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第13話「見える化は、既得権益の敵である」

───


 会計基準の導入を発表したのは、月曜の朝だった。


 マリーナが商人ギルドの全体集会で読み上げた。誠が隣に立っている。商人たちが並ぶ広間。五十人ほど。


「本日より、商人ギルドの全取引について、標準帳簿への記帳を義務づけます。入金と出金を左右に分けて記録し、月末に残高を照合します。また、一定額以上の支出には二名以上の承認を——」


「待て」


 声が上がったのは、三列目だった。大柄な男。毛皮商のハインツ。商人ギル���の有力メンバーだ。


「マリーナ。それは、商売の中身を全部晒せということか」


「中身じゃないわ。金の流れよ」


「同じことだ。誰にいくら払って、誰からいくらもらって——それは商人の手の内だ。それを記録して、ギルドに提出しろと?」


 ざわめきが広がった。


「ハインツの言う通りだ」

「何のために帳簿を見せなきゃいけないんだ」

「信用商売で手の内を晒したら終わりだぞ」


 誠は、声の方向を見た。


 反発は予想していた。マリーナとも事前に話していた。「契約書の百倍大変」——その言葉は正しかった。


「皆さん」


 誠が前に出た。声が少し震えた。百人の前で話すのは慣れている。だが、百人全員が敵意を向けている状況は——コンプラ説明会でも滅多にない。


「帳簿の標準化は、皆さんの商売を縛るためのものではありません。目的は二つです。一つは、不正の防止。もう一つは——信用の証明です」


「信用?」


「契約付きの依頼では、商人ギルドが報酬を保証しています。その保証の裏付けは何ですか? マリーナさんの信用です。では、マリーナさんが明日倒れたら? 商人ギルドの信用は、何で担保されますか?」


 沈黙。


「帳簿があれば、ギルドの財務状況を誰でも確認できる。保証の裏付けが数字で示せる。これは——皆さんの商売の信用を、高めるものです」


「綺麗事を言うな」


 ハインツが立ち上がった。


「帳簿を整備すれば信用が上がる? そんなもん、帳簿がなくても今まで回ってたんだ。——それに、帳簿が漏れたらどうなる。うちの仕入れ先、取引量、利幅。全部ライバルに筒抜けだ。余計なことをするな。——よそ者が」


 最後の一言が、刺さった。


 よそ者。異世界からの転移者。この世界のことを何も知らない人間が、偉そうに制度を押しつけてくる。——そういう目で見られていることを、誠は知っていた。


「……よそ者です」


 誠は、認めた。


「僕はよそ者です。この世界の商慣習も、通貨体系も、商人の矜持も、正直よくわかっていません。でも——」


「でも?」


「金が消えている事実は、よそ者でもわかります」


 広間が、静まった。


「先月、商人ギルドの帳簿と金庫の残高を照合しました。金貨三枚と銀貨十三枚の差額がありました。行き先は——まだ特定できていません」


 ざわめきが、質を変えた。怒りから、不安へ。


「帳簿がなければ、この差額は誰にも気づかれなかった。来月も、再来月も。——帳簿を整備するのは、泥棒に気づくためです。そして、泥棒に『この家には鍵がある』と知らし���るためです」


 ハインツが、口を開きかけた。


 だが——隣に座っていた別の商人が、先に言った。小柄な女性。香辛料商のリーゼ。


「……差額って、本当に?」


「本当です」


「それ——うちのギルドの金が盗まれてるってこと?」


「可能性があります。帳簿を整備して、全取引を照合しないと、確定はできません」


 リーゼが、ハインツを見た。


「ハインツ。帳簿に反対してる場合じゃないんじゃない? 金が抜かれてるなら——」


「待て、リーゼ。こいつの言葉を鵜呑みにするな。差額なんて記憶違いかもしれないだろう」


「記憶違いかどうかを確認するために帳簿をつけるんでしょう。——私は賛成よ。帳簿がないと、何も証明できないもの」


 賛成が一人。


 広間の空気が、微かに揺れた。


───


 集会の結果。


 賛成十二名。反対二十一名。保留十七名。


 否決——ではない。ギルドの規程上、マリーナの権限で導入は可能だ。だが、過半数の反対がある状態で強行すれば、ギルドの結束が崩れる。


「強行は、しない方がいいわね」


 マリーナが、オフィスで言った。


「段階的にやりましょう。まず、賛成してくれた十二人の商会から始める。見本を作って、帳簿の効果を数字で見せる。——契約書の時と同じです」


「同じパターンね。あんたはそれしかないの?」


「一番確実なパターンです」


「……まあ、いいわ。ただし——」


 マリーナの声が低くなった。


「���インツ。あの男、ルンゲと繋がってるわよ」


「確証は?」


「確証はない。でも、ハインツの毛皮はルンゲ家の領地から仕入れてる。取引先だもの。今日の反対も——自分の判断だけじゃないと思う」


「ルンゲが裏で反対派を煽っている——」


「十中八九ね。帳簿が整備されたら困るのは、金の流れを隠したい人間よ。ルンゲにとって、透明性は最大の敵」


───


 翌日。


 ルンゲからの書簡が届いた。丁寧な筆致。


「是永殿。会計基準の導入についてお伺���しました。大変意義深い取り組みと存じます。ただ、いささか急進的に過ぎるのではないかと懸念しております。商人たちの理解を得るには、もう少し時間をかけた方がよいのではないでしょうか。私からも、穏当な形での導入をお手伝いできればと——」


 誠は、書簡を読み終えて、テーブルに置いた。


「……『穏当な形での導入をお手伝い』」


「翻訳してあげましょうか」


 マリーナが、茶を啜りながら言った。


「『俺の目の届く形でやれ。勝手にやるな』——でしょ」


「でしょうね」


「返事は?」


「丁重にお礼を申し上げて、ご助言を参考にさせていただきます——と書きます」


「つまり、無視すると」


「無視はしません。参考にします。参考にした結果、予定通り進めます」


「……あんた、意外と腹黒いわね」


「コンプラ担当は正面突破だけでは生き残れません」


───


 一週間が過ぎた。


 賛成派十二商会で、帳簿の試験運用が始まった。誠が各商会を回って、記帳方法を教える。識字率の問題がある店には、数字と記号だけで記入できる簡易版を用意した。


 効果は——すぐに出た。


 香辛料商リーゼの店で、仕入れ値の記録を整理したところ、卸元からの二重請求が三件見つかった。合計銀貨十五枚。


「——え、これ、余分に払ってたの?」


「はい。帳簿がなければ気づかなかったはずです」


「銀貨十五枚……一ヶ月の食費じゃない」


 リーゼが、帳簿を胸に抱えた。


「これ……すごくない?」


「帳簿は嘘をつきませんから」


「あんた、もっと早く教えてよ!」


 リーゼの反応は、他の商会にも広がった。帳簿を整備した店から、「二重請求が見つかった」「計算間違いで損していた」「取引先の未払いに気づいた」——そんな報告が次々と上がる。


 保留だった十七人のうち、三人が賛成に回った。


「……数字は、人を動かすのね」


 マリーナが、感心した顔で言った。


「理念じゃ動かなかった人が、銀貨十五枚で動く」


「それでいいんです。きっかけは損得で。使い始めれば、意味がわかる。——バルドさんの時と同じです」


「ああ、あの時ね。——人は理念より、銀貨で動く」


───


 だが、反対派も黙ってはいなかった。


 ハインツを中心とした商人グループが、帳簿導入に反対する署名を集め始めた。「商売の自由を守れ」「ギルドの過剰介入に反対」。


 しかも——署名の呼びかけ���書の書式が、やけに整っていた。商人が自力で作ったにしては、文章が洗練されすぎている。


「……この文書、誰が書いたんでしょうね」


「さあ。誰かしらね」


 マリーナと誠は、顔を見合わせた。答えは言わなかった。言う必要がなかった。


───


 その夜のことだった。


 誠は、マリーナのオフィスで遅くまで帳簿の集計作業をしていた。ルカはとっくに寝ている。エリーゼは騎士団に戻っている。


 仕事を終えて、オフィスを出た。夜の通りは暗い。街灯が少ないこの世界では、夜は本当に暗い。


 宿までの道は、歩いて五分。いつもの道だ。


 ——足音が多い。


 誠は、無意識に歩調を緩めた。自分の足音だけのはずなのに、路地の向こうから微かな衣擦れの音が聞こえる。気のせいだと思った。思おうとした。


 角を曲がった時——気配がした。


 誠は立ち止まった。


 暗がりの中、三つの影が立っていた。


「お前が、是永か」


 低い声。フードを被った男。体格がいい。手に——棍棒。


「帳簿がどうの、会計基準がどうの。余計なことばかりしやがって」


「おい、あんまり喋るな。さっさとやれ」


「加減しろよ。殺したら面倒���」


 誠の体が、凍りついた。


 暴力。この世界では——コンプラ担当を黙らせる方法は、暴力だ。書面でもなく、訴訟でもなく。拳と棍棒。


「——待ってください」


 声が震えた。当然だ。戦闘力ゼロの三十二歳に、武装した三人。勝てるわけがない。


「話をしましょう。あなたたちが何に不満を持っているのか——」


「話は終わりだ。紙切れ屋」


 棍棒が振り上げられた。


 ——その瞬間。


 金属音。


 棍棒が弾き飛ばされた。


 暗がりの中から、一つの影が飛び出した。剣を抜いた女騎士。甲冑が月明かりに鈍く光る。


「——三人がかりで非武装の一人を襲うとは。騎士として見過ごせないな」


 エリーゼだった。


「ち——騎士団!」


「逃げろ!」


 二人が走り出した。三人目——棍棒の男——が、一瞬だけ誠を睨んだ。


「次はもっと上手くやる。——覚えとけ」


 男も走り去った。


 通りに、静寂が戻った。


「…………」


 誠は、壁にもたれた。膝が震えている。手が震えている。


「エリーゼさん。なんで——ここに——」


「パトロールの帰りだ。いつもこの道を通る」


「偶然ですか」


「偶然だ。——いや」


 エ��ーゼが、剣を鞘に収めた。


「……偶然じゃない。最近、あんたの周りが不穏だから——少し、気にはしていた」


 エリーゼの手が、わずかに震えていた。剣を握る手ではなく、もう片方の——何も持っていない手。


「……間に合って、よかった」


 小さな声だった。騎士の声ではなかった。


「気にして——」


「騎士として。——それ以上の意味はない」


「……ありがとうございます。命を助けてもらいました」


「大げさだ。あの程度の連中——」


「僕にとっては、あの程度じゃないんです。戦闘力ゼロなので」


「……そうだったな」


 エリーゼは、誠の隣に立った。


「是永。お前のやっていることは、人を怒らせる」


「わかってます」


「帳簿を作る。金の流れを見える化する。それは——隠したい人間にとって、最悪の敵だ」


「はい」


「覚悟はあるか」


 誠は、震える手を見た。


「……覚悟はあります。でも、体が追いつきません」


「体は私が守る」


 誠が顔を上げた。


 エリーゼは、前を向いていた。


「お前は制度を作れ。私は、お前を守る。——それが、今の私にできるこ��だ」


「…………」


「騎士としての務めだ。——それ以上の意味はない」


「二回目ですね、それ」


「うるさい」


 エリーゼの耳が赤かった。暗がりでも、わかった。


───


 翌朝。


 誠は襲撃のことをマリーナに報告した���


「——三人。武装。棍棒。『次はもっと上手くやる』」


 マリーナの目が、据わった。


「……ハインツの仲間か。あるいは——」


「ルンゲの手の者かもしれません」


「証拠は?」


「ありません。——でも、タイミングが合いすぎます。帳簿の導入を発表して、反対派が署名を集めて、その直後に襲撃」


「そうね。——で、どうするの。護衛をつける?」


「いえ。暴力で黙らされたら、暴力で対抗する——その構図に入ったら、僕たちの負けです。コンプラ担当は、仕組みで勝つしかない」


「じゃあ?」


「なぜ反対派がここまで必死なのか。——そこを考えます。帳簿の導入に反対する理由は、手の内を見せたくないから。では、見せたくない『手の内』とは何か」


「…………」


「帳簿を整備すれば、見えてくるはずです。反対派の商会の金の流れに、何かがある。——それが見つかれば、反対派を黙らせるのではなく、反対する理由ごと解消できる」


 マリーナが、ため息をついた。


「……あんた、殴られそうになった翌日に、もう次の手を考えてるの」


「コンプラ担当は殴られ慣れてますから」


「物理的にはダメでしょ」


「精神的にはいつものことです」


───


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