第五十六話 桜坂弥生
ダービーを勝った牧場、という響きは、ものすごく華やかだ。
雑誌の特集とか、テレビとか、スポーツ紙とか、そういうところで見るぶんには、だいたいキラキラしている。
ただ。
「はい、桜井牧場です。……はい、取材の申し込みですね。今月ですと――少々お待ちください」
受話器を肩と頬で挟みながら、台所のテーブルの上に広げたスケジュール帳をめくる。
赤ペン、青ペン、付箋、謎のメモ。
誰が見ても“限界の人の机”みたいになっている。
「……はい、十五分でしたら対応可能です。はい、ありがとうございます」
受話器を置く。
置いた瞬間、次の電話が鳴る。
「はい、桜井牧場です――」
はい、電話担当、桜坂弥生です。
最近はほぼ“受付嬢”です。
違います、本業は牧場スタッフです。
たぶん。
ダービーから一週間。
牧場の実情はこんなもんです。
あ、人は増えてます。
松さん、竹さん、梅さん。
それに繁忙期だけ手伝いに来てもらっている農業高校の男子たち。
なのに、余裕はあんまり増えてません。
おかしいですね?
……ちなみに、全員、男性です。
偶然ですね。
偶然に決まってるじゃないですか。
たまたまです。
学校へ相談した時、「できれば臨時バイトは男の子でお願いします」と、私はとても自然な声でお願いした。
あくまで自然に。
なんなら「牧場って力仕事も多いですし」と、もっともらしい理由まで添えて。
さらに正式に人を雇う時も、朔さんは、
「弥生ちゃんが一緒に働きやすいと思う人が大事だから」
とか言って、最終的な判断を私に任せてくれた。
ありがとうございます。
本当にありがとうございます。
少なくとも、「女性が他にいなくて働きづらくない?大丈夫?」って、
ちょっと申し訳なさそうに聞いてきた朔さんは、本当に何もわかっていない。
あの人、だいぶダメですよね?
でもですね。
増えたのは仕事だけじゃないんですよ。
増えたんです。
見物客が。
取材が。
電話が。
お祝いが。
「弥生ちゃん、また花届いたぞー!」
松さんが玄関から叫んでます。
「え、どこからですか!?」
「なんか“ゴールドファーム一同”って書いてある」
「うわあ……」
金持さん、絶対ノリノリですね。
あとで朔さんに押し付けます。
「弥生さーん、これどこ置きますー?」
竹さんの叫び声も聞こえる。
「え、まだあるんですか!?」
「トラック一台分」
「えっ」
お祝い、物量で殴ってくるのやめてください。
小さい牧場なんですよ、ここ。
飾る場所がないんですよ。
ほんとに。
「お疲れですか?」
いつの間にか、後ろに梅さんが立っていた。
無駄に気配を消さないでほしい。ちょっとびっくりする。
「少しだけ」
「お茶、いれます」
「神様ですか?」
「ただの従業員です」
「梅さん、一生働いてください」
「それは給与と相談で」
真顔で返してくるの、ちょっと面白い。
でも、ありがたい。
そういえば、先日は近所の牧場の人たちや、少しお世話になった方たちが集まって、ささやかな祝いの宴会もあった。
ささやか、とは言ったが「いやあ、ダービー馬だもんなあ!」と気持ちよく飲み始めると、ささやかでは済まない。
全員翌朝も仕事があるはずなのに、すごい飲んでた。
でも、ああいう席で嬉しそうにしているお爺さんを見るのは、悪くなかった。
悪くなかったのだけれど。
その翌日、お爺さんはきっちり疲れが出て部屋で休んでいた。
いや、正確には「休んでいるはず」だった。
しばらく静かだなと思っていたら、普通に帽子を被って外へ出ようとするのだ。
「お爺さん、どこ行くんですか」
「見回りだ」
「休んでてください」
「少し見るだけだ」
「その『少し』が二時間になるんです」
「ならん」
「なりました。一昨日」
「……そうだったか」
「そうです」
「お前、言うようになったな」
「お爺さんに倒れられても困るので」
こんなやり取りもあった。
あった、のに、しれっと見回りに出る。
あれは本当に良くない。
体調が心配なのもあるけれど、それ以上に、外で取材陣に見つかると面倒くさいのだ。
何せ今のお爺さんには、
『ダービー馬を育てた名伯楽』
『寡黙な名牧場主』
『小さな牧場の最後の砦』
みたいな、勝手な肩書きが複数ついて回っている。
本当にやめてほしい。
なので、職員全員に通達済みです。
捕獲対象:お爺さん。
なんなんですかこのミッション。
そんな時でした。
また電話が鳴る。
「はい、桜井牧場です」
『ああ、桜坂さんかな。朔くんはいるかね』
低く、落ち着いた声。
でも、その落ち着きの中に妙な圧がある。
あ、と思った。
「天山さんですか?」
『うん。覚えていてくれて嬉しいね』
「もちろんです。少々お待ちください」
受話器を押さえてから、私は厩舎の方へ顔を向けた。
「朔さーん!」
「んー?」
遠くから気の抜けた返事。
放牧地の方ですね。
「天山さんから電話です!」
「今行くー!」
……『今行くー』じゃないんですよ。
走ってください。
走って。
◇
というわけで、朔さんと代わって私は外へ出ました。
外の空気。
いいですね。
放牧地の方から、ブヒンブヒン聞こえる。
これは、あれですね。
絶対あれです。
あの子です。
「……はあ」
ちょっとだけ肩の力を抜いて、歩いていく。
柵の向こう。
いました。
サクライルドルフ。
そして、その周りに集まる馬たち。
「ヒヒーン!!」
「ブルルル!!」
「ブヒヒン!!」
何か盛り上がってる。
「ルドルフ」
声をかける。
こっちを向く。
ああ。
この顔。
今演説してましたね。
私にはわからないですけど。
でも、わかるんです。
なんとなく。
「はいはい」
近寄ってきたので、軽く頭を撫でる。
無敗の二冠馬様なのに、撫でると、ちょっとだけ嬉しそうな顔をする。
単純。
かわいい。
こういうところ、普通に甘えん坊ですよね、あなた。
「お疲れ様」
そう言って、ぽん、と軽く叩く。
ルドルフは、鼻を鳴らした。
うん。
ご機嫌ですね。
秋のレースに備えて、夏は帰ってくることに岡部さんや朔さんが決めたらしいです。
まあ、のんびりはしてますね。
少し横を見る。
ストーンブレイク。
いつもの位置で、静かにこちらを見ている。
「ストーン」
声をかける。
ゆっくりと首をこちらへ向ける。
たぶん何か返している。
もちろん聞こえない。
でも、この空気はわかる。
たぶん今、すごくドヤ顔してる。
息子がダービーを勝った母親だ。
そりゃ、ドヤ顔もするだろう。
「ストーンも、すごいお母さんだね」
そう言うと、ストーンはふんと鼻を鳴らした。
たぶん今、「当たり前だろう?」みたいなことを言っている。
そのすぐ横で、ルドルフがまた何かぶひぶひ言い始めた。
たぶん自分の武勇伝だ。
いや、絶対そうだ。
仕方ない。
ダービー馬だもの。
少しくらい――いや、かなりドヤっても、まあ仕方ない。
私は、放牧地の馬たちを見回した。
当歳たちは今日も騒がしい。
一歳たちはなんだかんだで生意気だ。
クラウンがいたら絶対もっとうるさい。
こうして風の中で馬たちを見ていると、結局ここはいつもの桜井牧場だなと思う。
忙しい。
でも。
たぶん。
悪くない毎日です。
私はルドルフの首筋を最後にぽんと叩いた。
「ほどほどに偉そうにしててくださいね」
ルドルフは、たぶん、『ほどほどとは……?』みたいな顔をしていた。




