第五十五話 夢
写真判定を待つ時間というのは、どうしてこう長いのだろう。
長い、といっても、たぶん実際にはほんの数分か、その程度なのだと思う。
調教師という仕事をしている以上、判定を待つのは別に初めてじゃない。
けれど、競馬の写真判定待ちというのは、いつだって人の体感時間を平気で壊す。
しかも、東京優駿が写真判定だというのならなおのことである。
場内の歓声はさっきの直線の爆発を一度使い切ったあとで、今は妙なざわつきに変わっている。
調教師という仕事は、レース中は何もできない。
厩舎で仕上げ、追い切りを積み、枠順を見て、相手関係を考え、騎手と話し、輸送を無事こなし、あとは祈るしかない。
祈る、という言い方は、普段は好きじゃない。
でも、写真判定の間だけは、少しだけ祈るに近いことをしている気がする。
「いやあ……」
思わず、口の中だけで呟いた。
クロエさんも、隣でまだヘルメットを手にしたまま、少しだけ息を乱していた。
珍しいことだ。
クロエさんが、ルドルフの首筋を軽く叩きながら言う。
「すごかったよ、久しぶりにこういうダービー乗った」
もちろん表情は笑っている。
笑ってはいるが、この騎手がどれだけ精魂をつぎ込んでくれたかわからないようでは調教師は務まらない。
少し離れたところで、ゴールデンビールの陣営も静かに結果を待っている。
その時、背後から足音が近づいてきた。
「岡部」
振り返ると、桜井のお爺さんだった。
背筋の通った、いかにも頑固そうな老人。
もう何十年の付き合いになるだろう。
私がまだ助手だった頃、桜井牧場は今よりずっと頭数がいて、忙しくて、でも妙に活気があったものだ。
「すごいレースでしたね」
私が言うと、桜井さんは鼻を鳴らした。
「最後までわからんかったな」
「ええ」
それだけの会話。
この人と話していると、言葉は少なくて済む。
「ルドルフは頑張ってくれましたよ」
「ああ、知ってる」
桜井さんの短い返事に、隣でルドルフも耳をピクリとさせる。
ルドルフはよく頑張った。
あそこまでやったなら、どちらでも文句はない――と、口では言える。
でも、皐月賞馬がダービーも勝つ。
しかも、小さな牧場から出てきた無敗馬。
そんなことになったら、もう“面白い”じゃ済まない。
競馬全体の空気が変わる。
そんなことを考えた瞬間だった。
場内のざわめきの質が変わった。
人間というのは、何かが決まる一瞬前だけ、妙にわかりやすい。
「……」
私はターフビジョンを見た。
写真判定の表示が、消える。
次の瞬間――
一着――サクライルドルフ。
二着――ゴールデンビール。
差――ハナ。
東京競馬場が、一拍遅れて割れた。
歓声。拍手。どよめき。
遅れて、私の中にも結果が落ちてくる。
「……はあ」
気づけば、大きく息を吐いていた。
隣で、クロエさんが小さく「Yeah」と言った。
その声は抑えていても、十分すぎるほど喜びに満ちていた。
そして、桜井さんは。
「……ああ」
それだけ。
だが、その「ああ」は、重かった。
長い長い時間の先に、ようやく置かれた一言みたいだった。
その手が、ほんの少し震えているのを私は見た。
見たが、言わなかった。
「おめでとうございます」
私は、まずその一言を言った。
桜井さんはしばらく無言だったが、やがて低く言った。
「……よくやった」
そのまま、ルドルフを優しく撫でる。
ルドルフは「ヒヒン!」と短く鳴き、尻尾をぶんぶん振っている。
危ないぞ。
ルドルフは、今、ものすごく喜んでいる。
普通の人間には、朔くんと違って馬の声は聞こえない。
だが、馬と長く付き合っていれば、それなりにわかる。
今のルドルフが「爺ちゃん褒めて!!」と全力で言っていることくらい、わかる。
「喜んでますね」
私は、少し笑って言った。
「身体は立派になっても甘えん坊で困る」
桜井さんも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
私は、自然と顔が綻ぶのを止められなかった。
調教師という仕事は、喜び方がいつも少し遅い。
レースが終わっても、馬が無事か、脚はどうか、次にやることは何かが先に来る。
それでも今日は、ちょっとくらい浮かれてもいいだろうと思った。
◇
そこから先は、勝った馬の関係者だけが知る忙しさだった。
勝ったから終わり、ではない。
口取りをやって、表彰式もある。
「岡部先生、こちらお願いします」
「勝利騎手インタビューの段取りが――」
「口取りの方、人数確認いたします」
「オーナー関係者の方はこちらへ――」
忙しい。
でも、この忙しさは嫌いじゃない。
桜井さんは、係の人の説明を黙って聞いていた。
派手なリアクションも、気負った様子もない。
私はその横に並んだ。
「ダービーですよ」
何の前置きもなく、そう言うと、お爺さんは小さく鼻を鳴らした。
「……そうだな」
「勝ててよかったですね」
今度は、少しだけ間があった。
「……まあな」
それだけだった。
でも、その“まあな”に入っている感情は、たぶんかなり多い。
私は知っている。
この人が昔、ダービーをどんな目で見ていたか。
自分の馬でそこへ行けるなんて、本気では思っていなかっただろう。
小さい牧場にとって、ダービーは果てしなく遠い。
重賞だって遠い。
オープン馬でも十分すごい。
そんな世界でやってきた人だ。
そして、この人が「牧場を畳もうか」と本気で零したことも知っている。
息子さんたちは継がず、奥さんに先立たれ、それでも馬の世話だけは毎日ある。
それが、突然、「孫に継がせた」と連絡してきた。
正直驚いたし、その孫が馬と会話しているらしいと聞いた時は、「大丈夫か?」と思ったものだ。
でも今となっては、あれは賭けというより、最後の意地だったのかもしれない。
畳む前に、一度だけでも未来に賭けてみようという。
そんな人が今、東京優駿の勝ち馬馬主として歩いている。
人生というのは、本当にわからない。
「朔くん、来られなくて残念でしたね」
私はぽつりと言った。
桜井さんは鼻を鳴らした。
「北海道で騒いでるだろ」
「間違いないですね」
そう思うと、少しだけ笑えた。
係に誘導され、私たちは動く。
ルドルフも引かれてくる。
勝った馬というのは不思議なもので、ゴール直後の疲れがあるくせに、どこか堂々と見える。
さっきまで全力で争っていたのに、勝ったとわかった瞬間から、空気が変わるのだ。
ルドルフは、まさにそんな顔をしていた。
疲れている。だが、得意そうでもある。
「得意げですね」
思わず漏れた。
「そういう馬だ」
桜井さんが言う。
「ええ」
「孫に似たか」
「それはどうでしょう」
私は笑う。
「ストーンの血も、カスタードの血も、クラウンの悪影響も、だいぶ入ってそうですが」
その言葉に、桜井さんが少しだけ肩を揺らした。
笑ったのだ、この人が。
珍しい。
ウイナーズサークルへ向かう途中、何人もの関係者から声が飛んだ。
「おめでとうございます!」
「やりましたね、岡部先生!」
「ダービー馬、おめでとうございます!」
そのたびに私は頭を下げる。
ありがとうございます、と返す。
だが、本当は私一人の手柄ではない。
クロエの腕。ルドルフの資質。桜井牧場での土台。朔くんの目。桜井さんの経験。
そういうものが全部乗って、この一勝になっている。
だから、ダービーというのは重い。
ただの一勝ではない。
やがてウイナーズサークルが見えた。
それは、何度見ても特別だ。
歓声がこちらへ押し寄せてくる。
勝ち馬を迎えるための場所だと、誰が見てもわかる特別な場所だ。
ルドルフの首に優勝レイが掛けられ、胸を張る。
ここが“勝った馬の場所”だと、わかっている顔だった。
本当に賢いなぁ、この子。
係の声に合わせ、みんなが位置につく。
「桜井さん、もう少し前へ」
係がやさしく促す。
「……こうか」
「はい、ありがとうございます」
私はその横で思わず頬が緩む。
いい光景だ。
ダービーを勝った馬の口取りに、桜井の爺さんが立っている。
朔くんが見たら、たぶん泣くだろうな。
クロエさんがルドルフの首筋を撫で、少しだけ身をかがめた。
「君、今日は主役だからね」
ルドルフは、まるで「わかっていますが?」とでも言いたげに、短く鼻を鳴らした。
それがおかしくて、私はまた笑いそうになる。
「はい、こちらお願いしまーす!」
カメラマンの声。
私たちは前を向く。
ルドルフも、きちんと前を向いた。
サクライルドルフ。
小さな牧場から現れた、無敗のダービー馬。
クロエさんが高くVサインを掲げている。
歓声がまたひときわ大きくなる。
撮影の瞬間、私は少しだけ横を見た。
桜井さんが、ほんの少しだけ胸を張っていた。
いい写真になるだろうと思った。




