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【書籍化】就職先が倒産したので牧場を継いだら、俺だけ馬の声が聞こえるようになりました  作者: 萩原梓荻(旧:萩原詩荻)
第三章 サクライルドルフ

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第七十話 桜井明人

 静内の八月の夜は、静かだ。


 都会と比べて車の音も少ないし、人の声もしない。


 風が草を撫でる音と、建物や納屋が軋む音があるくらいだ。


 だが、牧場の夜は、別に無音ではない。


 馬がいる。

 息をする音がある。

 藁を踏む音がある。

 鼻を鳴らす音がある。

 腹が減っただの、眠いだの、そういうことを言っているのだろうなと思わせる気配がある。


 昔から、そういうものだった。


 ただ、最近はそれを「気配」で済ませられなくなった。


 孫が、本当にそれを聞いているからだ。


◇


 その夜もいつも通り早く床に入った――はずだった。


 はずだったのに、目が覚めた。


 理由はない。


 ただ、目が覚めた。


 最近はこういうのが増えた。


 暗い天井を眺めたまま、しばらく呼吸を整えた。


 起き上がって、靴下を履き、上着を羽織り、帽子を被る。


 母屋の廊下を歩く。


 板がきしむのを知っているから、踏む場所を選ぶ。


 こそこそしているつもりはない。


 音を立てないようにしているだけだ。


 孫や桜坂を起こさないようにという優しさだ。


 外へ出ると、夏の夜気が肌にまとわりついた。


 冷たいわけではない。


 むしろぬるい。


 厩舎の方へ歩く。


 ……もう、一人で厩舎に行くのもつらいな。


 誰に言うでもない。自分の中でそう思っただけで、胸の奥が少しだけ痛くなった。


 昔なら、こんな夜中でも平気で出て行った。

 

 分娩がある。

 異変がある。

 足音や鼻息ひとつで気づくこともある。

 天気が荒れれば確認しなければならないことだらけだ。


 厩舎に行くのは、いつでも当たり前の仕事だった。


 なのに。


 足が、思ったより言うことを聞かない。

 背中が、思ったより曲がっている。


 そういうものの積み重ねが、夜中の厩舎を「少しだけ遠い場所」にする。


 それが少し悔しくて、しかし、もうどうしようもないことも知っている。


 それでも。


 歩きなれたこの場所なら問題はなかった。


 厩舎の扉を開く。


 最近の工事で開きやすく、静かに開くようになったな。

 助かる。


 ――厩舎の中の空気は、外より少しだけ濃い。

 

 藁と木と、馬の体温の匂いがする。


 暗がりの向こうで、何頭かが気配に気づいたらしい。


「ブルル」

「ブヒン」

「ヒヒーン!」


 低い声。短い声。やけに元気な声。


「……やっぱり、何を言ってるかはわからんな」


 何十年も牧場をやってきた。


 親父が牧場主だったころから、ずっとだ。


 何百頭、いやそれ以上の馬を見てきた。


 生まれるのも、育つのも、売れていくのも、壊れるのも、勝つのも、負けるのも見てきた。


 それでも、馬の言葉そのものはわからん。


 なんとなくわかることはある。


 腹が減っている、機嫌が悪い、怯えている、痛い、怒っている、甘えている。


 そういう気配なら、長い年月でだいぶ読めるようにはなった。


 だが、孫のようにはいかない。


 あいつは、本当に、会話をしている顔をする。


 最初にその様子を見た時は、さすがに頭がおかしくなったのかと思った。


 かかりつけ医に相談もした。


 だが、どうにもそうではなかった。


 あまりにも自然に、あまりにも平然と、馬の言葉を拾ってくる。


 危ないときに危ないと言い。


 嫌がっているときに嫌がっていると言い。


 体調がおかしいときに、それを拾ってくる。


 理屈は今でもわからん。


「……だが、孫の言うことだ。信じてはいる」


 ゆっくりと厩舎の中を見回した。


 ストーンブレイク。

 ミスタークラウン。

 サクライルドルフ。

 それ以外の繁殖牝馬も、当歳も、一歳も、現役馬もみんなそれぞれの場所にいる。


「ある意味、お前たちに教えておくのが一番確実だな」


 変な話だった。


 人間相手に話すより、馬相手に伝言する方が確実だと思う日が来るとは、昔は思いもしなかった。


 だが、考えてみれば理にはかなっている。


 孫以外には聞けない。


 だが、孫には届く。


 まず少し奥にいたストーンブレイクの前で立ち止まった。


 うちの牧場では何十年ぶりかの重賞を勝ってくれた牝馬。


「ストーン」


「ブヒン」


 鼻を鳴らす。


「朔に伝えてくれ」


 ストーンが、ゆっくりとこちらを見た。


「『困ったら天山を頼れ、それから部屋の金庫の番号は1028だ』と」


 番号が妻の誕生日だなどと、こいつらに説明する必要はない。

 だが、あの番号だけは忘れん。

 忘れようもない。


 天山には前々から頼んである。

 もしもの時は、朔のことを少し見てやってくれと。

 あの男なりに、もうとっくに気にかけてくれているのも知っている。


「ブルル」


 意味はわからない。

 だが、気のせいでなければ、「仕方ないね」とでも言っているような顔に見えた。


「なんだかんだ、朔はお前を頼りにしてる。頼むぞ」


 この馬は賢い。

 気位が高くて、だが根のところでは面倒見がいい。

 孫が困っていれば、きっとこいつなりに支えてくれるだろう。


 次に、ミスタークラウンの前へ行く。

 コイツの名前を聞いた時、孫の名づけセンスにはちょっと不安を覚えたものだ。


 こいつは、夜でもどこか妙に元気そうな気配をしている。


「クラウン」


「ヒヒン?」


「朔が泣いてたら、『落ち込んでる暇があれば働け』と言ってやってくれ」


「ヒヒン!?」


 なんとなく驚いている気がするな。


「驚くな。お前なら言えるだろう」


 この馬は、よく走った。

 派手な勲章はない。

 だが、壊れず、へこたれず、ずっと稼いできた。


 大仕事をする馬もいる。

 一発で世界を変えるような馬もいる。

 だが、こういう馬がいたから、うちの牧場は持ちこたえた。


「ヒヒン……」


 クラウンは、少しだけおとなしくなった。

 だが、孫が本当に駄目になりそうな時、たぶん真正面から笑って蹴飛ばせるのは、こいつだ。


「頼むぞ」


 それから、サクライルドルフの前に立つ。


 でかい名前をつけやがって、と最初は思った。


 だが、結果的にはその名に恥じないところまで行ってしまった。


 この牧場が持った、初めてのダービー馬であり、三冠馬だ。

 しかも天皇賞の盾まで飾らせてくれた。

 ……わけがわからんな。


 寝藁の上でうずくまっていたが、俺の気配に気づいてすぐ顔を上げた。


「ヒヒン!」


「ルドルフ」


 この馬は、生まれた時から、妙に人の顔をよく見ていた。

 わがままで、生意気で、甘え下手で、それでいて甘えん坊だった。


「お前のおかげで朔はだいぶ助かってる。これからも頼むぞ」


「ヒヒン!」


 短く、しかし力のある返事だった。


 その顔を見てわずかに目を細める。


 ルドルフが助けになったのは賞金だけじゃない。


 勝つたびに、牧場に未来が増えた。


 人が増え、門がついて、厩舎も直せた。


 孫が一人で背負わなくていい仕事が少しずつ増えた。


 そして何より、朔が胸を張れるようになった。


 それは大きい。


 おかげで、孫は孤独にならずに済むだろう。


 そのまま、他の馬房へも少しずつ歩いていった。


「お前は元気でいいが、怪我だけはするな」

「お前は桜坂に甘えすぎだ。困っているぞ」

「お前は飯を残しすぎだ。朔に配合を変えてもらえ」

「お前はもう少し他の馬に怯えないように頑張ろうな」


 年を取った繁殖牝馬にも、

 夏休みを満喫している現役馬にも、

 段々しっかりしてきた一歳馬にも、

 今年生まれた元気いっぱいな当歳にも、

 それぞれ一言ずつ、声をかけた。


 全部に、ほんの少しずつ声をかける。


 馬たちは、それぞれ短く声を返してくる。


 その意味はわからない。


 だが、夜の静けさの中で、やりとりをしている気分にはなれた。


 何十年も、馬と一緒にいた。


 朝も夜も、春も夏も秋も冬も、こいつらと一緒だった。


 面倒だったし、金もかかったし、いいことばかりじゃない。


 馬に人生を振り回されたと言ってもいい。


 それでも、振り返れば、全部この厩舎にある。


 畳もうかと本気で思った夜。


 それでも次の朝には、馬が飯を待っていて、結局また長靴を履いたこと。


 全部。


 厩舎の真ん中あたりで足を止めた。


 呼吸が少しだけ重い。


 胸の奥が静かに軋んでいる。


「ああ、立派に育った孫に牧場を継がせて、お前らのような馬を持てて……もう、悔いはない」


 その言葉は、思っていたよりもすんなりと出た。


 自分で少し驚いた。


 孫がこの先どんな牧場主になるのかも見たい。


 ルドルフがどこまで行くのかも見たい。


 もっと牧場を大きくしたかった。


 もっと多くの馬を残したかった。


 息子たちが継がないことを飲み込めない時期もあった。


 妻にも、もう少し長く生きていてほしかった。


 だが、それでも。


 やるだけはやった。


 そう思えてしまった。


 踵を返し、厩舎の戸口へ向かって、ゆっくり歩き出す。


 その時だった。


「爺ちゃん!」


 はっきりと、声が聞こえた。


 足が止まる。


「なんだよ!そんな死ぬみたいなこと言うなよ!!」


 ゆっくり振り返る。


「俺!もっと勝つから!楽できるようにするから!!いっぱい撫でてくれよ!!!」


 今のは、なんだったのか。


 気のせいか。


 疲れか。


 年寄りの都合のいい幻聴か。


 それとも、本当に。


「……ルドルフ、か?」


 声に出すと、自分でも少し笑いそうになった。


「なんだ、相変わらず甘えん坊だな」


 近づいていく。


 ルドルフの額をそっと一撫でする。


 何度もやった、慣れた手つきだった。


 鹿毛の皮膚の下にある熱が、手のひらに伝わってくる。


「すまんな。これからは朔に撫でてもらえ」


「ヒヒン!ブヒン!!」


 今度は、ただの馬の嘶きだった。


 だが、それでいい。


 孫の言っていることが本当だと、神様とやらが教えてくれたのかもしれない。


 あるいは、最期が近い年寄りの耳が、都合よく何かを拾っただけかもしれない。


 そんなことは、もうどちらでもよかった。


「……じゃあな」


 それから、今度こそ厩舎を出た。


 扉を閉める。


 空には星が出ていた。


 昔から何度も見上げてきた、静内の広い夜空だ。


 部屋に戻り、布団に入った。


 天井が見える。


 暗い。


 静かだ。


「……ああ」


 今夜は、よく眠れる気がした。


◇


 翌朝。


 いつもなら、爺さんは朝には必ず一度、厩舎へ顔を出す。


 それが、出てこなかった。


 珍しい。


 部屋へ行った。


「爺さん、大丈夫か?」


 返事がなかった。


 扉を開けた。


 見ただけでわかってしまった。


 わかりたくないのに、わかってしまった。


 布団の中で、爺さんは眠るように逝っていた。


 顔は穏やかだった。


 苦しんだ形跡も、慌てた気配も、ほとんどなかった。


 爺さんは毎日、必ずほんの少しでも牧場を自分で見て回ることを続けていた。


 それは、最後の最後まで変わらなかった。


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爺ちゃん、お疲れ様でした。
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