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第21話「是永誠の原点」

───


 マリーナに問われた夜から、二日が経った。


「あんたは——なんで、そこまで他人のために動けるの?」


 あの問いが、頭の中で繰り返されている。


 誠は——自分でも、答えがわからなかった。「仕組みを作りたい」。それは本当だ。でも、なぜ作りたいのか。なぜ、ここまで。


 決算報告会の準備は進んでいる。マリーナが商人たちとの調整を。エリーゼが騎士団の立ち合いを。ルカが帳簿の最終確認を。——仕組みは動いている。誠がいなくても回る部分が増えている。


 だから今夜は——少しだけ、自分のことを考える時間があった。


───


 宿の部屋。夜。


 ルカが帳簿の写しを抱えて入ってきた。


「おっさん。明日の分、終わったよ。帳簿の照合、全部一致。——おっさんの分も終わらせといた」


「ありがとう、ルカ。助かります」


「いいよ別に。——おっさん、今日ぼんやりしてたでしょ。何かあった?」


「……いえ。ちょっと、考え事を」


「何の」


「自分のこと、です」


 ルカが、首を傾げた。


「自分のこと? おっさんが?」


「変ですか」


「変だよ。おっさん、いっつも他の人のことばっかり考えてるじゃん。自分のことなんか考えてるの見たことない」


「……そう見えますか」


「見える。——で、何考えてたの」


 誠は、少し迷った。——でも、ルカには、隠す理由がなかった。


「マリーナさんに聞かれたんです。『なんでそこまで他人のために動けるの?』って」


「ふーん。——で、答えた?」


「答えられませんでした。わからない、と」


「わからない?」


「わからないんです。——なぜ自分がこんなことをしているのか」


 ルカは、ベッドの端に座った。帳簿を膝の上に置いて、誠を見た。


「……おっさんさ。前の世界の話、あんまりしないよね」


「…………」


「帳簿のこととか、契約書のこととか、仕組みのことは教えてくれる。でも——おっさん自身の話は、しない」


「……そうですね。あまり、話すことがないと思っていました」


「あるでしょ。——おっさんにも、過去はあるでしょ」


───


 過去。


 是永誠、三十五歳。元・中堅商社のコンプライアンス部門勤務。


 ——その前に。


 誠は、椅子に深く座り直した。窓の外で、虫の声がしていた。


「……前の世界で。僕は、コンプライアンス担当でした。会社のルールを守らせる仕事。研修をして、規則を作って、違反がないか監視して」


「うん。今とおんなじだね」


「同じです。——でも、最初からこの仕事をしていたわけじゃない。元々は、営業部にいました。海外の取引先を回って、契約を取ってくる仕事」


「営業? おっさんが?」


「下手でしたけどね。——でも、取引先の一つに、小さな工場がありました。東南アジアの。うちの会社の下請け。安い部品を作ってくれる工場」


「…………」


「その工場で——人が死にました」


 ルカの目が、少し変わった。


「過労死です。——工場の若い従業員が、連続三十日以上の夜間勤務で倒れて、そのまま。二十二歳でした」


「…………」


「原因は、うちの会社の発注でした。短納期で大量の部品を要求していた。工場は人手が足りなくて、既存の従業員に無理をさせていた。——でも、うちの会社は知らなかった。知ろうとしなかった。『下請けの管理はそちらの問題です』。契約書にそう書いてあるから」


 誠の声が、少し低くなった。


「僕は——その工場を訪問したことがあったんです。営業で。従業員たちの顔を見ていた。工場長とも話した。——ティエンが、工場の中を案内してくれた。機械の間を歩きながら、片言の日本語で『ここ、一番うるさい。でも、一番大事』って笑ってた。——帰り際に、門のところまで見送ってくれて。深々とお辞儀して、『ありがとうございました』。それが——僕が聞いた、最後の言葉でした」


「…………」


「でも、労働環境のことは聞かなかった。聞く義務は、営業にはなかった。契約書に、そんな条項はなかった」


「…………」


「でも——死んだんです。二十二歳の青年が。僕が見た工場で。僕の会社の発注で」


───


「僕は——会社に報告しました。下請け工場の労働環境を調査すべきだと。過労死の責任がうちの会社にもあるんじゃないかと」


「それで?」


「却下されました。『下請けの管理責任はない。契約上、先方の問題だ。騒ぎを大きくするな』」


「…………」


「でも、僕は——納得できなかった。契約書に書いてあるから責任がない? 人が死んだのに? 契約書が正しくて、死んだ人が間違っていたのか?」


「違うよ」


 ルカが、即座に言った。


「違う。——契約書が間違ってる」


「……はい。僕もそう思いました。——だから、内部通報しました」


「内部通報?」


「会社の中に——不正や問題を報告する窓口があるんです。僕が前の世界で作ろうとしていた通報制度と、同じものが。その窓口に、報告しました。下請け工場の過労死問題を。会社の発注方針の見直しが必要だと」


「それで——どうなった?」


 誠は——微笑んだ。苦い笑みだった。


「何も変わりませんでした。——いや、一つだけ変わった。僕が異動になりました」


「異動?」


「営業部から、コンプライアンス部門へ。——表向きは『適性を活かした配置転換』。実態は、左遷です。面倒なことを言う奴を、現場から外した」


「…………」


「コンプラ部門は——会社の中で、一番嫌われる部署でした。ルールを守れと言う仕事。研修を受けろと言う仕事。——営業部の人間からは『邪魔者』扱い。経営からは『コスト部門』扱い。やって当然、やらなければ怒られる。やっても褒められない」


「……おっさんの前の世界でも、そうだったんだ」


「そうでした。——でも」


「でも?」


「コンプラ部門に来て——初めて、全体が見えたんです。会社の中で、どこに問題があるか。どんなルールが足りないか。誰が守られていないか。——見えるようになった瞬間、作りたくなったんです。仕組みを」


「…………」


「でも——作っても、使われなかった。通報制度を作ったら、最初に通報が来たのは『食堂のメニューが少ない』。研修を開いたら、参加者の半分が寝てた。規則を改定したら、『また紙が増えた』と文句を言われた」


 ルカが、かすかに笑った。


「シチューの苦情と同じだね」


「同じです。——通報箱の最初の投書がシチューの苦情だった時、僕は懐かしくなりました。前の世界と同じだ、と」


「…………」


「でも——シチューの苦情の次に、本物の通報が来た。ここでも、前の世界でも。通報制度を使ってくれる人が、必ず現れた。——だから、続けられたんです」


───


「あの工場の青年——名前は、覚えてますか」


 ルカが、静かに聞いた。


「覚えてます。——ティエン。ベトナムの青年でした。工場を訪問した時、案内してくれた。笑顔で。——日本語を少しだけ話せて、『ありがとう』と『すみません』だけ、やたら上手かった」


「…………」


「ティエンが死んだ後——工場は何も変わらなかった。うちの会社も何も変わらなかった。契約書はそのまま。発注量もそのまま。——ティエンの代わりに、別の従業員が夜勤に入っただけ」


「…………」


「その時、思ったんです。——人が死んでも何も変わらない仕組みは、仕組みとして間違っている。だったら——変わる仕組みを作るしかない」


「おっさん——」


「コンプラ部門で、下請け管理の基準を作りました。取引先の労働環境を定期的に調査する制度。過剰な短納期発注を禁止するルール。——上には反対されました。コストがかかる、競争力が落ちる、余計なことをするな、と」


「でも、作ったんでしょ」


「作りました。三年かかった。——でも、ティエンは帰ってこなかった。仕組みができても、死んだ人は戻らない」


 誠の目が——赤くなっていた。


「だから——ヨハンが死んだ時。通報制度を信じてくれた人が殺された時。同じだと思いました。またか、と。仕組みが遅い。いつも遅い。人が死んでから、やっと動く。——ティエンの時と、同じだ」


───


 長い沈黙が落ちた。


 虫の声だけが聞こえた。


 ルカは——泣いていなかった。でも、目が潤んでいた。


「……おっさん」


「はい」


「おっさんも——守ってもらえなかった人なんだね」


「え?」


「ティエンさんを守れなかった。会社に通報しても、何も変わらなかった。正しいことをしたのに、左遷された。——誰も、おっさんを守ってくれなかった」


「…………」


「あたしと、同じだ」


 その言葉が——誠の胸を突いた。


「あたしは、孤児院で何度も嘘をつかれた。大人は信用できなかった。——おっさんも、会社に裏切られた。仕組みを信じたのに、仕組みに裏切られた」


「…………」


「でも——おっさんは、仕組みを捨てなかった。あたしは大人を信じなくなった。でもおっさんは——裏切られても、仕組みを作り続けてる。なんで?」


「それは——」


「わかってるよ。おっさんもわかんないんでしょ」


「…………」


「でもあたしは——わかる気がする」


「わかる?」


「おっさんは——ティエンさんに、まだ『すみません』って言われてるんだよ。頭の中で。ずっと。——だから止まれない。仕組みを作り続けるのは——ティエンさんへの返事なんだよ。『すみません』じゃなくて『ありがとう』って言ってもらえる世界を作るために」


 誠の呼吸が、止まった。


 何か言おうとして——喉が詰まった。言葉にならなかった。胸の奥で、十年間閉じ込めていた何かが、軋む音を立てていた。


 誠の目から——涙が落ちた。


 初めてだった。この世界に来てから、一度も泣かなかった。ヨハンが死んだ時も。ルカに泣かれた時も。——でも、今。


「…………」


 声が出なかった。


 ルカが、誠の隣に来た。小さな手で、誠の袖を掴んだ。


「泣いていいよ、おっさん。——あたしも泣いたから」


「…………」


「仕組みで守ってくれたから。今度は——あたしが、おっさんを守る番」


 十一歳の手は、小さかった。でも——温かかった。


 誠は、声を殺して泣いた。


 長い夜だった。


───


 翌朝。


 誠の目は——赤かったが、澄んでいた。


 マリーナのオフィスに入った時、マリーナが一目で何かを察した。


「……あんた。泣いた?」


「いえ」


「嘘。目が赤い」


「花粉です」


「この世界に花粉なんかないわよ」


「…………」


「まぁいいわ。——で、答え。出た?」


「答え?」


「前に聞いたでしょ。なんでそこまで動けるのか」


 誠は、少し考えた。


「……完全な答えではないですけど」


「いいわ。聞かせて」


「前の世界で——守れなかった人がいます。僕の仕組みが間に合わなくて。死にました。——その人に、まだ返事ができていない」


「…………」


「この世界で仕組みを作り続けるのは——たぶん。その返事の途中なんです。遅すぎる返事ですけど」


 マリーナは、何も言わなかった。


 ただ、頷いた。


───


 エリーゼとルカが合流した。


 誠は、表情を引き締めた。


「——皆さん。第3段階に進みましょう」


「第3段階?」


「これまでは、ルンゲの不正をギルドの規約の中で対処してきました。帳簿。監査。選挙。——でも、ルンゲは貴族です。ギルドの規約では、ルンゲ本人に手が届かない。ルンゲを本当に止めるには——」


 誠は、羊皮紙を広げた。


「法そのものを変える必要があります」


「法を?」


「はい。貴族の特権を制限する法。権力者を裁く仕組み。——今の法体系では、貴族はギルドの規約の対象外です。いくら透明な市場を作っても、ルンゲが法の外にいる限り——根本的な解決にはならない」


「法を変える。——それは、王に逆らうということよ」


 マリーナの声が、低かった。


「いいえ。王に逆らうのではなく——王を含む全ての人間が、同じルールに従う仕組みを提案するんです。法の前の平等。——前の世界では、何百年もかけて勝ち取った概念です」


「何百年……」


「でも——今の僕たちには、道具がある。帳簿。監査。選挙。情報公開。——透明性の基盤を作ったからこそ、法の話ができる。基盤がなければ、ただの空論です」


 エリーゼが、目を細めた。


「……法を変える、か。——面白い。だが、危険だ。ルンゲだけでなく、貴族全体を敵に回す」


「敵に回す覚悟はあります。——でも、まずは決算報告会です。市民に数字を見せる。数字を見た市民が、自分で考える。考えた市民が、法を求める。——下から積み上げるんです」


「ルカ」


 誠が、ルカを見た。


「ルカの帳簿の腕は、この世界で唯一無二です。決算報告会の資料、お願いできますか」


「当たり前じゃん。——おっさんの返事、あたしも手伝う」


「ありがとう。——マリーナさん」


「何よ」


「決算報告会の会場手配、お願いします」


「もうやってるわよ。——あんたが言い出す前から」


「…………すごい」


「商人を舐めないで。——あんたの考えることくらい、読めるようになったのよ」


 エリーゼが、かすかに笑った。


「よいチームだ。——では、私は騎士団からの護衛を手配する。決算報告会は——狙われるだろうからな」


───


 その夜。


 誠は、宿の部屋で一人、窓の外を見ていた。


 ティエン。二十二歳。ベトナムの青年。笑顔で工場を案内してくれた。「ありがとう」と「すみません」だけ、やたら上手だった。


 ヨハン。通報箱に、震える字で「助けてください」と書いた。懐にパンを入れていた。


 二人は——もう、帰ってこない。


 でも。


「……返事を、書き続けます」


 誠は、新しい羊皮紙を取り出した。


 決算報告会の資料。法改正の草案。下請け——いや、取引先の労働環境基準。


 全部、返事だ。遅すぎる返事。——でも、書き続ける。


 それが——是永誠の原点だった。


───


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