第六十五話 大阪杯は兵庫県で行われています
『これは強い!サクライルドルフ先頭!!鞍上持ったまま!!桜の皇帝、今年も危なげなし!!一着でゴールイン!!!』
「……うわぁ」
とだけ、言った。
それが一番しっくりくる気持ちだった。
強すぎて、ちょっと引く時のやつだ。
馬主席のあちこちでも、ざわめきが広がっていた。
「やはり、強い」
「今年に入っても安定してますね」
「……ルドルフを倒すには、やはり……」
嬉しい。
普通にめちゃくちゃ嬉しい。
でも、皐月賞の時みたいに頭の中が真っ白になる感じではなかった。
それが、少しだけ怖かった。
「……慣れるの、ちょっと嫌だな」
ルドルフがGⅠを勝つことに、当たり前みたいに慣れていくのは、なんか違う気がした。
当たり前じゃない。
幸せなことだ。
すごく、ありがたいことだ。
でも、だからこそ、変に慣れちゃいけない気がした。
「……よし」
俺は一度だけ深呼吸をした。
落ち着け。
まずは、「今日がんばったな」ってルドルフを褒めに行こう。
◇
「あ、桜井さん」
馬主席を出たところで、さっき鼻の違和感があった馬の馬主さんと出会った。
……これ、もしかしなくても待っててくれた感じ?
「まずは、おめでとうございます」
「あ、いえ。ありがとうございます……その、どうでしたか?」
俺がドキドキしながら聞くと、馬主さんは少しだけ表情を引き締めて頷いた。
「はい、軽い鼻出血を起こしてました。パドックの前後あたりでどこかに軽くぶつけたようです」
「……ああ」
思わず息が漏れた。
「おかげ様で大事には至りませんでした。本当にありがとうございます」
「いえいえいえ!!」
俺は慌てて首を振る。
「そんな!むしろ信じてくださってありがとうございます」
今思い返しても、よく信じてくれたな。
馬主さんは、少しだけ笑った。
「お礼に、今度一席ご馳走させてください」
「本当に気にしないでください!というか、むしろこっちが変なこと言ったのにちゃんと対応してもらって……」
「桜井さん」
馬主さんは、ちょっとだけ笑って俺の言葉を止めた。
「異常に気づいたとしても、言いに来るのは簡単なことじゃありません」
「……」
「競馬の関係者は、そういうところをちゃんと見ていますよ」
その言い方が、やわらかいのに妙に真っ直ぐで、少し照れくさくなった。
「ありがとうございます……」
頭を下げる。
馬主さんも頷いて、そのまま穏やかに去っていった。
俺はその背中を見送りながら、少しだけ息を吐く。
「……よかった」
ルドルフを褒めてやらないとな。
◇
検量室の近くまで来ると、もう空気が違っていた。
えーと、あ、いた。
レース直後だというのに、なんかもう、「当然ですが?」みたいな顔をしている。
あいつ、本当にそういうとこすごいよな。
「ルドルフ」
俺が声をかけると、ルドルフがぴくっと耳を動かしてこっちを見た。
そのまま近づいて、首筋を撫でた。
「すごかったぞ、ルドルフ」
その瞬間、ルドルフの表情がゆるんだ。
「当然です」
外面の返事だが、明らかにドヤ顔である。
「今日もカッコよかったぞ」
「ふっ」
クロエさんが、ルドルフの首筋をぽんと叩く。
「うん、えらいえらい。今日は完璧だった」
「ふふん」
まあ、なんか「完勝!」って感じのレースだったもんなぁ。
岡部さんも、穏やかな顔で頷いた。
「うん。今日は理想にかなり近かったね」
「え?近かったってことは未だ上があるんです?」
「うん」
岡部さんがさらっと言う。
さらっと言うなぁ。
やっぱりすごいな、この人たち。
「ねえ、朔」
「ん?」
ルドルフは少しだけ顔を寄せてきた。
声の温度が、だいぶ身内寄りだ。
「爺ちゃんはもう見に来てくれないの?」
その一言に、俺は一瞬だけ言葉に詰まった。
「あー……」
んー。
ダービーと菊花賞と有馬記念は爺さんが見に行った。
でも、やっぱり、昔と違って体調が万全とは言えない。
普通に働こうとするけど。
そして何より、頑固爺なので、自分から「行きたい」とは絶対言わない。
だから、俺はちょっとだけ笑って答えた。
「そうなぁ、まあ、夏になったら牧場に帰ってきて甘えるといい」
「むぅ」
本当にむぅって顔だった。
「なんだよ、その顔」
「だってぇ……」
ルドルフは少しだけ耳を伏せた。
相変わらずわがままな皇帝である。
とは言っても、毎回爺さん来るわけにもいかないし……あ、そうだ。
「じゃあ、次回は弥生ちゃんに見に来てもらうか?」
俺がなんとなく言うと、ルドルフの顔がぱっと変わった。
「あ、じゃあ『写真撮るから可愛い恰好して来い』って弥生に言っておいて」
「ホントにすごいな、お前」
「だって、勝つから」
当たり前のように勝つ前提で言ってやがる。
ルドルフの声がわからずとも、何となくやり取りの内容がわかったのだろう。
横で岡部さんが、穏やかな声で言った。
「次回、は今のところ天皇賞春の予定かな」
「あ、そうなるんですね」
「うん、朔くんとルドルフとクロエさんが良ければ、だけど」
天皇賞春、芝3200mのGⅠ。
いや、長すぎるだろ。
爺さんが昔「天皇賞はやっぱり特別だ」と言っていたくらい凄いレースだ。
クロエさんは、そんな空気をふわっと崩した。
「まあまあ、気が早いよ」
そう言って笑い、ルドルフの首筋をぽんと叩く。
「まずは今回の口取りと表彰式行こう」
「あ、そうですね」
俺は素直に頷いた。
そうして、クロエさんが空気を緩めてくれたおかげか、ぽろっと本音が出てしまった。
「……感覚が麻痺しそうで怖いです」
俺がぽろっとそう言うと、一瞬、静かになる。
ルドルフは「?」って顔だ。
たぶんこいつにはなんのことかわからないだろうな。
勝つのが当然だと思ってるから。
でも、岡部さんとクロエさんにはちゃんと伝わったらしい。
岡部さんが、いつもの穏やかな声で言った。
「怖がっていられるうちは大丈夫だよ」
「……そうですかね」
「うん。慣れたと思って雑になる方がよっぽど危ない」
その言葉は、すごくしっくり来た。
クロエさんが、そんなやり取りを笑顔で見たまま、軽く手を動かした。
「さ、行こうか」
「はい」
その声に合わせて、俺も一歩前に出る。
あ、ルドルフにも教えてやらないと。
「ルドルフ」
「ん?」
「さっきの馬、軽い鼻出血で大事にならずに済みそうだって」
ルドルフは小さく頷いた。
「良かった」
その一言が、妙にまっすぐだった。
うん、そういうところ偉いぞ、と軽く撫でてやったら頬を少しだけ寄せてきた。
こういうところ見ると少し安心するなぁ。
◇
……ちなみに。
俺は帰りに悩みに悩んだ末に、結構頑張って調べたお店でたこ焼きを食べた。
自分自身に「俺は慣れてない」、「これは贅沢だ」と言い聞かせながら。
とてもおいしかったです。




