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就職先が倒産したので牧場を継いだら、俺だけ馬の声が聞こえるようになりました  作者: 萩原詩荻
第三章 ???

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第七十話 桜井明人

 静内の八月の夜は、静かだ。


 都会と比べて車の音も少ないし、人の声もしない。


 風が草を撫でる音と、建物や納屋が軋む音があるくらいだ。


 だが、牧場の夜は、別に無音ではない。


 馬がいる。

 息をする音がある。

 藁を踏む音がある。

 鼻を鳴らす音がある。

 腹が減っただの、眠いだの、そういうことを言っているのだろうなと思わせる気配がある。


 昔から、そういうものだった。


 ただ、最近はそれを「気配」で済ませられなくなった。


 孫が、本当にそれを聞いているからだ。



 その夜もいつも通り早く床に入った――はずだった。


 はずだったのに、目が覚めた。


 理由はない。


 ただ、目が覚めた。


 最近はこういうのが増えた。


 暗い天井を眺めたまま、しばらく呼吸を整えた。


 起き上がって、靴下を履き、上着を羽織り、帽子を被る。


 母屋の廊下を歩く。


 板がきしむのを知っているから、踏む場所を選ぶ。


 こそこそしているつもりはない。


 音を立てないようにしているだけだ。


 孫や桜坂を起こさないようにという優しさだ。


 外へ出ると、夏の夜気が肌にまとわりついた。


 冷たいわけではない。


 むしろぬるい。


 厩舎の方へ歩く。


 ……もう、一人で厩舎に行くのもつらいな。


 誰に言うでもない。自分の中でそう思っただけで、胸の奥が少しだけ痛くなった。


 昔なら、こんな夜中でも平気で出て行った。

 

 分娩がある。

 異変がある。

 足音や鼻息ひとつで気づくこともある。

 天気が荒れれば確認しなければならないことだらけだ。


 厩舎に行くのは、いつでも当たり前の仕事だった。


 なのに。


 足が、思ったより言うことを聞かない。

 背中が、思ったより曲がっている。


 そういうものの積み重ねが、夜中の厩舎を「少しだけ遠い場所」にする。


 それが少し悔しくて、しかし、もうどうしようもないことも知っている。


 それでも。


 歩きなれたこの場所なら問題はなかった。


 厩舎の扉を開く。


 最近の工事で開きやすく、静かに開くようになったな。

 助かる。


 ――厩舎の中の空気は、外より少しだけ濃い。

 

 藁と木と、馬の体温の匂いがする。


 暗がりの向こうで、何頭かが気配に気づいたらしい。


「ブルル」

「ブヒン」

「ヒヒーン!」


 低い声。短い声。やけに元気な声。


「……やっぱり、何を言ってるかはわからんな」


 何十年も牧場をやってきた。


 親父が牧場主だったころから、ずっとだ。


 何百頭、いやそれ以上の馬を見てきた。


 生まれるのも、育つのも、売れていくのも、壊れるのも、勝つのも、負けるのも見てきた。


 それでも、馬の言葉そのものはわからん。


 なんとなくわかることはある。


 腹が減っている、機嫌が悪い、怯えている、痛い、怒っている、甘えている。


 そういう気配なら、長い年月でだいぶ読めるようにはなった。


 だが、孫のようにはいかない。


 あいつは、本当に、会話をしている顔をする。


 最初にその様子を見た時は、さすがに頭がおかしくなったのかと思った。


 かかりつけ医に相談もした。


 だが、どうにもそうではなかった。


 あまりにも自然に、あまりにも平然と、馬の言葉を拾ってくる。


 危ないときに危ないと言い。


 嫌がっているときに嫌がっていると言い。


 体調がおかしいときに、それを拾ってくる。


 理屈は今でもわからん。


「……だが、孫の言うことだ。信じてはいる」


 ゆっくりと厩舎の中を見回した。


 ストーンブレイク。

 ミスタークラウン。

 サクライルドルフ。

 それ以外の繁殖牝馬も、当歳も、一歳も、現役馬もみんなそれぞれの場所にいる。


「ある意味、お前たちに教えておくのが一番確実だな」


 変な話だった。


 人間相手に話すより、馬相手に伝言する方が確実だと思う日が来るとは、昔は思いもしなかった。


 だが、考えてみれば理にはかなっている。


 孫以外には聞けない。


 だが、孫には届く。


 まず少し奥にいたストーンブレイクの前で立ち止まった。


 うちの牧場では何十年ぶりかの重賞を勝ってくれた牝馬。


「ストーン」


「ブヒン」


 鼻を鳴らす。


「朔に伝えてくれ」


 ストーンが、ゆっくりとこちらを見た。


「『困ったら天山を頼れ、それから部屋の金庫の番号は1028だ』と」


 番号が妻の誕生日だなどと、こいつらに説明する必要はない。

 だが、あの番号だけは忘れん。

 忘れようもない。


 天山には前々から頼んである。

 もしもの時は、朔のことを少し見てやってくれと。

 あの男なりに、もうとっくに気にかけてくれているのも知っている。


「ブルル」


 意味はわからない。

 だが、気のせいでなければ、「仕方ないね」とでも言っているような顔に見えた。


「なんだかんだ、朔はお前を頼りにしてる。頼むぞ」


 この馬は賢い。

 気位が高くて、だが根のところでは面倒見がいい。

 孫が困っていれば、きっとこいつなりに支えてくれるだろう。


 次に、ミスタークラウンの前へ行く。

 コイツの名前を聞いた時、孫の名づけセンスにはちょっと不安を覚えたものだ。


 こいつは、夜でもどこか妙に元気そうな気配をしている。


「クラウン」


「ヒヒン?」


「朔が泣いてたら、『落ち込んでる暇があれば働け』と言ってやってくれ」


「ヒヒン!?」


 なんとなく驚いている気がするな。


「驚くな。お前なら言えるだろう」


 この馬は、よく走った。

 派手な勲章はない。

 だが、壊れず、へこたれず、ずっと稼いできた。


 大仕事をする馬もいる。

 一発で世界を変えるような馬もいる。

 だが、こういう馬がいたから、うちの牧場は持ちこたえた。


「ヒヒン……」


 クラウンは、少しだけおとなしくなった。

 だが、孫が本当に駄目になりそうな時、たぶん真正面から笑って蹴飛ばせるのは、こいつだ。


「頼むぞ」


 それから、サクライルドルフの前に立つ。


 でかい名前をつけやがって、と最初は思った。


 だが、結果的にはその名に恥じないところまで行ってしまった。


 この牧場が持った、初めてのダービー馬であり、三冠馬だ。

 しかも天皇賞の盾まで飾らせてくれた。

 ……わけがわからんな。


 寝藁の上でうずくまっていたが、俺の気配に気づいてすぐ顔を上げた。


「ヒヒン!」


「ルドルフ」


 この馬は、生まれた時から、妙に人の顔をよく見ていた。

 わがままで、生意気で、甘え下手で、それでいて甘えん坊だった。


「お前のおかげで朔はだいぶ助かってる。これからも頼むぞ」


「ヒヒン!」


 短く、しかし力のある返事だった。


 その顔を見てわずかに目を細める。


 ルドルフが助けになったのは賞金だけじゃない。


 勝つたびに、牧場に未来が増えた。


 人が増え、門がついて、厩舎も直せた。


 孫が一人で背負わなくていい仕事が少しずつ増えた。


 そして何より、朔が胸を張れるようになった。


 それは大きい。


 おかげで、孫は孤独にならずに済むだろう。


 そのまま、他の馬房へも少しずつ歩いていった。


「お前は元気でいいが、怪我だけはするな」

「お前は桜坂に甘えすぎだ。困っているぞ」

「お前は飯を残しすぎだ。朔に配合を変えてもらえ」

「お前はもう少し他の馬に怯えないように頑張ろうな」


 年を取った繁殖牝馬にも、

 夏休みを満喫している現役馬にも、

 段々しっかりしてきた一歳馬にも、

 今年生まれた元気いっぱいな当歳にも、

 それぞれ一言ずつ、声をかけた。


 全部に、ほんの少しずつ声をかける。


 馬たちは、それぞれ短く声を返してくる。


 その意味はわからない。


 だが、夜の静けさの中で、やりとりをしている気分にはなれた。


 何十年も、馬と一緒にいた。


 朝も夜も、春も夏も秋も冬も、こいつらと一緒だった。


 面倒だったし、金もかかったし、いいことばかりじゃない。


 馬に人生を振り回されたと言ってもいい。


 それでも、振り返れば、全部この厩舎にある。


 畳もうかと本気で思った夜。


 それでも次の朝には、馬が飯を待っていて、結局また長靴を履いたこと。


 全部。


 厩舎の真ん中あたりで足を止めた。


 呼吸が少しだけ重い。


 胸の奥が静かに軋んでいる。


「ああ、立派に育った孫に牧場を継がせて、お前らのような馬を持てて……もう、悔いはない」


 その言葉は、思っていたよりもすんなりと出た。


 自分で少し驚いた。


 孫がこの先どんな牧場主になるのかも見たい。


 ルドルフがどこまで行くのかも見たい。


 もっと牧場を大きくしたかった。


 もっと多くの馬を残したかった。


 息子たちが継がないことを飲み込めない時期もあった。


 妻にも、もう少し長く生きていてほしかった。


 だが、それでも。


 やるだけはやった。


 そう思えてしまった。


 踵を返し、厩舎の戸口へ向かって、ゆっくり歩き出す。


 その時だった。


「爺ちゃん!」


 はっきりと、声が聞こえた。


 足が止まる。


「なんだよ!そんな死ぬみたいなこと言うなよ!!」


 ゆっくり振り返る。


「俺!もっと勝つから!楽できるようにするから!!いっぱい撫でてくれよ!!!」


 今のは、なんだったのか。


 気のせいか。


 疲れか。


 年寄りの都合のいい幻聴か。


 それとも、本当に。


「……ルドルフ、か?」


 声に出すと、自分でも少し笑いそうになった。


「なんだ、相変わらず甘えん坊だな」


 近づいていく。


 ルドルフの額をそっと一撫でする。


 何度もやった、慣れた手つきだった。


 鹿毛の皮膚の下にある熱が、手のひらに伝わってくる。


「すまんな。これからは朔に撫でてもらえ」


「ヒヒン!ブヒン!!」


 今度は、ただの馬の嘶きだった。


 だが、それでいい。


 孫の言っていることが本当だと、神様とやらが教えてくれたのかもしれない。


 あるいは、最期が近い年寄りの耳が、都合よく何かを拾っただけかもしれない。


 そんなことは、もうどちらでもよかった。


「……じゃあな」


 それから、今度こそ厩舎を出た。


 扉を閉める。


 空には星が出ていた。


 昔から何度も見上げてきた、静内の広い夜空だ。


 部屋に戻り、布団に入った。


 天井が見える。


 暗い。


 静かだ。


「……ああ」


 今夜は、よく眠れる気がした。



 翌朝。


 いつもなら、爺さんは朝には必ず一度、厩舎へ顔を出す。


 それが、出てこなかった。


 珍しい。


 部屋へ行った。


「爺さん、大丈夫か?」


 返事がなかった。


 扉を開けた。


 見ただけでわかってしまった。


 わかりたくないのに、わかってしまった。


 布団の中で、爺さんは眠るように逝っていた。


 顔は穏やかだった。


 苦しんだ形跡も、慌てた気配も、ほとんどなかった。


 爺さんは毎日、必ずほんの少しでも牧場を自分で見て回ることを続けていた。


 それは、最後の最後まで変わらなかった。


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爺ちゃん、お疲れ様でした。
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