第25話「クラウスの条件」
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クラウス・フォン・アーレンベルクの屋敷は、王都の外れにあった。
貴族街の中心部ではなく、市民街との境目。大きくはないが、手入れの行き届いた石造りの邸宅だった。門の前に、武装した従者もいない。
「……貴族の屋敷にしては、質素ですね」
「クラウスは領地の収入のほとんどを領民の福祉に回している。自分の屋敷に金をかける趣味はない——と本人が言っていた」
エリーゼが先頭に立ち、門を叩いた。
出てきたのは、初老の執事だった。エリーゼの名を告げると、「お待ちしておりました」と——表情を変えずに、中に通された。
応接間。
壁に本棚が並んでいる。法律書、歴史書、農政に関する文書。——誠は、棚の一角に「各領地における徴税制度の比較分析」と題された手書きの冊子を見つけた。
「……この冊子、クラウス卿が書いたものですか」
「そうだ」
声がした。——振り返ると、若い男が立っていた。
二十七歳とエリーゼは言っていた。だが、見た目はもう少し若い。細身で、金色の髪を短く刈り込んでいる。目つきは穏やかだが——どこかに、鋭いものが光っている。
「クラウス・フォン・アーレンベルク。——エリーゼ元騎士殿。久しぶりだな」
「久しぶりだ。……"元"は余計だ」
「事実だろう。——で、この方々が」
「是永誠。異界から来た商人ギルドの顧問。——そして、マリーナ。商人ギルド・ギルドマスター。ルカ。誠の弟子——のようなもの」
「弟子じゃない。助手」
「……まあ、座ってくれ」
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クラウスは——最初の十五分、何も言わなかった。
誠が話した。これまでの経緯を。
商人ギルドの帳簿改革。複式簿記の導入。監査制度。内部通報制度。ギルドマスター選挙。決算報告会。——そして、店の放火。法典を読んで知った、貴族を守るための法体系。
クラウスは、腕を組んだまま聞いていた。表情は変わらない。
誠が話し終えた。
沈黙が、五秒。十秒。
「……面白い」
クラウスが言った。
「面白い、ですか」
「面白い。——異界の人間が、この国の市民に帳簿の付け方を教えて、選挙を導入して、情報公開をやって。放火されても法典を読んで法改正を目指す。——面白い話だ」
「面白い、で終わりですか」
「終わりじゃない。——ただ、一つ聞きたい。是永殿。君は——何がしたいんだ」
「法を変えたい。法の前の平等を——」
「違う」
クラウスが、遮った。
「法の前の平等がしたいんじゃないだろう。——聞いているのは、もっと手前の話だ。君は、なぜそれをやるんだ。異界の人間が。この国に何の義理もない人間が。なぜ」
誠は——少し、黙った。
「……義理はありません」
「だろう」
「でも——目の前で人が不当に扱われているのを見て、見て見ぬふりをするのは、僕にはできない。前の世界でも、できなかった。——それで酷い目に遭いました。それでもできなかった」
「酷い目に遭った?」
「内部告発をして。左遷されて。同僚に見捨てられて。——それでも、告発したことを後悔したことはない」
クラウスの目が、少し変わった。——好奇心ではない。もっと深い何かが、そこにあった。
「……エリーゼ。この男は、嘘をついているか」
「いない。——私が保証する」
「君の保証は信用できるのか」
「私を信用しないなら、この場に来た意味がない」
クラウスが——ふっ、と笑った。
「相変わらずだな、エリーゼ。——わかった。話の続きを聞こう」
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誠は、法改正の三本柱を説明した。
法の前の平等。独立司法。情報公開の法制化。
クラウスは、今度は黙って聞かなかった。——次々と質問を投げてきた。
「独立司法と言うが、裁判官をどう選ぶ。市民から選出すると言ったな——市民に法の知識があるのか」
「ありません。——だから、まず法の教育が必要です。法典を市民に公開し、法を学ぶ機会を作る。裁判官の選出は、その後の話です」
「段階を踏むと」
「はい。一気に全て変えようとすれば、必ず失敗します。——まずは法典の公開と、告発の身分制限撤廃。この二つだけでも変われば、ルンゲを裁く道筋ができる」
「ルンゲを裁く? ——随分と大きく出たな」
「大きく出ているつもりはありません。ルンゲ伯は——放火を指示し、帳簿を改ざんさせ、騎士団に圧力をかけている。証拠もあります。——でも今の法では裁けない。法がそう作られているから」
クラウスが、立ち上がった。
書棚から、一冊の帳面を取り出した。——革の表紙に、びっしりと文字が書き込まれている。
「これは——私がこの五年間で記録した、ルンゲの不正の一覧だ」
「…………」
「領地の徴税超過。農民からの不当な搾取。騎士団への贈賄。商取引での詐欺。——五年で百七十三件。全て、私の領地と隣接する地域で確認した事実だ」
誠は、帳面を受け取った。ページをめくる。——日付、場所、内容、被害者名。全てが丁寧に記録されている。
「……クラウス卿。これは——」
「記録だよ。ただの記録だ。——だが、記録しかできなかった。なぜなら——」
「告発には、同等以上の地位を有する者の承認が要るから」
「そうだ。——私は子爵だ。ルンゲは伯爵。私一人では告発できない。同格の子爵を二人、あるいは伯爵を一人連れてくる必要がある。だが、この国でルンゲに逆らおうとする貴族は——いなかった」
クラウスが、窓の外を見た。
「五年間、記録を続けた。証拠を集め続けた。——でも、使えなかった。法が、使わせなかった」
「……だから、法を変える必要があるんです」
「わかっている。——わかっているから、エリーゼが連絡してきた時、断らなかった」
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クラウスが、椅子に座り直した。——表情が変わった。穏やかさが消え、代わりに、何か冷徹なものが浮かんだ。
「是永殿。ここからが本題だ。——協力してもいい。条件が三つある」
「聞きます」
「一つ目。君たちの活動の全てを、私に開示しろ。帳簿。計画。交渉記録。全てだ。——君たちが透明性を売りにしているなら、まず私に対して透明でいろ」
「……当然です。それは約束します」
「二つ目。法改正案は、私と共同で作成する。君の案はよくできている。——だが、この国の政治を知らない人間が書いた案だ。通すには、貴族議会の力学を理解した修正が必要になる」
「……どういう修正ですか」
「例えば——法の前の平等を一気に打ち出せば、全ての貴族を敵に回す。まず告発の身分制限撤廃だけを提案し、証言拒否権と財産開示は後から段階的に攻める。——政治とは、食べられる大きさに切ることだ」
誠は——少し、笑った。
「……前の世界でも、全く同じことを言われました。ロビイングの基本です」
「ロビイング?」
「利害関係者への根回しと説得のことです。——法を変えるには、法案を作るだけでは足りない。賛成する人間を一人ずつ増やしていく作業が必要です」
「君は——その経験があるのか」
「少しだけ。前の世界で、法規制の改正に関わったことがあります。——もっとも、あちらでは市民にも立法過程への参加権がありましたが」
「羨ましい世界だな。——だが、この世界では、私が立法過程への入り口になる。私が貴族議会に法案を提出し、賛成票を集める。君は——案を作り、根拠を揃え、私を武装させろ」
「武装?」
「数字と論理で。——貴族議会で私が演説する時、反論できない証拠と論理が必要だ。それが、君の仕事だ」
「……わかりました」
「三つ目」
クラウスが——少し、間を置いた。
「これが一番大事だ。——是永殿。もし法改正が実現した後、その新しい法を、自分たちの都合のいいように使おうとする人間が現れたら——仲間の中から、だ。——君は、それを止められるか」
「…………」
「法は、誰の手にあっても法だ。正しい人間が作った法を、次に手にした人間が悪用しないとは限らない。——君は、それをどう防ぐ」
誠は——長い間、黙った。
マリーナが、横目で誠を見ている。ルカが、膝の上で拳を握っている。
「……防ぐ仕組みを、法の中に埋め込みます」
「仕組み?」
「法そのものに、自浄作用を持たせる。——情報公開義務。監査制度。告発制度。任期制限。——権力が一箇所に集中しない構造を、法の設計に組み込む。誰がその法を運用しても、暴走できないように」
「権力を持つ人間が善人である前提に立たない、と」
「はい。——善意に依存しない制度を作る。それが、前の世界で僕が学んだ最も大事なことです」
クラウスは——しばらく、誠を見つめていた。
それから——立ち上がった。
書棚の奥から、もう一冊の帳面を取り出した。今度は、白紙のものだった。
「これは、私の作業帳だ。——今日からここに、法改正案の草稿を書く。是永殿。君は——私の嫌いな種類の人間だ」
「……は?」
「理屈っぽくて、融通が利かなくて、正しいことを正しいと言わずにいられない人間だ。——そういう人間は大抵、政治の世界では真っ先に潰される」
「…………」
「だが——今、この国に必要なのは、そういう人間だ。潰される覚悟があるなら——組もう」
クラウスが——手を差し出した。
誠は、その手を握った。
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屋敷を出た後。
マリーナが、ため息をついた。
「……あの貴族、切れ者ね。——三つ目の条件、あんたを試してたわよ」
「わかっています」
「で、答えは合格だったの?」
「……わかりません。でも——手は握ってくれました」
「握っただけよ。——手を離すかどうかは、これからの話。……でもね、あの手の中の帳面——百七十三件。あれは商人として見ても、ただの記録じゃない。あれは怒りよ。五年分の、使えなかった怒り」
エリーゼが、静かに歩きながら言った。
「クラウスは——本気だ。五年間記録を続けていた。使えない証拠を、それでも集め続けていた。——あの男は、待っていたんだ。使う機会を」
「使う機会?」
「法を変える仲間を」
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翌日から、作業が始まった。
クラウスの屋敷の書斎に、毎日通った。
誠が法改正案の骨格を書き、クラウスが貴族議会の力学に基づいて修正する。
「この条項は削れ。今の段階では通らない」
「でも、財産開示義務は——」
「通らないものは通らない。——二十三人の貴族議員のうち、過半数の十二人が賛成しなければ法案は成立しない。今、確実に賛成するのは私を含めて三人だ。残り九人をどう説得するか——それが全てだ」
「三人ですか。——その三人は?」
「私と。ライナート男爵。高齢だが、古い名門で発言力がある。現状の腐敗を嘆いている。——もう一人は、ヘルダ子爵夫人。女性貴族だ。ルンゲに商取引で被害を受けたことがある」
「残り九人の見込みは?」
「五人は、説得次第。利害で動く貴族だ。ルンゲを恐れているが、風向きが変われば裏切る。——四人は、ルンゲ派。動かない」
マリーナが、口を挟んだ。
「利害で動く五人には——何を見せればいいの」
「数字だ」
クラウスが言った。
「貴族議員の大半は、自分の領地の経営しか興味がない。ルンゲの不正が自分の領地にどう影響しているか——具体的な数字で見せれば、態度が変わる可能性がある」
「……利害関係者マッピング」
誠が——呟いた。
「何だ、それは」
「前の世界で使っていた手法です。——関係者を全員リストアップして、それぞれの利害・関心・影響力・賛否の立場を整理する。誰に何を言えば動くかを、構造的に分析する」
「……便利な手法だな」
「政治は——利害の調整です。正しさだけでは人は動かない。正しさが、その人の利益と重なる接点を見つける。——それがロビイングです」
クラウスが、少し考え込んだ。
「是永殿。——君は、この世界でも前の世界でも同じことをやっているんだな」
「同じです。——仕組みで問題を解くのが、僕のやり方です。世界が変わっても、人間の構造は変わらない」
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三日目。
利害関係者マッピングが完成した。
羊皮紙に描かれた図。二十三人の貴族議員の名前が、賛成・中立・反対に分類されている。それぞれに、領地の規模、主な収入源、ルンゲとの取引関係、過去の議会での投票傾向が書き込まれている。
「……これは」
クラウスが、図を見て——息を呑んだ。
「これを見れば——誰に、何を、どの順番で話せばいいかがわかる」
「はい。——まず、ライナート男爵とヘルダ子爵夫人に会って、共同提案者になってもらう。次に、中立派の五人に——一人ずつ、個別に会って、それぞれの利害に合わせた説得をする」
「個別に? まとめて話した方が早いだろう」
「まとめてはダメです。——人は、集団の中では本音を言えない。特に、ルンゲを恐れている人は。一人ずつ、密室で、『あなたにとってこれはこういう意味がある』と伝える。——それが根回しです」
「……根回し」
「日本語で——」
「いや、意味はわかる。——そういう泥臭い作業が、法を変えるということか」
「法を変えるのは——一瞬の革命じゃない。地道な作業の積み重ねです。一人ずつ味方を増やして、一条ずつ条文を変えて、一歩ずつ制度を動かす。——華やかさは、ない」
「……いいだろう。やろう」
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ルカが、クラウスの書斎の隅で——法典の写しを読んでいた。
誠が、ふと気づいた。
「ルカ。——何を読んでるんですか」
「法典。——全部読むって決めたの」
「全部?」
「おっさんが条文を武器にするなら、あたしも読めないと守れないでしょ。——わからない言葉だらけだけど」
クラウスが、ルカを見た。
「……君。いくつだ」
「十四」
「十四で法典を読む市民の子供。——この国の歴史上、初めてかもしれないな」
「初めてとか関係ない。——必要だから読むの」
クラウスが——少し、目を細めた。
「エリーゼ。——この子は、誰に似ているんだ」
「誰にも似ていない。——強いて言えば、是永に少し似ている」
「嫌な組み合わせだな。——理屈っぽい大人と、それを真似る子供」
「真似てない」
「真似てないなら、なぜ法典を読んでいる」
「……真似てない。あたしが、自分で決めたの」
ルカが、法典に目を戻した。——その横顔は、真剣だった。
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五日目の夜。
クラウスの屋敷から、全員が帰った後。
クラウスは——一人で、書斎に残っていた。
白紙の帳面に、法改正案の草稿を書いている。——だが、ペンが止まった。
五年分の記録帳を、棚から取り出した。百七十三件の不正記録。日付順に並んだ、ルンゲの犯罪の一覧。
「……五年か」
五年間、記録だけを続けた。誰にも見せず。使えないと知りながら。
——なぜ、記録を続けたのか。
クラウスは——自分でも、よくわかっていなかった。ただ、記録を止めたら——自分が、この国の貴族であることの意味が、完全になくなる気がしていた。
ノブレス・オブリージュ。高貴なる者の義務。
父に教えられた言葉だ。父は——ルンゲに領地の利権を奪われて、失意のうちに死んだ。死ぬ前に、息子に言った。「お前は記録しろ。いつか使える日が来る」
——来たのかもしれない。
クラウスの手が、記録帳の上で止まった。指先が、微かに震えていた。——父の筆跡に似た自分の文字を見つめて。一瞬だけ、唇を噛んだ。それだけだった。それだけで、十分だった。
クラウスは、ペンを持ち直した。
法改正案の第一条を書き始めた。
「第一条。全ての者は、その身分にかかわらず、法の前に平等であり、等しく裁判を受ける権利を有する」
——父さん。使う日が、来たよ。
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同じ夜。
王都の別の場所。
ルンゲ伯爵の屋敷に、一人の密偵が戻ってきた。
「クラウスの屋敷に、毎日四人が通っています。是永誠、マリーナ、エリーゼ元騎士、そして子供が一人」
「……クラウスか。あの青二才が」
「法改正案を作成しているようです。貴族議会への提出を目指しているかと」
「法改正、ね。——子爵一人で法案を通せるとでも思っているのか」
「ライナート男爵と、ヘルダ子爵夫人にも接触を始めているとの情報があります」
ルンゲの目が——細まった。
「ライナートは老いぼれだ。ヘルダは小物だ。——だが、三人揃えば、貴族議会で発言権が生まれる。法案を提出できる」
「いかがいたしますか」
「……急ぐ必要はない。法案を出したところで、過半数には遠い。——だが、芽は早いうちに摘むものだ」
ルンゲが、机の上の書類を一枚取った。——王の署名が入った書状だった。
「王の名で——秩序維持の名目で——是永の活動を制限する。まず、商人ギルドの集会を許可制にする。次に、法典の市民への開示を禁止する。そして——」
ルンゲが、微かに笑った。
「クラウスに——子爵の責務を思い出させてやろう。領地の運営に専念しろ、と。——王宮からの『助言』として」
「クラウス卿が従わない場合は?」
「従わない場合は——領地の徴税権を見直す、と。子爵の生命線は領地だ。領地を押さえれば、クラウスは動けなくなる」
密偵が去った後。
ルンゲは——書斎の窓から、夜の王都を見下ろした。
「是永。お前は仲間を増やしているつもりだろう。——だが、仲間が増えれば、守るべきものも増える。それが——お前の弱点だ」
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