第六十一話 強い馬ばかり集めたらそりゃ怖いに決まってるだろ!!
ファンファーレが鳴っている。
中山競馬場の空気が震えている。
年末のグランプリ。
GⅠ、有馬記念。
ファン投票で選ばれた馬たちが走る、年末の大一番。
つまり、人気と実力と期待と欲望と夢と馬券が、まとめてこのゲート裏に押し込まれている。
そして俺――グラスカフェは。
「こええよお……」
普通に震えていた。
いや、怖いだろ。
周りを見ろ。
全員、強そうなんだよ。
なんで俺ここにいるの?
いや、選ばれたからだよ。
ファン投票で、俺の名前を書いてくれた人間がいるからだ。
それは、めちゃくちゃ嬉しい。
誰だよ。
ありがとう。
今度、草をちょっと美味しそうに食う顔、サービスしてやる。
いや、そんな余裕あるかはわかんないけど。
俺は皐月賞三着、ダービー三着、菊花賞五着。
重賞も勝ってる。
断じて弱くはない。
そこは胸を張っていい。
いいはずなんだが。
今年の三歳牡馬には、サクライルドルフとゴールデンビールがいた。
無敗の三冠馬とかいう意味の分からないやつ。
それと、朝日杯馬で、皐月賞二着、ダービー二着、しかも凱旋門賞も二着してきたバケモノ。
おかしいだろ。
なんで同じ世代にそんなのが二頭もいるんだ。
「よう、久しぶりじゃねぇか」
低い声が聞こえた。
その声だけで、俺はびくっとした。
振り向くと、栗毛の古馬が、隣の黒鹿毛に声をかけていた。
どっちもGⅠ馬。
GⅠ馬ってそんなポンポンいていいもんじゃなくない?
「ふん、気楽に話しかけんじゃねえ」
「相変わらずだな」
「お前こそ、衰えたんじゃねえのか」
「今日確かめてみろよ」
怖い。
会話の温度が怖い。
久しぶりの友達じゃないの?
なんで再会第一声が殺気混じりなの?
俺なら「ひ、久しぶりー、元気だったー?」って言うぞ。
さらに別の場所では、いかにも古馬の王者ですみたいな栗毛が、澄ました顔の馬に声をかけていた。
「貴様がルドルフか。世代最強か知らんが、古馬にそう簡単に勝てると思うなよ」
あれは、たしかゴールデンローレル。
一つ上の世代のゴールドファームのエース。
去年のクラシックで暴れて、古馬になってからもGⅠを勝っている、正真正銘のバケモノ。
「ええ、楽しみにしています」
返事してるのはサクライルドルフだった。
おい。
おいおいおい。
ルドルフ。
お前、そっち側に混じってんじゃねぇよ!?
俺たち三歳だろ。
もっとこう、初めての有馬記念で、
「わあ、古馬の皆さん、すごいですね」
みたいな顔しろよ。
なんでお前、
「まあ、勝ちますが?」
みたいな顔してんだよ。
多少は緊張しろ。
ムカつく。
でも、あいつが強いのは知っている。
俺はあいつの背中を見てきた。
いや、正確にはダービーはゴールデンビールとの叩き合いをちょっと後ろから見ていた。
なんだあれ。
こっちも全力で走ってるのに、あの二頭だけ別の画面でバトルしてるんだよ。
しかも観客はそっちばっか見る。
わかるよ。
見るよ。
俺だって自分が走ってなかったら見るよ。
でも俺も走ってんだよ!
そのことを人間ども、たまにでいいから思い出してほしい。
ゲートに入る。
金属の枠。
狭い視界。
前方の空気。
隣の馬の呼吸。
歓声が、遠くて近い。
有馬記念のゲートの中は、怖い。
俺の隣の古馬が、話しかけてきた。
「……おい」
「ひっ」
声が出た。
やめてくれ。
俺に話しかけないでくれ。
俺はまだ大人に免疫がないんだ。
「お前、ビビりすぎだろ」
「び、ビビってねぇし!」
言い返した瞬間、後悔した。
やばい。
古馬に喧嘩売った。
死ぬ。
でも、その古馬は、ふっと鼻を鳴らしただけだった。
「いいぞ。そういう顔で走れ。グランプリはそういう場所だ」
「え?」
なんだこの急にいい先輩みたいなやつ。
怖い。
優しくされる方が逆に怖い。
怖いけど。
少しだけ、誇らしい。
俺はここにいる。
グラスカフェは、ここにいる。
全馬が収まった。
世界が止まる。
ファンファーレの余韻が消え、ざわめきが薄くなり、すべてが一瞬だけ前へ向かう。
ガシャンッ!!
ゲートが開くと同時に飛び出す。
俺はすぐに位置を取る。
ルドルフの内側。ぴったり。
よし、ここだ。
ルドルフに先に行かせすぎると追いつけなくなる。
かといって無理に前へ行くと、後で死ぬ。
だからここ。ここだ。
「……」
ルドルフは前を見たまま、まるでこっちを意識してないみたいな顔をしている。
でもたぶん、絶対わかってる。
わかってるけど、知らんぷりしてる顔だ。
腹立つなほんと。
澄ました面も気に食わないし、こいつとビールのせいで話題が持ってかれるのも気に食わない。
でも、それはそれ。
強いのは知ってる。
だからこそ、ぴったり行く。
中山のコーナーを回る。
観客席の熱が横から押し寄せる。
俺の名前を呼ぶ声もあった。
「グラスカフェー!」
聞こえた。
ちゃんと聞こえた。
嬉しかった。
その声だけで、少しだけ脚に力が入った。
俺を見てくれてる人間がいる。
ルドルフでもビールでもなく、俺の名前を呼んでくれる人間がいる。
なら、やっぱりみっともない競馬はできない。
第三コーナー。
空気が少しずつ動く。
ここだと思った瞬間だった。
ルドルフが、するっと抜けた。
……なんだそれ。
こっちは「よし行くぞ!」って準備してるのに、そっちは「では行きます」くらいの顔で行くなよ。
毎回、あいつこういう感じなんだよな。
自然に前へ出る。
無理に押してる感じじゃないのに、気づいたら一枚前にいる。
「待てよ!」
俺は反射で追いかける。
でも、少し離れる。
くそ。やっぱり速ぇ。
しかも、周りの古馬たちも速ぇぇよお!!!
何こいつら!?
第三コーナーから第四コーナーにかけて、全員ギアの上がり方おかしくない!?
追う。
必死に追う。
内側の馬群を捌きながら、前へ出る。
直線。
前でルドルフが、先頭の馬に襲いかかる。
やっぱり強い。
あいつは、こういう場所でも怯まない。
古馬の圧も、有馬の歓声も、全部正面から受けて、それでも前へ行く。
ああ、くそ。
ムカつく。
ムカつくけど、かっこいい。
そう思ってしまった瞬間。
背後から、低い声が聞こえた。
「どけ、ガキ」
ぞわっとした。
振り向く余裕なんてない。
でもわかる。
何か、でかいものが来ている。
次の瞬間、外から黄金色の気配が一気に抜けていった。
ゴールデンローレルだ。
「うわあああああ!?」
速い。
末脚が怖い。
何あれ。
後ろから来る脚じゃないだろ。
ワープだろ。
ローレルは、そのままルドルフを追っていく。
そして俺は、一瞬、その勢いに飲まれかけた。
外から古馬たちが来る。
内からも粘る馬がいる。
俺の脚も、もう楽じゃない。
ここで沈むのは簡単だった。
でも。
ああ、やっぱり三歳で通用するのはルドルフだけだ。
ビールがいないと三歳世代はこんなもんだ。
そう言われる未来が、頭をよぎった。
ふざけるな。
ふざけるな。
ふざけるな!
「言わせねぇ……!」
俺は歯を食いしばる。
ルドルフとビール以外の三歳馬がだらしないなんて言わせない。
俺だってここにいる。
グランプリなんだ。
俺に投票してくれた人間がいるから、俺はここを走ってるんだ。
俺の名前を呼んでくれた人がいる。
俺を選んでくれた人がいる。
なら。
言わせない。
言わせない。
言わせない!
「うおおおおおおおおお!!」
脚を伸ばす。
もう苦しい。
めちゃくちゃ苦しい。
坂がある。
中山の坂がある。
知ってる。
でも行く。
前にはルドルフとローレル。
その少し後ろに強い古馬たち。
俺はその中で、必死に踏ん張る。
抜かせない。
少なくとも、簡単には抜かせない。
もう順位なんかわからない。
わからないけど、前へ。
とにかく前へ。
俺は、ここで消えない。
消えてたまるか。
ゴール板が迫る。
俺は、最後の力で首を伸ばした。
前へ。
一つでも上へ。
一頭でも前へ。
俺たちの世代は、ルドルフとビールだけじゃない。
俺もいる。
グラスカフェも、ここにいる!
……。
ゴール。
……終わった。
肩で息をする。
肺が焼ける。
脚が重い。
周りの音が遠い。
結果?
知らん。
知りたくない。
でも、嫌というほど分かる。
たぶん五着。
掲示板には、残った。
勝ち負けには絡めなかったけど、消えはしなかった。
くそ。
くそぉ。
前を歩くルドルフとローレルが見えた。
実況が、まだ叫んでいる。
『無敗の三冠馬!年末のグランプリも制しました!サクライルドルフ!古馬も退けて、堂々たる勝利です!!』
一着は、サクライルドルフ。
二着が、ゴールデンローレル。
あー。
また勝った。
あいつ、また勝った。
有馬記念まで勝つのかよ、あいつ。
ルドルフの横にローレルが並び、低く笑っている。
「やるじゃねぇか、クソガキ。ビールに勝っただけはある」
「あなたも速かったです。楽しかったですよ」
「ぬかせ」
ローレルは鼻を鳴らした。
「……次は俺が勝つ」
「ええ、楽しみにしています」
あー!
ムカつく!
ムカつくムカつくムカつく!
なんだその会話!
なんでお前ら、強者同士の次回予告みたいな空気を出してるんだよ!
こっちは今、五着で肺が燃えてるんだぞ!
でも。
それでも。
俺も、足を前へ出した。
「ルドルフ」
声をかける。
ルドルフがこちらを見る。
「あ、グラスさん。お疲れ様です」
お前、そういうところだぞ。
「ぐっ……」
悔しい。
めちゃくちゃ悔しい。
でも、言わなきゃいけない。
こいつは今日、勝った。
古馬を倒して。
グランプリを勝った。
「おめでとう」
言葉が、喉の奥から絞り出される。
「俺たちの世代代表」
ルドルフは、一瞬だけ表情を変えた。
いつもの澄ました顔が、ほんの少しだけほどけた気がした。
それから、静かに頷く。
「……ええ。ありがとうございます」
くそ。
やっぱりムカつく。
こういう時にちゃんと返すのもムカつく。
いつか。
いつか絶対。
その澄ました顔を、ぐしゃっとさせてやる。
まずは。
まずは、年末くらいは、うまい草食って寝る。
それは譲れない。




