第七十四話 サクライルドルフ
ガシャンッ!!
ゲートが開く。
視界が広がる。
いい。
脚が軽い。
芝の音が、心地いい。
……ああ。
楽しい。
クロエの重心が、すぐに“今日の位置”を示してくる。
前へ行きすぎず、遅れすぎず。
勝つための場所。
その指示に素直に乗る。
俺は落ち着いて進む。
今日は、負けられない。
爺ちゃんに『朔を頼む』って言われたんだ。
でも、もうさっきまでみたいに、それで自分を追い詰めたりはしない。
だって、爺ちゃんも朔も、たぶんそんな走り方は望んでいない。
だったら、俺はちゃんと走る。
ちゃんと、強くて、楽しくて、でも無事な走り方で勝つ。
そして元気に生きる。
いっぱい朔に撫でてもらうんだ。
それでも、いつか、俺も死ぬ。
たぶん朔や弥生より先に。
人間より、馬の方が寿命が短いことくらい知ってる。
牧場にいると嫌でもわかる。
昨日いた馬がいなくなることもある。
去年まで元気だった馬が、今年はもういないこともある。
それは仕方ない。
でも、その時に天国ってやつがあるなら、爺ちゃんに会って、ちゃんと報告したい。
――朔をいっぱい助けたよ。
――天皇賞ってレースもね、春秋って連覇したよ。
――ちゃんと最後まで元気に走ったよ。
――楽しかったよ。
その時、爺ちゃんが、いつもの顔で、鼻を鳴らしてくれたらいい。
「……あ」
ふと思った。
すごい強くて有名な馬になったら、天国にいても名前くらい届くかな。
名前を聞いただけで「ああ、あの馬か」と言われるような馬。
それが空に届くかどうかはわからない。
でも届いたら爺ちゃん喜ぶかもしれない。
だったらやっぱり勝とうか。
あ、でも。
朔に心配かけたくないから、怪我はしないようにしないと。
俺たちがちょっとでも変だったりすると、朔はすぐ変な顔になる。
しかも、あとでだいたいりんごが減る。
それは困る。
そう考えると、一度もケガしなかったクラウンって、本当にえらいな。
敬いはしないけど。
でも、りんご一個くらいなら今度分けてあげてもいいかもしれない。
――いや、二分の一でいいか。
二分の一と言えば、天皇賞ってなんで二個あるんだろう?
しかも距離も全然違うし。
背中でクロエが笑い混じりに言った。
「ルドルフくん、今ぜったい余計なこと考えてるでしょ」
おっと、怒られちゃった。
「うんうん。まずは楽しく勝とうね」
そう言って、クロエは重心を少しだけ前に寄せた。
四コーナー。
ここからだ。
あれ?ビールどこ行った?
んだよ、めちゃくちゃ前にいるんじゃん。
ずるいぞ、あいつ。
観客席の歓声が、壁みたいに押し寄せてくる。
『先頭はゴールデンビール!!サクライルドルフ、これは届かないか!?』
実況の声が遠くで響く。
ごめん、ビール。
今日だけは譲れないんだ。
俺は地面を強く捉える。
一歩目。
二歩目。
三歩目。
加速する。
観客がさらに湧く。
大阪杯の時に「やるじゃねぇか」と言ってくれた馬を追い抜く。
「くっそ!心配して損した!!」
なんか雰囲気がお母さんに似てる強そうな牝馬をかわす。
「ぐっ!有馬記念で勝負よ!いつまでも無敗なんてやらせないわ!!」
なんだかんだ何度も一緒に走ってるグラスカフェを抜き去る。
「次だ!絶対!絶対お前を負かしてやるからな!!」
あれ、ビールにまだ届かない。
でも。
まだいけるよね、クロエ?
「もちろん!!」
クロエの鞭が飛ぶ。
もう一段ギアが上がる。
痛いんだけど、それだけじゃない。
気合が入る。
こういうところ、クロエは悪くない。
『サクライルドルフ!サクライルドルフ凄い脚だ!ゴールデンビールにぐんぐん迫る!!』
でしょ?
もっと褒めてもいいんだよ、実況さん。
ビールの横に並ぶ。
あいつが、目だけでこっちを見る。
お互い、もう余計な言葉はいらない。
いるのは脚だけだ。
ビールがさらに、前へ出る。
まだあるのかよ。
競馬の世界にはバケモノがいる。
そのバケモノが、目の前にいる。
でも、嫌な感じじゃない。
この差なら届く。
呼吸を深く入れ直す。
脚の奥に残していたものを、最後のために引っ張り出す。
ビールの気配が横で燃えている。
それが楽しい。
でも、勝つのは俺だ。
「すみません、ビール。今日は私の勝ちです」
その瞬間、俺の身体が、ありえないくらい前へ出た。
自分でも驚く。
脚が軽い。
世界が一瞬だけ白い。
ビールが、横で何かを叫んだ気がした。
知らない。
今は。
俺が。
勝つ。
ゴール。
抜けた。
先頭で。
あー、楽し。
『サクライルドルフ!!差し切った!!これはすごい末脚!!』
実況が叫ぶ。
そして、次の言葉が、耳に刺さった。
『レコード!!』
お、レコードだって。
これ、爺ちゃんに自慢できるかな?
俺は、流しながら深く息をした。
肺が焼ける。
脚が重い。
でも、胸の奥が軽い。
ビールが横に来る。
並んで流しながら、あいつが吐き捨てるように言った。
「くそが」
その声が、悔しくて、でもどこか嬉しそうだった。
まだ終わる気がない声だ。
「……ジャパンカップと有馬記念」
俺は、呼吸を整えながら答える。
「ええ、あと二戦ありますね」
ビールがこちらを見る。
「両方俺様が勝つ」
いい顔だ。
負けた直後なのに、もう目が燃えている。
ああ、やっぱり。
こいつはこうでなくちゃいけない。
「いいえ、私がもらいます」
短く返す。
「秋古馬三冠も欲しくなりました」
一瞬、ビールが目を丸くする。
その次の瞬間には、呆れたように笑った。
「欲張りだな、お前」
「ええ。勝てるうちに勝っておこうかと」
「いいぜ」
ビールは鼻を鳴らす。
「全部まとめて、ひっくり返してやる」
「無理です」
「言うねぇ」
そのやり取りが、妙に心地よかった。
次もある。
その先もある。
楽しい。
苦しいけど。
ムカつくけど。
でも、楽しい。
競馬は、たぶんそういうものだ。
◇
検量室の近くまで戻る。
人間たちがまた慌ただしい。
でも、そのざわめきの中に、知っている気配がある。
「ルドルフ!!」
朔だ。
声が、弾んでいる。
胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
朔が駆け寄ってくる。
スーツのまま。
でも、また顔がぐちゃぐちゃになっている。
嬉しそうで、少し困ってて、でも、ちゃんと笑ってる。
「お疲れ!おめでとう!!今日も楽しそうだったな!!」
ああ。
ちゃんと、嬉しそうな顔をしてる。
よかったよかった。
その顔を見るために勝ってるわけじゃない。
でも、その顔を見ると、勝ってよかったと思う。
俺は、なるべく澄ました顔でそっちを見る。
「当然でしょう?」
言っておいてなんだが、ちょっとドヤりすぎたかもしれない。
でも、いい。
今日は言っていい日だ。
だって、朔がすごく嬉しそうだから。
朔が、首筋を撫でてくれながら言う。
「元気そうでよかった。カッコよかったぞ」
うん。
十分だ。
今日の俺は、かなり偉い。
だから、あとでりんごは二個くらい食べてもいいと思う。
「ダメ」
朔はケチだ。




