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第24話「法の前に立つ」

───


 マリーナの商会の焼け跡は、三日経っても片付かなかった。


 黒く焦げた壁が残り、煤の匂いが通りに漂っている。近くの商人たちが手伝って瓦礫を運び出してはいるが、十五年分の営みを消し去った跡を元に戻すことはできない。


 マリーナは、臨時オフィスに移っていた。知り合いの商人が空き部屋を貸してくれた。——「あんたが焼かれたんだ。恩は返す」と。


 帳簿の写しは無事だった。ルカが持ち歩いていた分が。それを元に、業務は再開できる。


 だが——帳簿は守れても、信用を完全に取り戻したわけではなかった。


 第二回決算報告会で改ざんの手口は暴いた。市民の信頼は回復しつつある。——しかし、ルンゲ本人には、まだ何一つ届いていない。


「……法を変える」


 誠は、その言葉を——もう何十回も、頭の中で繰り返していた。


───


「エリーゼさん。——この世界の法律を見せてもらえますか」


「法律?」


「この国の法体系。法典。条文。——何でもいいです。貴族の権利と義務。裁判の仕組み。商取引に関する規制。全体像を知りたい」


 エリーゼが、考え込んだ。


「王国法典なら、騎士団の文書庫に所蔵がある。——ただし、閲覧には資格が要る。騎士か、貴族か、王宮の官吏か」


「市民は読めないんですか」


「読めない。——法は、市民に知らされるものではない。貴族が定め、騎士が執行し、市民は従う。それが、この国の仕組みだ」


「…………」


「法を知る権利が、市民にはない」


 誠は——苦笑した。苦笑するしかなかった。


「前の世界にも、似た時代がありました。法は支配者の道具で、民衆は法を知らされず、ただ罰せられる。——法を公開すること自体が、革命だった時代が」


「革命か。——物騒な言葉だな」


「制度の革命です。血は流さない。——少なくとも、流すつもりはない」


───


 エリーゼが、騎士団の文書庫から王国法典を持ち出してきた。


 正確には——写しを書き写してきた。持ち出し禁止なので、三日かけて全文を書き写した。


「……三日もかけて。エリーゼさん——」


「私も読みたかったのだ。——騎士として法を執行してきたが、法典の全文を読んだことは、実はなかった」


「読まずに執行していた?」


「恥ずかしながら。——騎士に求められるのは、命令に従うことだ。法を理解することではない」


「…………」


 誠は、書き写された法典を読み始めた。


 マリーナとルカも一緒に。四人で、臨時オフィスのテーブルを囲んで。


 読み進めるにつれ——誠の顔色が、変わっていった。


「…………」


「どうしたの。顔色悪いわよ」


「マリーナさん。——これを読んでください」


 誠が指した条文。


 第四十二条。「貴族は、裁判において証言を拒否する権利を有する」。


「…………」


 第七十一条。「貴族の財産は、王命なき限り開示義務を負わない」。


「…………」


 第八十九条。「貴族に対する告発は、同等以上の地位を有する者の承認を要する」。


 沈黙。


 誠は——条文を、もう一度読み返した。そして、気づいた。これは「法がない」のではない。——法はある。丁寧に、精密に、整えられている。ただし——不正を可能にするために。抜け道ではなく、正門として。


「……同等以上の地位を有する者の承認?」


 マリーナが、声を上げた。


「ルンゲを告発するには——ルンゲと同じか、それ以上の貴族の承認が必要ってこと?」


「はい。つまり——市民が貴族を告発することは、法的に不可能です。別の貴族に頼んで、代わりに告発してもらうしかない」


「でも——ルンゲに逆らえる貴族なんて——」


「いない。少なくとも、今のところは」


 エリーゼが、静かに法典を見つめていた。


「……これが」


「エリーゼさん?」


「これが——私が守ってきた秩序の正体、か」


 エリーゼの声は、平坦だった。——だが、その平坦さの裏に、何か巨大なものが軋んでいた。


「騎士として。法を守り、秩序を維持してきた。——でも、その法が。その秩序が。最初から——一部の人間だけを守るように設計されていたのなら」


「エリーゼさん——」


「いや。わかっていたのかもしれない。——見ないふりをしていただけだ」


 エリーゼが、法典を閉じた。


「是永。——法を変えると言ったな。具体的に、何をどう変える」


───


 誠は、羊皮紙を広げた。


「三つの柱です」


「一つ目。法の前の平等。——貴族も市民も、同じ法律の下に置く。貴族の証言拒否権を廃止する。財産の開示義務を全市民に適用する。告発に身分制限を設けない」


「……それは。貴族の特権を全て剥奪するということか」


「全てではない。——ただ、法の前では平等にする。貴族が持つ政治的権限や領地の管理権は、そのまま。でも、不正を犯した時に裁かれる仕組みは、全員同じにする」


「二つ目は?」


「独立した司法機関の設置。——今は騎士団が法の執行も裁判も担当しています。でも、騎士団はルンゲの影響下にある。法を執行する機関が、権力者に従属していたら、法は機能しない」


「つまり——騎士団から裁判権を分離すると」


「はい。裁判を行う機関を、騎士団とは別に作る。裁判官は——市民と貴族の双方から選出する」


「三つ目」


「情報公開の法制化。——決算報告会は、今は僕たちの自主的な取り組みです。法律で義務化されていない。だから、やめようと思えばやめられる。——情報公開を法律で義務化する。ギルドだけでなく、領地の会計も、王宮の支出も」


「王宮の支出まで?」


「最終的には。——ただ、一気にそこまで行くのは無理です。まずは、ギルドと領地の会計公開から始めて、段階的に広げる」


 マリーナが、ため息をついた。


「……あんた。それ、全部合わせたら——この国の仕組みを根本から変えることになるわよ」


「そうです」


「あんた一人でできると思ってるの?」


「一人ではできません。——だから、味方が必要です」


───


「味方、か。——この国で法を変えられるのは、誰だ」


 エリーゼが聞いた。


「王と、貴族議会です。——法の制定と改正は、貴族議会の議決と王の承認で行われる。市民には立法権がない」


「つまり——貴族を味方につけないと、法は変えられない」


「はい。ルンゲと敵対する貴族。あるいは、現状に疑問を持っている貴族。——いるはずです」


 エリーゼが、少し考えた。


「……一人、心当たりがある」


「誰ですか」


「クラウス・フォン・アーレンベルク。子爵。——若い貴族だ。二十七歳。騎士団にいた頃、何度か話したことがある」


「どんな人ですか」


「理想主義者。——貴族の義務を真剣に考えている。『ノブレス・オブリージュ』を口にする、この国では珍しい貴族だ。周囲からは変わり者扱いされている」


「ルンゲとの関係は?」


「ない。——むしろ、ルンゲを嫌っている。クラウスの実家はルンゲの領地の隣で、ルンゲの影響で領民が苦しんでいるのを見ている」


「会えますか」


「……会える。ただし、条件がある」


「何ですか」


「クラウスは理想主義者だが、馬鹿じゃない。利用されることを嫌う。——会うなら、こちらの手の内を全て見せる必要がある。何を目指していて、何が足りないか。包み隠さず」


「透明性ですね。——僕たちの得意分野です」


───


 ルカが、ずっと黙って聞いていた。


 法典の写しを膝に乗せて、時々ページをめくっている。


「……おっさん」


「はい」


「法を変えるって——ルンゲみたいな人と同じ土俵に立つってことだよね」


「…………」


「今まではギルドの中で戦ってた。帳簿とか、監査とか、選挙とか。——でも、法を変えるって、貴族の世界に入るってことでしょ。あたしたちが一番不利な場所に」


「そうです。——不利な場所です」


「怖くないの?」


「怖いです。——でも、不利な場所で戦わない限り、ルンゲには届かない。ギルドの中だけで制度を作り続けても、ルンゲは法の外にいる。法を変えなければ——同じことが繰り返される」


「…………」


「ルカ。同じ土俵に立つことと、同じやり方をすることは違います。——ルンゲは権力で法を支配している。僕たちは、仕組みで法を変える。同じ場所で戦うけど、武器が違う」


「武器?」


「帳簿。監査。選挙。情報公開。——全部、ここまでで作ってきた道具です。この道具を持って、貴族議会という戦場に入る。——丸腰じゃありません」


 ルカが——少し、笑った。


「……おっさんの武器、全部紙だけどね」


「紙が最強なんです。——何度も言ってるでしょう」


「言ってるね。——じゃあ、あたしも行くよ。おっさんの紙を守るのが、あたしの仕事だから」


───


 マリーナが、焼け跡の前に立っていた。


 もう煙は出ていない。黒い壁だけが残っている。通りを歩く市民が、時々足を止めて見ている。


 誠が、横に立った。


「マリーナさん。——店、再建しましょう」


「再建? ——今? 法改正の方が先じゃないの」


「先です。でも——店がないと、商人ギルドの拠点がない。拠点がないと、制度を動かせない。法改正を進めるにも、ギルドの組織力が必要です」


「……相変わらず、理屈から入るのね」


「理屈が大事なんです」


「知ってるわよ」


 マリーナが、焼け跡を見た。


「……ねえ、是永。次は、何を変えるの?」


「法です。——法そのものを」


「法を変えたら——この焼け跡みたいなことは、なくなる?」


「なくなるとは言い切れません。——でも、焼いた人間を裁けるようになる。今は裁けない。法が、裁くことを許していないから」


「…………」


「マリーナさん。約束します。——この焼け跡の意味を、無駄にしない」


 マリーナは——黙って、誠を見た。


 それから、焼け跡の壁に手を置いた。煤で手が黒くなった。


「……やるわよ。——やるに決まってるじゃない」


───


 同じ日の夜。


 王都の王宮。


 ルンゲ伯爵が——国王に謁見していた。


「陛下。最近の市井の混乱、お耳に入れておかねばなりません」


「混乱? ルンゲよ、何のことだ」


「商人ギルドの女ギルドマスターが、市民を扇動して貴族の財産を暴こうとしております。帳簿を公開する、監査をする、選挙をする——耳触りのよい言葉を並べておりますが、実態は——秩序の破壊です」


「秩序の破壊とは穏やかではないな」


「はい。彼女の背後に、異界から来たと称する男がおりまして。是永誠と名乗る者です。——この男が、奇妙な仕組みを次々に持ち込み、ギルドの秩序を乱しております」


「異界の男?」


「はい。この男は最近、王国法典に興味を示し始めたとの報告があります。——法を変えようとしている可能性があります」


「法を? 一介の平民が?」


「一介の平民が、です。——陛下。この混乱の拡大を防ぐため、私に対処をお任せいただけませんか」


 国王は——しばらく考えた。その目は、ルンゲを見ているようで、どこか遠くを見ていた。全てを理解した上で見逃しているのか。あるいは、理解することを最初から放棄しているのか。——その区別は、ルンゲにすらつかなかった。


「……ルンゲ。お前にはお前の利害があるのだろう。——だが、秩序の維持は王の責務だ。対処は任せる。ただし——やりすぎるな」


「もちろんでございます。——節度を持って、対処いたします」


 ルンゲは深々と頭を下げた。


 頭を上げた時——その唇は、微かに笑っていた。


「王の名で動ける。——これで、是永の仕組みとやらも、『秩序破壊行為』として取り締まれる。合法的に」


 王宮の回廊を歩くルンゲの足音が、石の床に響いた。


「是永。お前は法を変えようとしている。——だが、法を変える前に、お前自身が法で潰される。私が王の許可を得て。合法的に。——お前の大好きな『合法』で」


───


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