第六十六話 春の天皇賞って響きにはなんか特別感ある気がする
「朔くーん、町内会長さんから来週の予定についてメール入ってるよー」
松さんから声をかけられるが、即答できない。
「えーと、たぶん弥生ちゃんがまとめてた気が……」
「朔さん、『今日天皇賞勝ったら緊急取材受けてもらえるか?』って電話が」
竹さんからも声が飛んでくるが、今日の予定……えーと。
「今日の予定は多分弥生ちゃんが残してくれたメモが……」
いないと、弥生ちゃんの偉大さを実感するなぁ。
「……朔くん、今日の晩御飯は?」
「弥生ちゃんが作り置きしてくれたおかずがあります」
ピタッ。
……ん?
松竹梅さんたちと仕事を捌いていたら急に空気が固まった。
「……朔くん」
梅さんが、重々しく言う。
「はい?」
「次回から弥生ちゃんにレース見に行ってもらうのやめましょうね」
「う」
「というか、朔くんいい加減色々覚悟したら?」
「えーと、あ、そろそろパドックの時間なので母屋に帰りますね!!」
「あ、逃げた!!」
誰だ今逃げたって言った人。
全員笑ってるだろ、わかってますよ。
◇
「どう、もうパドック始まってる?」
「丁度いま始まったところだ」
事務所から逃げて、母屋の居間に戻ると、爺さんが湯呑みを片手に、テレビを眺めていた。
今日は天皇賞春である。
京都競馬場、芝三千二百メートル、GⅠ。
松さんたちや、最近また増えたスタッフさんたちのおかげで、こうしてテレビをゆっくり見る時間くらいはある。
俺も弥生ちゃんと一緒に行こうかと少し思ったが、なんとなく爺さんと一緒に見る方がいい気がした。
「爺さん、『天皇賞はやっぱり特別だ』って昔言ってなかったっけ」
爺さんは視線をテレビから外さないまま、短く答えた。
「……そうだな」
「行けばよかったのに」
そう言うと、爺さんはふんと鼻を鳴らした。
「桜坂が行っただろ」
そう、今回は弥生ちゃんがレースを見に行ってくれている。
その結果が事務所の惨状なのだが、まあそれはいい。
「一緒に行ったって良かったじゃん」
「飛行機代がもったいない」
「飛行機代くらいなら今は出せるのに……」
「お前、最近ちょっと金の使い方が雑だ」
う、ちょっと自覚ある。
あ、ルドルフが映った。
爺さんが画面を見ながら、ぼそっと言った。
「ルドルフ、相変わらず偉そうだな」
「うん」
「誰に似た」
「カスタードとストーンの悪いところ抽出して、クラウンが教育した感じかな」
「災難だな」
「手のかかる子ほどかわいいって言うでしょ?」
爺さんが、ほんの少しだけ口元を動かした。
笑ったのかもしれない。
「……あの甘ったれが立派になったもんだ」
その言い方が、あまりにも爺さんらしくて、俺は少し笑った。
「そうだね」
「ああ」
少しだけ、沈黙。
「……爺さん」
「なんだ」
「春の天皇賞ってどういうところが特別なの?」
折角なので素直に聞いてみた。
「……スタミナに根性、賢さ」
爺さんが、ぽつぽつと言う。
「騎手も調教師も、馬自身も、全部試される。そういうレースだ」
「へえ」
「だから特別なんだろう」
爺さんがこうやってちゃんと説明するの、結構珍しい。
だから、少しだけ嬉しい。
「じゃあ、ルドルフが勝ったらすごいな」
「今さら何を言う」
「いや、だって」
俺はテレビの中のルドルフを見ながら言った。
「改めて考えると、あいつ、わりととんでもないとこまで来たなって」
だって、少し前まで、うちの牧場にとって“オープン馬”ですらすごかった。
それが今、ルドルフは春の古馬GⅠに当たり前みたいな顔で出ている。
頭おかしくなる。
爺さんは俺の感想には何も答えずにお茶を一口飲んだ。
でも、否定もしなかった。
爺さんはテレビから目を離さないまま、重ねる。
「……お前もまあまあ頑張っとる」
「うん、ありがとう」
その会話が、あまりにも普通で、でも、だからこそ胸にくる。
大げさなことは何もない。
わかりやすい言葉はない。
でも、爺さんの中では、これがかなり大きい言葉なのだ。
俺は知ってる。
「ルドルフが無事に帰ってきたら褒めてあげようね」
「お前は甘やかしすぎだ」
そうでもないと思ってるんだけどなぁ。




