目。見えているのに、見ようとしていない目。


 王の右手には——メルツ伯が立っていた。


 王の左手には——ルンゲがいた。


 ルンゲが——誠を見た。微笑んでいた。完璧な、余裕のある微笑み。


「——クラウス・フォン・アーレンベルク子爵。および、是永誠」


 宮廷官が名前を呼んだ。


 誠は——視線を床に落としたまま、立った。


 王が——最初の言葉を発した。


「座れ」


 短い。——声も、思ったより普通だった。威厳があるわけではない。不機嫌でもない。ただの——指示。


 誠とクラウスが、用意された椅子に座った。ルンゲはすでに着席していた。


「ルンゲ伯から上奏があった。——是永という男が、王権を脅かす活動をしている、と。是永。お前の言い分を聞く」


 誠は——立ち上がった。


───


「陛下。——僕は、是永誠と申します。異界から来た者です。この世界に来る前は、企業の法令遵守を担当していました」


「法令遵守。——ルンゲ伯の報告では、お前は法を変えようとしているそうだが」


「はい。——法の中に、機能していない部分があります。それを正規の手続きで改正しようとしています」


「機能していない、とは」


「三つあります。——契約。透明性。責任。この三つの仕組みが不十分であるために、不正が構造的に発生しています」


「具体的に」


 誠は——用意してきた資料を広げた。クラウスが記録した、百七十三件の不正事例。マリーナが集めた市場データ。エリーゼが報告した騎士団の現場情報。


「まず、契約について。——この世界の労働契約には、最低限の条件が定められていません。その結果、実質的な奴隷契約が合法的に成立しています。僕たちは、契約の最低基準を法制化しました。ハルトマン工房。ヴォルフ商会。——導入後、労働者の離職率は四割下がり、生産性は二割上がっています」


「ルンゲ伯」


 王が、ルンゲに目を向けた。


「事実か」


「数字自体は——確認していませんが、二つの事業所の話です。全体に当てはまるかどうかは別問題です」


「次に、透明性について。——商取引における情報開示が不十分です。その結果、価格操作と品質偽装が横行しています。僕たちは、商人ギルドに業務報告書の制度を導入しました。導入後、取引紛争は三割減少しています」


「ルンゲ伯」


「商人ギルドの内部改革は、ギルドの自治の範囲です。——問題は、是永がその成果を根拠に、国法の改正を求めていることです。ギルドの中の話と、国の法律は別です」


「三つ目。——責任について。権力を行使する者が、その結果に対して責任を負う仕組みがありません。領主が領民を搾取しても、報告義務がない。監査の仕組みがない。——結果として、不正が発覚しない。発覚しなければ、是正されない」


「…………」


 王が——初めて、黙った。


───


 ルンゲが——立ち上がった。


「陛下。——是永殿の主張は、理想としては美しい。しかし、現実の統治には向きません」


「なぜ」


「三つの理由があります。——第一に、秩序の問題。是永殿の改革は、既存の秩序を壊す。契約の自由を制限し、取引に報告義務を課し、貴族に監査を受けさせる。——これは、統治の基盤を揺るがします」


「第二に?」


「能力の問題。——是永殿は、市民に情報を公開し、市民に判断させようとしている。しかし、市民にその判断力があるか。読み書きのできない者に法典を渡して、何が変わるのか」


「第三に?」


「前例の問題。——是永殿のやり方を認めれば、誰でも法律を変えようとし始める。今日は是永殿。明日は別の余所者。統治は一貫性を失い、王の権威は相対化される。——陛下。法を変える権限は、陛下にあります。平民の提案で法が変わる前例を作れば、その権限そのものが問われることになる」


 ルンゲの声は——穏やかで、論理的で、完璧だった。


 誠は——それを聞きながら、思った。


 この人は、正しいことを言っている。


 ——部分的には。


───


「ルンゲ伯の主張に、一つずつ答えます」


 誠が立った。


「第一の点。秩序について。——契約の最低基準は、秩序を壊すものではありません。むしろ、秩序を作るものです。最低基準がない世界では、強者が好き勝手に条件を決められる。それは秩序ではなく、力の支配です。秩序とは、全員が同じルールの中にいることです」


「第二の点。市民の判断力について。——ルンゲ伯は、市民に判断力がないと言う。しかし、市民は毎日判断しています。何を買うか。誰と取引するか。誰を信じるか。——判断力がないのではない。判断するための情報がないのです。情報があれば、市民は判断できる。——判断させないために情報を隠しているのだとすれば、それは統治ではなく支配です」


「第三の点。前例について。——僕は平民です。法を変える権限は僕にはない。僕がしたのは、法案を起草し、貴族議会に提出してもらうことです。議会が議決し、王が承認する。——全て、既存の手続きの中です。前例を恐れるのは、手続きを恐れることです。手続きに則った改革を恐れるなら、手続きそのものに意味がないということになる」


「…………」


 ルンゲが——ほんの一瞬、表情を変えた。すぐに戻した。


「是永殿。——言葉が上手いのは認める。だが、言葉と現実は違う。お前の改革で、実際に何が起きた? 集会。騒擾。議会への圧力。騎士の離反。——お前が来てから、この国は不安定になった」


「不安定になったのは、不正が可視化されたからです。——不正が見えなかった頃は安定していた。でもそれは、問題がなかったのではなく、問題が見えなかっただけです。見えない安定は——偽りの安定です」


───


 王が——口を開いた。


「是永」


「はい」


「お前は——王にも責任を取れと言うのか」


 謁見の間が——静まった。


 ルンゲが、メルツ伯が、クラウスが——誠を見た。


 エリーゼの言葉が、頭の中で響いた。——誠実の空気を作れ。嘘のない人間の空気を。


 誠は——深呼吸した。


「はい」


 一言。


 王の目が——動いた。


「…………続けろ」


「陛下は——この国の最高権力者です。ルンゲ伯の布告は、全て陛下の名前で出されています。集会禁止令。法典非公開令。——陛下がそれを命じたのか、それとも知らないうちにそうなったのか。僕にはわかりません」


「…………」


「もし命じたのであれば——その結果について、陛下が責任を負われるべきです。もし知らなかったのであれば——知らないまま名前を使われていることが、問題です」


「余の名前が——使われている、と?」


 王の声が——少し、変わった。


 ルンゲが——立ち上がりかけた。


「陛下、是永は——」


「座れ、ルンゲ」


 王が言った。——初めて、声に力があった。


「続けろ、是永」


「陛下。——僕の前の世界には、『内部統制』という仕組みがありました。組織のトップが、現場で何が起きているかを把握するための仕組みです。報告制度。監査。情報公開。——これらがなければ、トップは現場を知ることができない。知ることができなければ、正しい判断ができない。正しい判断ができなければ——トップの存在意義がない」


「余の存在意義がない、と言うか」


「今はない、と申し上げています。——しかし、仕組みを作れば、生まれます」


「…………」


 王が——誠を、見ていた。


 退屈した知性の目では、もうなかった。——何かを、考えている目だった。


「陛下」


 ルンゲが言った。


「是永の論は、巧みですが——本質は王権の制限です。責任を定義するということは、権限を制限するということです。——王は何者にも制限されない。それが王権です」


「ルンゲ伯。——責任の定義は、制限ではありません」


 誠が言った。


「制限ではないなら、何だ」


「意味です。——権力に責任がなければ、権力はただの力です。力は、誰でも持てる。剣があれば。兵がいれば。金があれば。——でも、責任を伴う力だけが、権力と呼ばれる。責任がない力は——暴力と区別がつかない」


 ルンゲの顔が——強張った。


「是永。それは——」


「僕は、陛下の権力を暴力だとは思っていません。——でも、責任の仕組みがなければ、そう思う人間がいずれ現れる。その時には——もう、言葉では解決できなくなる」


───


 長い沈黙。


 王が——椅子の肘掛けを、指で叩いていた。規則的に。——考えている時の癖なのかもしれない。


 誰も口を開かなかった。指の音だけが、謁見の間に響いていた。——十回。二十回。誠は数えていた。数えることしかできなかった。


 やがて——指が、止まった。


「是永」


「はい」


「お前は——面白いことを言う」


「……ありがとうございます」


「面白いが——言葉だけだ」


「…………」


「ルンゲ伯。お前は三代にわたって王室に仕えてきた。実績がある。信頼がある。——是永。お前にはない。お前にあるのは、言葉だけだ」


 誠の心臓が——冷えた。


 ——これは、負けるのか。


「だから——」


 王が、立ち上がった。


「一つ、試させてもらう」


「……試す?」


「辺境に——エーベルバッハという領地がある。ルンゲ伯の管轄だ。——かつては豊かだったが、今は荒れている。住民は減り、税収は落ち、統治が機能していない」


 ルンゲの顔が——一瞬、変わった。


「陛下——」


「是永。お前のやり方で、あの領地を立て直してみろ。契約。透明性。責任。——お前の言う仕組みが本物なら、結果が出るはずだ」


「期間は」


「三ヶ月。——三ヶ月で目に見える成果を出せ。出せたら、法改正案を再審議にかける。出せなかったら——お前の活動停止命令に署名する」


「…………」


「ルンゲ伯。——異論は」


 ルンゲが——微笑んだ。


「ございません。——陛下のご英断に従います」


 その微笑みの下に何があるか、誠には見えた。——安堵だった。エーベルバッハがどんな状態かを、ルンゲは知っている。三ヶ月で立て直すことが不可能に近いことを、知っている。


「是永。——受けるか」


 誠は——ルンゲを見た。ルンゲの微笑みを見た。


 そして——クラウスを見た。クラウスは、微かに頷いた。


「受けます」


 王が——初めて、笑った。


「面白い。——では、明日から動け。エーベルバッハの現状報告は、メルツ伯に月次で提出させる。——メルツ」


「承知いたしました」


「それから——ルンゲ伯。エーベルバッハへの介入は禁じる。是永に任せる以上、お前が横から手を出しては試験にならん」


「……承知いたしました」


 ルンゲの微笑みが——ほんの一瞬、固まった。


───


 謁見の間を出た。


 回廊を歩く。石の床に、靴の音が響く。


「是永」


 クラウスが言った。


「……やるのか」


「やります」


「エーベルバッハは——知っている。私の父が記録を残していた。五年前まではそこそこの領地だった。それが——」


「ルンゲの管轄になってから」


「急速に衰退した。——搾取だ。税を限界まで上げ、住民が逃げ、残った者からさらに搾り取る。悪循環だ」


「……つまり、ルンゲが壊した領地を、ルンゲの前で立て直せ、と」


「そういうことだ。——王は、これが試験だと言った。だが同時に——ルンゲへの牽制でもある。エーベルバッハの荒廃は、ルンゲの管轄下で起きた。王はそれを知っている」


「知っていて、放置していた」


「ああ。——だが今日、知っていて放置したことを、他人の前で口にした。それは——」


「責任の第一歩ですか」


「……そうかもしれない」


───


 王宮の外。


 ルカが走ってきた。


「おっさん!——どうだった?」


「死刑にはならなかった」


「死刑!? そんな可能性あったの!?」


「冗談です」


「冗談に聞こえなかったんだけど!」


 マリーナが、腕を組んで立っていた。


「……で?」


「三ヶ月の試験期間をもらった。——エーベルバッハという辺境の領地を立て直す」


「エーベルバッハ。——知ってるわ。商人ギルドの取引リストから外された土地よ。取引相手がいないから。住民が減りすぎて、商売にならない」


「どのくらい減っている?」


「五年前は三千人。——今は、たぶん三百人もいない。去年の冬で井戸が二つ枯れたって聞いた。次の冬を越せるかどうかも怪しい」


「…………」


「三ヶ月で立て直すの? ——無理じゃない?」


「無理かもしれない。——でも、王の前で受けた」


 マリーナが——誠を見た。


「……あんた、本当に——」


「何ですか」


「何でもない。——で、何が必要?」


「まず、現地の調査。住民の数、状況、インフラ、残っている資源。——全部把握してからでないと、計画が立てられない」


「物資の手配は私がやる。——ただし、タダじゃないわよ。投資として出す。成果が出たら回収する」


「コンプライアンス的に問題ない範囲で」


「……あんた、本当にブレないわね」


 エリーゼが——空を見上げた。


「三ヶ月か。——短い」


「短い。——でも、やるしかない」


「やるしかないか。——なら、やる」


 ルカが——誠の袖を引いた。


「おっさん」


「何?」


「王様——怖かった?」


「…………少し」


「少しだけ?」


「かなり」


「でも——ちゃんと言えた? 責任の話」


「言えた。——王に、『あなたにも責任がある』と」


「…………すごいね、おっさん」


「すごくないです。——震えてた」


「震えてても言えたなら、すごいよ」


 ルカが——笑った。


 誠は——その笑顔を見て、思った。


 この子のために。この街のために。あの領地の人たちのために。——仕組みを作る。言葉だけではなく、結果で示す。


 三ヶ月。


 ——やるしかない。


───


 同じ頃。


 ルンゲの馬車の中。


「エーベルバッハを——任せるおつもりですか」


 部下が聞いた。


「任せる? ——任せるように見せるだけだ」


「しかし、陛下は介入を禁じると——」


「直接の介入は禁じた。——直接の、な」


 ルンゲが——窓の外を見た。


「エーベルバッハは、すでに死んでいる土地だ。三ヶ月で生き返らせることはできない。——だが、万が一ということもある。是永は——予想外のことをする男だ」


「では」


「間接的に——環境を整える。物資の流通を絞る。周辺領地との連携を阻む。——是永自身には触れない。触れなくても、土地が死んでいれば、結果は出ない」


「承知いたしました」


「三ヶ月後。——是永は結果を出せず、活動停止命令が下る。全て、王命の通りに。王が決め、王が裁く。——私は、何もしていない」


 ルンゲが——微笑んだ。


「王の試験に、不合格の答案を用意する。——それだけのことだ」


───


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