第五十二話 甘えん坊のGⅠ馬
『サクライルドルフ!!サクライルドルフ先頭!!ゴールデンビール食い下がる!!しかし前は譲らない!!一着サクライルドルフ!!皐月賞制覇ァァァ!!』
……。
……。
……え?
勝った?
「……」
呆然とした。
ルドルフが。
サクライルドルフが。
桜井牧場の馬が、GⅠを勝った。
初めて。
本当に、初めてだ。
ストーンブレイクがターコイズステークスを勝った時も、夢みたいだった。
テンザンサクラが朝日杯を勝った時も、「うちの牧場で生まれた馬が」と思って、実感がわかなかった。
クラウンがオープンまで行って、頑張って、頑張って、最後まで走ってくれた時も、うれしかった。
でも。
今回は。
手元にいて、名前をつけて、弥生ちゃんと一緒に世話して、爺さんが撫でて、ストーンが睨んで、クラウンが余計なことを吹き込んで、そうやって育ってきた馬が。
GⅠを。
勝った。
動けない。
視線だけが前へ釘付けになっていた。
ターフビジョンの中で、クロエさんがルドルフの上で、すっと右手を上げた。
指を一本。
「うわぁ」
やりおった。
こわ。
あの人こわ。
「……おい」
不意に、横から低い声が飛んできた。
金持だった。
「ん?」
「何を呆けているんだね」
「いや……だって……」
「だって、じゃない!」
金持が、珍しく本気で声を荒げた。
「君の馬だろう!?行きたまえ!!」
その一言で、ようやく身体の方が現実に戻ってきた。
あ。
そうだ。
ルドルフだ。
ルドルフが勝ったんだ。
俺は、今ここで突っ立ってる場合じゃない。
そこでようやく、俺の中の何かが弾けた。
「うわああああああ!?」
周囲の人がちょっとびっくりしている。
ごめんなさい。
「すみません!!」
何に謝ってるかわからないまま、俺は馬主席を飛び出した。
「検量室行ってきます!!」
「落ち着き給え!転ぶよ!?」
とか金持が言っている気がするが、知るか。
天山さんたちが笑ってるような気配もしたが、そんなの気にしてる場合じゃない。
◇
走る。
馬主席を飛び出し、関係者通路を、もどかしい気持ちのまま進む。
何人かの関係者とすれ違う。
誰かが「おめでとうございます」と言ってくれた気がするが、ちゃんと返せたか自信がない。
そして、ようやく見えた。
岡部さん。
クロエさん。
その向こうに。
「ルドルフ!」
俺が声を上げると、ルドルフがこちらを向いた。
岡部さんも俺に気づいて、ふわっと笑った。
「やあ、朔くん」
「岡部さん!」
「おめでとう」
「ありがとうございます」
頭を下げる。
何回下げても足りない気がした。
「いやあ、強かったねえ」
岡部さんの声は、いつも通り穏やかだった。
でも、その穏やかさの底に、ちゃんと誇らしさが混じっているのがわかる。
クロエさんは、ヘルメットを外したところだった。
髪を軽く整えながら、こっちを見る。
「馬主ボーイ」
「クロエさん!」
「やったねえ」
「ありがとうございます!」
「うん、君の馬、すごく面白かったよ」
その笑顔は、テレビやCMで見るやつより、ずっと格好よかった。
そして、そのすぐ横にいたルドルフが、やけに澄ました声で言った。
「朔さん、お久しぶりです」
「その挨拶今じゃなくない!?」
思わず突っ込んだ。
皐月賞勝った直後に言う台詞か、それ。
でも、そういうところもルドルフっぽい。
俺は、そのまま近づいて、もう遠慮なく言った。
「おめでとうルドルフ!かっこよかったぞ!!!」
それは、心の底から出た言葉だった。
言いたかったことは、たぶんもっといっぱいある。
でも、最初に出たのは、それだった。
ルドルフは、一瞬だけ澄ました顔を作った。
いつもの、ちょっと外向きの顔だ。
でも俺にはわかる。
こいつ、絶対内心めちゃくちゃはしゃいでる。
「……朔」
「ん?」
「周囲に二着だった馬いますか?」
お。
その聞き方で、だいたい察した。
「ゴールデンビールか?」
周囲をきょろっと見回す。
「……見当たらないな」
ちょうど人も動いているし、向こうも向こうで囲まれてるんだろう。
少なくとも、今近くにはいない。
「じゃあ、ちょっとこっち来て」
「ん?」
言われるままに近寄る。
すると。
その瞬間。
「めっちゃ強かった!!!」
ルドルフがぐっと首を寄せてきて、外面を全部かなぐり捨てた声で、早口にまくしたてた。
「初めて負けるかと思った!これがGⅠか!すげぇな!!!」
嬉しそうだな、お前!
「ははっ」
思わず笑ってしまった。
だって、さっきまであんな澄ました顔してたくせに。
内側では、完全に少年漫画の主人公みたいなテンションじゃないか。
「GⅠってやばいな!!みんな速いし、客もうるさいし、でもめっちゃ楽しかった!!」
「よかったなあ」
「あとクロエもすごい!!」
ルドルフが勢いそのままに続ける。
「最後の手綱の感じ、なんかこう、『ここからだ!』って感じでさ!!俺も『うおおおお!!』ってなった!!」
わからん、とも思うが、実際そのへんは馬にしかわからない感覚なんだろうな。
「最後、並ばれた時に『これがゴールドファームのエースか!!』って思った!!でも、そこからまだ脚出た!!俺すげぇ!!」
「うん、すげぇ」
「だろ!?」
その「だろ!?」があまりにもまっすぐで、俺はまた笑った。
勝った馬が、自分で「俺すげぇ!」って言うの、どうなんだと思わなくもない。
でも、こいつらしい。
らしすぎる。
横で岡部さんとクロエさんが、苦笑しながらこっちを見ている。
二人も何となく察してるんだろう、ありがたい。
ルドルフは、まだ興奮したまま続けた。
「爺ちゃんも喜ぶよな!?」
その言葉に、俺はすぐ頷いた。
「ああ」
爺さんは今日は来ていない。
でも、たぶん。
「今頃、自分の部屋でこっそりガッツポーズしてるよ」
そう言うと、ルドルフの目がぱっと明るくなった。
「だよな!!」
ルドルフが、ものすごく嬉しそうな顔をした。
やっぱり、爺さんなんだよなあ。
そして次の言葉は、もう完全にルドルフだった。
「任せとけ!俺が三冠馬になって、もっともっと喜ばせてやる!!」
ああ。
勝った直後のお前なら、絶対そう言うと思った。
でも。
それでも、ルドルフがそう言うなら、俺も信じる。
「ああ、期待してるよ」
俺がそう言うと、ルドルフは満足そうに鼻を鳴らした。
「うん!!ついでに、朔の発言力も上げてやるから、りんごいっぱい用意しとけよ!!」
「お前もそれ言うのか」
「人間はしょーがないからな!!」
なんだそれ。
でも、その言葉に、少しだけ胸の奥が熱くなった。
発言力。
それは、ストーンも、クラウンも気にしてくれてた。
自分が勝てば、朔の言うことを聞くやつが増える。
牧場が少し楽になる。
みんなに美味いもん食わせられる。
その考え方が、なんかもう、うちの牧場そのものだ。
◇
ルドルフのまわりは、その後もしばらく慌ただしかった。
写真。
関係者の声。
取材っぽい気配。
金持の「ダービーで、君とルドルフをぎゃふんと言わせてやるからな!」という宣戦布告。
いろんな人が出たり入ったりして、俺も何をどこまでしたのかよく覚えていない。
ただ、何度か「桜井牧場さん、おめでとうございます」と言われた。
そのたびに「ありがとうございます」と返した。
それだけで、ちょっと泣きそうになった。
桜井牧場。
小さい、小さい牧場だ。
俺が戻ってきた頃なんて、本当にいつまで続けられるのかも怪しかった。
そこから、ストーンが重賞を勝って。
テンザンサクラがGIを勝って。
クラウンがオープンまで頑張って。
そして今、ルドルフが、皐月賞を勝った。
全部繋がってる。
ちゃんと。
だから、これはルドルフ一頭の勝利だけじゃない。
うちの牧場の勝ちだ。
……なんて、そんな綺麗に言うと恥ずかしいけど。
でも、たぶん、本当にそうなんだと思う。
そんな最中、ルドルフが、ふとこっちを見た。
「朔」
「ん?」
「りんご」
「気が早い」
「勝ったんだからいいだろ」
「次、牧場に帰って来た時な」
「今食べたい」
「持ってない」
「けち」
「けちで結構」
そう返したら、ルドルフは妙に満足そうに鼻を鳴らした。
こいつ、本当に変なところが甘えん坊だよな。




