第五十四話 東京優駿
東京競馬場の空気は、うるさい。
いや、歓声がどうとか、拍手がどうとか、そういう話だけじゃない。
今日は、空気そのものがうるさい。
東京競馬場。芝二千四百。
東京優駿。
人間は、このレースを特別だ特別だと騒ぐ。
「最も運のいい馬が勝つ」とか言う人間もいるらしい。
けれど、仕方ないとも思う。
この場所は、たしかに特別だ。
ゲート裏。入場を待つ時間。
どいつもこいつも、いい顔をしている。
皐月賞の時より、さらに一段階上だ。
当然だ。
「今日ここで勝った奴が、今年の頂点だ」と、全員が信じている目だ。
そんな空気の中、俺――サクライルドルフは、静かな顔を作っていた。
私は大丈夫です。
私は落ち着いています。
そんな顔だ。
だって、ここでクラウンみたいに「うおおおお!!」などとやるのはなんかガキっぽい。
それに、今日は爺ちゃんが見てる。
朔や弥生、牧場のみんなもテレビで見ているのはわかっている。
でも、今日は爺ちゃんが競馬場に、来ている。
それだけで、なんか、もう、負けるわけにはいかなかった。
絶対にだ。
「よう、皇帝気取り」
後ろから声が飛んできた。
振り向くまでもない。
「何か御用ですか、ゴールデンビール」
外向きの声で返す。
落ち着いて。丁寧に。
内心はともかく、こういう場で舐められるのは性に合わない。
「随分と余裕そうじゃねえか」
「当然です」
即答する。
「私は、ここで勝つために来ていますから」
「はっ」
ビールが、少しだけ楽しそうに鼻を鳴らした。
「相変わらずだな、その態度」
「そちらこそ、“俺様”は健在のようで何よりです」
「くはっ」
ビールが喉の奥で笑った。
「そういうとこ、ほんと腹立つな」
「奇遇ですね。私も同じことを思っていました」
周囲の馬たちが小さく笑った。
「うわ、また始まった」
「黙ってらんねぇのか、アイツら」
「二強気取ってろ。吠え面かかせてやる」
「ダービー前にあそこまで煽り合えるの、メンタル強すぎるだろ」
「黙れ」
ビールが一喝する。
その一声で、空気が少し締まった。
いいな。
やっぱり、こいつはいい。
強いだけじゃない。
ちゃんと“主役”の空気を持っている。
ビールが、少しだけ声の熱を上げた。
「なあ、ルドルフ」
「なんですか」
「負けるなよ」
「誰にです?」
「俺様以外に」
その一言だけは、妙に真っ直ぐだった。
「そちらこそ」
ビールは強い。
わかっている。
だからこそ、俺が勝つ。
その時、背中から、軽く首筋を叩く感触が来た。
クロエだ。
「OK、OK。二人とも仲良しだね」
仲良しに見えるのか、これ。
だが、クロエの声は軽くても、背中の重心は研ぎ澄まされている。
この人間は、表面では笑っていても、勝負の芯をまるでぶらさない。
俺は小さく鼻を鳴らした。
ヒヒン。
俺の中では、はっきり意味がある。
――今日も、勝ちます。
クロエは、少しだけ笑った気がした。
やっぱり、この人間は察している。
朔と違って、言葉が聞こえているわけじゃない。
でも、気分も、覚悟も、たぶんちゃんと拾っている。
ゲートインが進む。
一頭、また一頭と入っていく。
それぞれが、それぞれの緊張と昂揚を隠している。
金属の枠が視界を狭める。
息を整える。
横を見れば、ビールも入っている。
前を見る。
後ろには、もう戻れない。
だからこそ、いい。
ここから先は、誰が一番強いか、それだけだ。
全馬が収まった。
世界がきんと張る。
観客席のざわめきが、遠い。
東京競馬場が、ほんの一拍、息を止める。
ガシャンッ!!
世界が、弾けた。
いいスタート。
クロエの重心が、一瞬で「今日はここ」と位置を示す。
俺はそのまま従う。
人間どもは「折り合い」とか「レース展開」とか、そういうことを言う。
俺にとっては単純だ。
最後に一番前にいるためにはどうしたらいいか。
それだけだ。
向こう正面。
みんな、ダービーを走る馬の顔をしている。
甘い位置取りをしてくるやつはいない。
ビールの気配は、やや前。
あいつの騎手も、完璧に乗っている。
結構。
それでこそだ。
三コーナー。
クロエが、静かに合図を送ってくる。
まだ。
まだなのか。
だが、従う。
ここで自分勝手に動くのは二流だ。
皐月賞で勝てたのは、自分の力だけじゃない。
この男の力もあった。
なら、ここも信じる。
ふと、頭の隅に、爺ちゃんの手がよぎった。
入厩の日。
あの一撫で。
あれだけで、俺は馬運車に乗れた。
だから今日は、勝って撫でてもらう。
四コーナー。
クロエの手綱が変わる。
来た。
合図だ。
――ここからだ。
ギアを一段上げる。
視界が、開ける。
前が、見える。
抜ける。
直線。
東京の長い直線。
観客の歓声が、一気に膨らむ。
『各馬一斉に直線へ!!』
実況が響く。
関係ない。
俺は走る。
ただ、前へ。
前の馬を、捉える。
一頭。
二頭。
抜く。
脚が伸びる。
止まらない。
その時。
「どけ!!」
ビールの声。
あいつも、来る。
当然だ。
俺は視線だけをわずかに横へやった。
ビールの目が、燃えている。
いいぞ!
素晴らしい!
残り四百。
歓声が爆発する。
――二強。
だが、この瞬間の俺たちに、そんな綺麗な呼び方は似合わない。
ただ、相手を潰したい。
自分が前へ出たい。
それだけだ。
残り三百五十。
ビールが並んできた。
息が合う。
脚音が重なる。
「皐月賞の借り、返してもらうぞ!!」
ビールが吠える。
「断ります!!」
俺も返す。
残り三百。
東京の直線は長い。
その長さが、人間にはドラマに見えるんだろう。
こっちからすると、ただ地獄が少し長いだけだ。
ビールが、さらに脚を使ってくる。
強い。
こいつ、本当に強い。
並んだまま、突き放せない。
なんだ、こいつ。
面白いじゃないか!
そう思った瞬間、腹が立つ。
接戦で面白いなんて、冗談じゃない。
俺の脳内プランではもっと楽に勝つ予定だった。
だが、こいつも同じことを思っていたらしい。
「なんで離れねえんだよ!!」
ビールの叫び。
「そちらこそ!!」
俺も吠える。
残り二百。
未だ並んでる。
観客席が爆発する。
ビールが言う。
「勝つのは俺様だ!」
「勝つのは私です!」
俺は思わず言い返していた。
外面は崩さない。
崩さないが、内心はとっくに叫んでいる。
うおおおおおおお!!!
「行け!」
クロエの声に熱が込められている。
鞭が鋭い。
その一発で、身体の奥の何かが火を噴いた。
俺は、もう一段脚を前へ出す。
だが、ビールも来る。
「まだだ!!」
向こうの騎手も本気だ。
当然だ。
皐月賞の雪辱。
ゴールドファームの看板。
二歳王者の意地。
全部乗ってる。
残り百五十。
ビールが、もう一段前に来た。
は?
なんだその脚。
こいつ、強い。
皐月賞のときより、明らかに強い。
俺が、負ける?
ここで?
ダービーで?
爺ちゃんが見てる、このレースで?
「……っ!」
ふざけるな!!!
残り百
差し返す!!
実況の声も、何を言っているかわからない。
ただ、俺とビールの名前を、交互に絶叫している気配だけがある。
爺ちゃん。
見てるか。俺頑張ってるよ、褒めて。
朔。
見てろ。俺が勝って、お前が胸張れるようにしてやる。
弥生。
甘やかしてくれてもいいぞ。
お母さん。
勝ったら喜んでくれるかな。
クラウン。
無敗の三冠馬、俺が代わりにやってやる。
チビども。
俺のこと自慢させてやる。
残り五十。
「負けるか!!」
あいつの叫びが、胸に響いた。
俺も、同じだ。
俺はサクライルドルフだ。
俺は!
ストーンブレイクの息子で!
桜井牧場の馬なんだ!!
勝って!爺さんのほんのちょっとだけ見せる笑顔が見たいんだ!!
最後の力を振り絞る。
なのに隣が消えない。
なんだこれは。
俺が勝つんだよ!
なのに、なんでお前がここにいる、ゴールデンビール!!
最後の最後。
首を伸ばす。
鼻を前へ。
意地でも、一ミリでも前へ。
前へ!
俺が!!
勝つ!!!
……。
……
歓声。
実況の絶叫。
体はまだ止まらない。止まれない。全力で走ったあとの惰性のまま、しばらく前へ流れていく。
息が荒い。
肺が焼ける。
脚が重い。
俺は横を見た。
「……」
「……」
数秒、無言。
それから、同時だった。
「ふざけるな」
「まったくです」
俺たちは、ぴたりと同じような苛立ちを吐き出した。
ビールが、息を荒げたまま言う。
「……おい」
「なんでしょう」
「どっちだ」
「わかりません」
ビールが、悔しそうに、でもどこか笑いそうに鼻を鳴らした。
「俺は圧勝する台本だったんだ」
「それは私の予定ですね」
「むかつくな」
「ええ、とても」
電光掲示板の方を見るが、まだ何も出ない。
それくらい際どかったのか。
クロエが、俺の首筋を軽く叩いた。
「OK。すっごいね、君たち」
すっごい、で済ませるな。
向こうの騎手も、ビールをなだめるように撫でている。
どっちの人間も、全力を出し切った顔だ。
電光掲示板の方を見る。
写真判定。
細い線の向こうに、どっちの鼻先が先に触れていたかを、人間が必死に見ている。
そんなもの、今すぐ決めろ。
くそ、どっちだ。
俺は、わずかに目を閉じた。
楽しかった。
死ぬほど苦しくて、死ぬほどムカついて、でも、最高に面白かった。
俺は前を向いたまま、小さく鼻を鳴らす。
「ビール」
「ん?」
「判定で負けたら、かなりムカつきます」
「奇遇だな。俺様もだ」
「でも」
「でも?」
「また、あなたと走るのは悪くない」
ビールは、少しだけ間を置いてから答えた。
「ダービー終わった直後に言うことじゃねぇな」
「お互い様でしょう」
「違いねぇ」
俺たちは、並んだまま歩いた。
そこで、ざわめきの質が変わった。
判定が。
出る。




