第20話「マリーナの過去(利害を超えて)」
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選挙が終わって、三日が経った。
ハンナがギルド長に就任し、冒険者ギルドは——ゆっくりと、動き始めていた。依頼の受付が再開され、報酬の精算が正常化し、手数料は約束通り一律五パーセントに戻された。
だが、誠には休む暇がなかった。
選挙規則の改定案。資金規制の条文。リコール制度の細則。監査マニュアルの改訂版。——一つの仕組みを作るたびに、穴が見つかり、穴を塞ぐ条文を書き、新しい穴が見つかる。
「……終わらない」
深夜。マリーナの商会のオフィス。
誠は机に向かって羊皮紙を広げていた。マリーナのオフィスを借りるのが習慣になっていた。宿の部屋より広いし、インクと紙が潤沢にある。何より、マリーナの書架にある商取引の記録が参考になった。
「まだやってるの」
マリーナが、奥の部屋から出てきた。手に、湯気の立つカップを二つ。
「すみません。もう少しで——」
「もう少しって、三時間前にも同じこと言ってたでしょ」
「……言いましたっけ」
「言った。——はい、薬草茶。飲みなさい」
カップを受け取った。温かかった。深夜に働く人間に渡す飲み物の温度を、マリーナはいつも完璧に合わせてくる。商人の気配りなのか、それとも——。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして。——で、何を書いてるの」
「選挙資金規制法案です。次の選挙で同じ穴を突かれないように」
「穴ねぇ。——あんた、自分で作った制度の穴を、自分で塞いでるのよね。永久に終わらないんじゃない?」
「永久に終わりません。——制度は、完成しない。常に穴があり、常に修正が必要です。それが普通です」
「……あんたのその『普通』は、普通じゃないと思うわよ」
マリーナが、向かいの椅子に座った。
深夜のオフィス。蝋燭の明かりが二つ。二人きり。
静かだった。
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「ねえ、是永」
「はい」
「あんたに、一つ話しておきたいことがあるの」
マリーナの声のトーンが変わった。商人の声ではなく——もっと、素に近い声。
——だが、そこで止まった。
カップを持つ手が、かすかに震えていた。唇が開きかけて、閉じて、また開く。十二年間、誰にも言わなかったことを口にする——その一歩が、どうしても踏み出せないという顔。
誠は待った。急かさなかった。
五秒。十秒。——マリーナが、息を吐いた。覚悟を決めた、という吐息。
「私ね。ルンゲに借りがあるの」
「……借り?」
「金の話。——十二年前、私が商会を始めた頃。資金が足りなくて、どこからも融資が受けられなかった。商人ギルドの加盟金すら払えなかった」
「…………」
「その時、ルンゲが声をかけてきた。『融資してあげましょう。利子は低くていい。その代わり——少し、協力してほしいことがある』」
マリーナの手が、カップを握りしめた。
「最初は小さなことだった。ルンゲの商会の商品を、私の店で扱ってくれ。仕入れ先をルンゲの指定する業者にしてくれ。——断る理由はなかった。融資の条件として、普通のことに見えた」
「でも——」
「段々、エスカレートした。帳簿の数字を少し書き換えてくれ。この取引の記録は残さないでくれ。——小さな嘘が積み重なって、いつの間にか——私はルンゲの不正取引の片棒を担いでいた」
誠は、黙って聞いていた。
「気づいた時には——もう抜けられなかった。ルンゲに逆らえば、融資を引き上げられる。帳簿の改ざんがバレれば、私が罰せられる。——ルンゲは証拠を持ってる。私が改ざんした帳簿の写しを。いつでも突きつけられる」
「…………」
「結局、融資は三年で返した。死ぬ思いで。——でも、金を返しても、過去は消えない。私がやったことは記録に残ってる。ルンゲの手元に」
「マリーナさん——」
「待って。まだ終わってない」
マリーナが、深呼吸した。
「私がギルドマスターになったのは——二度と、弱い立場にならないため。ギルドの長なら、誰にも支配されない。少なくとも、表向きは。——でも本当は、ルンゲの影がずっとあった。いつ、あの帳簿を出されるか。いつ、過去を突きつけられるか」
「だから——」
「だから、あんたが来た時。帳簿を透明にする、監査を入れる、全てを公開する——って言った時。正直、怖かった」
「怖い?」
「公開されたら、私の過去も出てくるかもしれない。十二年前の帳簿改ざんが。——でも同時に、思ったの。この仕組みがあれば、ルンゲのやり方が通用しなくなる。融資で縛って、帳簿を改ざんさせて、証拠で脅す——そのサイクルが壊れる」
「…………」
「最初は——あんたを利用するつもりだった」
マリーナの目が、蝋燭の炎を映した。
「あんたの仕組みを使って、ルンゲの影響力を削る。自分の安全を守る。——利害の一致。あんたが言うところの、コンプラの基本でしょ?」
「……はい。利害の一致は、協力の基本です」
「でも——」
マリーナの声が、かすかに震えた。
「途中から、変わった」
「変わった?」
「ヨハンが死んだ時。あんたが壊れかけた時。ルカが泣いた時。——あんたが、仕組みを捨てようとして、でも捨てなかった時。……あの時、思ったの。この人は、利害で動いてるんじゃない。信じてるんだ。仕組みを。制度を。——人を、信じてる」
「…………」
「私は——信じたことなんかなかった。商人の世界で、信じるのは数字だけ。人は裏切る。約束は破られる。——だから、仕組みで縛る。それが私のやり方だった」
「マリーナさん」
「でもあんたは違う。あんたは——仕組みで縛るんじゃなくて、仕組みで信じてる。帳簿は嘘をつかない。記録は裏切らない。だから記録を作る。——あんたにとって、仕組みは鎖じゃなくて、信頼なのよね」
誠は、何と言えばいいかわからなかった。
「……そんな大層なものじゃないです。僕は——ただ、前の世界でやっていたことを、ここでもやっているだけです」
「それが大層なのよ。——私には、できなかったから」
沈黙が落ちた。
蝋燭の炎が揺れた。窓の外で、夜風が鳴った。
「……マリーナさん」
「何」
「十二年前のこと。——ルンゲに脅されて帳簿を改ざんしたこと。それは、マリーナさんの責任です」
「…………」
「言い訳はできない。事実として、不正に加担した。——でも」
「でも?」
「それを自分から話した。今、僕に。——それは、もう『隠す側』にいないということです。マリーナさんは、自分の過去を認めた。ルンゲの脅しの材料を、自分から無効化した」
「無効化?」
「脅しが効くのは、秘密がある時です。でも、秘密を自分から開示すれば——脅しは成立しない。マリーナさんは今、ルンゲの武器を一つ、無力化したんです」
マリーナが、目を見開いた。
「……あんた。今の、計算で言ってるの? それとも——」
「両方です。事実として正しいし——マリーナさんに、楽になってほしいと思ってます」
「…………」
マリーナは、カップに目を落とした。
長い沈黙。
「……あんたって。本当に、鈍いのか鋭いのかわかんないわね」
「よく言われます」
「褒めてないわよ」
「知ってます」
───
「マリーナさん」
「何よ」
「マリーナさんがいなかったら。——僕は、何もできませんでした」
誠は、真っ直ぐにマリーナを見て言った。
「帳簿の整備も、商会への記帳指導も、監査チームの編成も。全部、マリーナさんの商人ネットワークがあったからできた。ギルドの規約改定も、マリーナさんの政治力がなければ通らなかった。選挙だって——マリーナさんが実務を回してくれなかったら、七日間で選挙なんかできなかった」
「…………」
「僕は——仕組みを設計することはできます。でも、仕組みを動かせるのは、人です。マリーナさんが——その人です」
マリーナの頬が、ほんのりと赤くなった。
蝋燭の明かりのせいだと思えば——そう見えなくもない。
「……あんたさ」
「はい」
「それ、女に言ったら——まぁいいわ。忘れて」
「え? 何ですか?」
「忘れてって言ったでしょ。——忘れなさい」
「はぁ……」
誠は、首を傾げた。全く意味がわからなかった。
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「ねえ、是永」
「はい」
「一つだけ聞いていい?」
「何でも」
「あんたは——なんで、そこまで他人のために動けるの?」
マリーナの目が、真剣だった。
「利害の一致って言うけど。あんたの利害って何? この世界に来て——帰る方法もわからないのに。報酬もない。地位もない。ルンゲに狙われて、命の危険もある。——それでも仕組みを作り続ける理由は何?」
誠は——答えに詰まった。
簡単に答えられると思った問いが、口から出てこなかった。
沈黙が落ちた。蝋燭の芯が、ぱちりと音を立てた。
マリーナは待っていた。急かさなかった。——さっき、誠が自分を待ってくれたのと同じように。
「……正直に言うと」
「うん」
「わかりません」
「わからない?」
「わからないんです。——前の世界でも同じことをやっていました。会社のコンプラ部門で。制度を作って、研修をして、通報を受けて。報われないことの方が多かった。感謝されるより、面倒がられることの方が多かった。——それでも続けていた。なぜかは、自分でもよくわからない」
「…………」
「ただ——」
「ただ?」
「仕組みがないところで、人が理不尽に苦しんでいるのを見ると——作りたくなるんです。仕組みを。人が守られる仕組みを。……上手く説明できなくて、すみません」
マリーナは、しばらく誠を見つめていた。
それから——ふっと、笑った。
「……わからない、か。——まぁ、いいわ。わからないまま続けるのが、あんたらしい」
「すみません」
「謝るなって言ってるでしょ。——ただ、いつか答えが出たら、教えて」
「はい」
「約束よ」
「約束します」
───
翌朝。
マリーナのオフィスに、エリーゼとルカが来た。
マリーナが昨夜のことを共有した。——十二年前のルンゲとの関係。融資と改ざん。脅しの構造。
エリーゼは、静かに聞いていた。
「……わかった。マリーナ、話してくれて助かる。——ルンゲが脅しの材料を持っていることは、対策の前提として把握しておく必要がある」
「ごめんなさい。もっと早く言えばよかった」
「責めていない。——むしろ、今言えたことが重要だ」
ルカが、マリーナの手を握った。
「マリーナさん。あたしも、前のギルド長に嘘つかされてた。帳簿の数字、知ってたのに黙ってた。——あたしたちは、同じだよ」
「ルカ……」
「でも、今は嘘つかなくていい。仕組みがあるから」
マリーナが、ルカの手を握り返した。
「……そうね。仕組みがあるから」
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誠が、切り出した。
「マリーナさんの告白は——実は、戦略的にも重要です」
「戦略?」
「ルンゲの支配構造が、具体的にわかったということです。融資で縛り、不正に加担させ、証拠で脅す。——このパターンは、マリーナさんだけではないはずです」
「……確かに。私の知り合いの商人にも、ルンゲから融資を受けている人は何人もいる」
「その人たちも、同じ構造で支配されている可能性が高い。——ルンゲの影響力の源泉は、金と情報です。融資という金。帳簿改ざんの記録という情報。この二つで——商人たちを縛っている」
「じゃあ、どうするの」
「二つのアプローチがあります。一つは——マリーナさんと同じことを、他の商人にも促すこと。自分から過去を開示する。秘密を無力化する」
「……難しいわよ。それは。私だって、十二年かかった」
「わかってます。だから——無理強いはしない。でも、先例があることが大事です。マリーナさんが先に開示したことで、『自分もできるかもしれない』と思う人が出てくる」
「もう一つは?」
「もう一つは——決算報告会です」
「決算報告会?」
「ギルド連合の会計を、市民に公開する場を作る。商人ギルドと冒険者ギルドの帳簿を、全て透明にする。——公開された数字の中で、ルンゲの資金の流れの不自然さが見えてくれば、市民自身が疑問を持つ」
「市民に帳簿を見せるの? 商人の帳簿を?」
「はい。——嫌がる商人は多いでしょう。でも、監査だけでは足りない。監査チームが見るだけでは——チームの信用に依存する。市民全員に公開すれば、嘘をつくのは不可能に近くなる」
マリーナが、深いため息をついた。
「……商人の帳簿を公開する。——歴史上、誰もやったことのないことを、また」
「また、やりましょう。——マリーナさんなら、できます」
「できるじゃなくて、やらされてるのよ。あんたに」
「利害の一致です」
「もう、その言葉聞き飽きたわ」
マリーナが笑った。——今度は、本当に笑った。
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その夜。
ルンゲの屋敷。
「マリーナが——是永に過去を話したようです」
「……そうか」
ルンゲの声に、怒りはなかった。むしろ——感心に近い響きがあった。
「マリーナも成長したものだ。——十二年間、私の影に怯えていた女が。是永に会って——変わったか」
「脅しが効かなくなります」
「効かなくなるな。——マリーナに関しては。だが、他の商人は違う。マリーナが開示したのは、マリーナの勇気だ。勇気は伝染するかもしれないが——臆病も伝染する」
「…………」
「是永が決算報告会を計画しているそうだな」
「はい。ギルド連合の会計を市民に公開する、と」
「面白いことを考える。——だが、公開すればするほど、私の工作も効果を発揮する。是永が信じる帳簿に嘘を仕込む準備は、もう終わっている。公開されるのが——汚れた数字なら。是永自身が、嘘をばら撒くことになる」
ルンゲは微笑んだ。
「マリーナの裏切りは想定内だ。——だが、マリーナが語った過去は、マリーナの物語。他の商人は——まだ私の物語の中にいる」
暖炉の薪が、音を立てて崩れた。
「決算報告会。——楽しみにしているよ。是永が自分の信用を、自分の手で壊す瞬間を」
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