第七十三話 誰がために走る
ファンファーレが、東京競馬場の空を震わせていた。
高く、長く、やたらと派手で、人間どもが「特別です」と全身で騒いでいる感じの音だ。
秋の東京。芝二千メートル。天皇賞秋。
『サクライルドルフは休養からの復帰初戦となります!』
『ぶっつけ本番で来ましたが、ここまで無敗ですからね、期待したいところです』
実況と解説の声が、遠くの空気の向こうから聞こえてくる。
期待。
そんなの、言われなくても知っている。
だからこそ。
だからこそ、今日は、絶対に負けられない。
負けるわけにはいかなかった。
――爺ちゃんに、『朔を頼む』って言われたんだ。
勝つ。
勝って、賞金を持って帰る。
朔を助ける。
爺ちゃんがいなくなった穴を、少しでも埋める。
それが、俺の仕事だ。
俺はサクライルドルフだ。
勝つ。
勝って、牧場を大きくする。
勝って、人をたくさん雇う。
勝って、牧場の看板をでかくする。
勝たなきゃ。
絶対勝たなきゃ。
絶対負けられない。
「ルドルフくーん、気合ゲージちょーっとだけ下げようよー」
背中から、聞き慣れた声がした。
クロエだ。
今日はいつもより軽い。
うるさい。
クロエが、少し困ったみたいに笑う気配がする。
知ったことか。
俺は、首を少しだけ動かして、息を吐いた。
ブルル。
その振動で、少しだけ自分を落ち着かせようとする。
でも、落ち着かない。
「おい」
話しかけられた気配がする。
うるさい。
「おい」
もう一度。
無視した。
「俺様を無視するんじゃねぇ!!」
露骨に声量が上がった。
さすがに顔をそっちへ向ける。
「?」
……ああ。
「やっとこっちを見やがったか」
そこにいたのは、ゴールデンビールだった。
帰ってきてたのか。
「なんだ、ビールか」
返した声は、自分でも驚くくらい尖っていた。
だが、隠す気もなかった。
ビールは、そんな俺を見て、少しだけ楽しそうに目を細めた。
「おうおう、随分やさぐれた口調じゃねぇか。いつもの取り繕った口調はどうしたよ」
「ほっといてよ」
自分でも、言い方がガキみたいだと思った。
でも、今はそんなのどうでもいい。
ビールは、少しだけ首を揺らしてからため息交じりに言ってくる。
「あのなあ、俺様はそんな顔のお前に勝つために帰ってきたんじゃねーんだよ」
「?」
意味がわからなくて、ようやくちゃんとビールの顔を見る。
ビールは、いつものように偉そうだった。
「お前んとこの爺さんが亡くなったのは坊ちゃんに聞いた」
その瞬間、胸の奥が、ぎし、と音を立てた。
――言うな。
俺の顔が歪む。
「それ以上言ったら怒る」
低く怒りをぶつけたのに、ビールは、むしろ笑ってる。
「おう、怒れよ」
コイツ、性格悪い。
「バカにしてるの?」
「してる」
即答。
腹立つ。
「お前んとこの爺さんや坊主が何考えてるかもわかっちゃいねぇクソガキ皇帝様をな」
――許さない。
「この!お前に何がわかる!!!」
吠えた。
クロエに抑え込まれなかったら飛びかかっていたかもしれない。
でも、ビールは全く引かなかった
「わかんねーよ」
その声が、意外なくらい普通だった。
「お前なんでそんな余裕ねーんだよ」
「俺は!」
余裕?
あるわけない。
だって爺ちゃんがいない。
朔が、前より少しだけ静かだ。
それが、怖い。
だから俺は――
「俺はこのレースも、この後もずっと!全部勝って!賞金稼いで!朔を助けるんだ!!」
気づけば、全部出ていた。
隠していたつもりもないけど、ここまでそのまま言うつもりもなかった。
でも、口から出たら止まらなかった。
「お前んとこみたいに金が有り余ってるとこにはわかんないだろうさ!!」
言ってから、少しだけ「しまった」と思った。
言い過ぎたかもしれない。
でもビールは、怒らなかった。
「ふーん」
その声は、煽りじゃなかった。
本気でわかってない声だった。
「お前の爺さんや坊主って、お前に『金稼いでくれるのが一番大事だ』って言ったのか?」
「……え?」
一瞬、言葉の意味がわからなかった。
ビールが、少しだけ顔をしかめる。
「ちなみにうちの坊ちゃんは『絶対にケガするなよ!』『楽しく走れ!』『でも勝て!!』だ。……わがままだよな」
――それは。
それは、朔と同じだ。
朔はいつも言う。
無事でいてくれ。
楽しいならそれでいい。
お金が一番大事?
大事なのはわかってるけど、そんなふうに言われたことはない。
俺は、言葉が詰まった。
ビールが意地悪そうに続ける。
「で、知らねーけど、『金を稼ぐためだったら無理してでも走るお前が好きな』爺さんと坊主だったのか?」
「……違うもん」
気づいたら、そんな返事をしていた。
子どもみたいな返事。
違う。
そんなわけない。
爺ちゃんも。
朔も。
弥生も。
そんな人間じゃない。
ビールが、少しだけ目を細める。
「じゃあ、どんな人なんだよ」
「……」
言われて、胸の奥で何かがゆっくりほどけた気がした。
どんな人。
「……勝ったら喜んでくれる」
自然と、言葉が出た。
「おお、いいじゃねぇか」
「無事だったら、もっと喜んでくれる」
ビールは何も言わない。
「……俺や他の馬が楽しそうにしてたり、嬉しそうにしてたら、すごく喜んでくれる」
言いながら、自分の中でもその言葉がちゃんと形になる。
そうだ。
答えは出ていた。
ビールが、鼻を鳴らす。
「じゃあ、結論出てんじゃねーか」
そう言って、少しだけ笑った。
ああ、こいつの笑い方、嫌いだ。
「どうやったらオメーは爺さんに自慢できるんだ?」
俺は、目を伏せた。
自慢。
そうだ。
自慢したい。
爺ちゃんに。
朔に。
弥生に。
牧場のみんなに。
「…………楽しく走って」
声が震えそうになるのを抑えて言う。
「でも無事に走って」
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
「……全部勝つ」
自分でも、少し笑ってしまうような欲張りな結論だった。
ビールが、そこでようやく大きく笑った。
「ハハッ!まあ、勝つってとこだきゃあ無理だな。俺様がいるからな!!」
その瞬間、視界が広くなる。
軽くなると同時に、目の前の現実が戻ってくる。
ビールがいる。
他の馬たちが苦笑しているのが見える。
騎手たちが心配そうに見ているのが見える。
「……勝つもん」
俺は言い返す。
「『天皇賞は特別だ』って、爺ちゃんが言ってたって聞いたんだもん」
言ってから、自分でもちょっと子どもっぽいと思った。
でも、ビールは笑わなかった。
「そうかよ」
その返事は、意外と優しかった。
息が深くなる。
世界が、少しだけ広くなる。
「ビール」
「んだよ。さすがにそろそろゲート入んねぇと怒られるぞ」
俺は、いつもの声を取り戻す。
「気遣っていただいたのにすみません」
「は?」
「このレース、圧勝させていただきますね」
ビールが、数秒黙った。
それから。
「……ハハハハハ!」
さっきより更にでかい笑い声。
うるせーよ。
「勝つのは俺様だ!!」
その声が、気持ちよく響いた。
ああ、ちくしょう。
こいつがいると、競馬がちゃんと競馬になる。
重いものを背負っても、最後は走るしかない世界。
その世界に、ちゃんと戻ってこれた。
「んだよ、ルドルフ復活したじゃん」
「ビールやるじゃん」
「ルドルフがあの顔のままじゃやりづらかったしな」
「俺はそっとしといてやろうと思ってた」
「結局クソ生意気なだけじゃん」
「気ぃ使って損した」
「お前、さっきチャンスだとか言ってたじゃん」
「バカヤロ、言うなよ」
「おら、ガキ二人。さっさとゲート入れ」
周囲の馬たちがスッキリした顔をしている。
競馬って、こういうところが変だ。
倒したいのに、相手が弱いのは嫌だ。
勝ちたいのに、相手が強いほど楽しい。
人間も馬も、めんどくさい。
背中のクロエが安心した雰囲気で撫でてくるのがわかる。
「うん、いい表情になった。ゴールデンビールのおかげかな」
俺は小さく鳴いた。
「いいえ、アイツはただの性格の悪い馬です」
クロエには聞こえないのはわかってて返す。
「よしよし。じゃ、遊ぼっか」
聞こえてないないくせに、少し笑って、妙にわかったような返しをする。
……聞こえてないんだよな?
クロエは嫌いじゃない。
いや、かなり好きだ。
俺の背中で、一番大事なところを間違えない。
「今日は朔くんが見に来てるからね」
クロエの手が、首筋に軽く触れる。
「一緒に写真撮ろうね」
その意味は、ちゃんとわかる。
俺は、少しだけ胸を張った。
「――余裕ですとも」
俺は桜井牧場の皇帝だぞ。




