第五十一話 ゴールデンビール
ファンファーレが鳴り、空気が震えている。
どいつもこいつも、この一戦に夢を乗せている。
「笑わせるぜ」
夢は、誰かに託すもんじゃねえ。
自分で獲りにいくもんだ。
そして今日、夢を獲るのは――俺様だ。
俺様はゴールデンビール。
この世代の中心。
そして――ゴールドファームの看板を背負う馬だ。
ゴールドファームは、国内でも一、二を争う大牧場だ。
設備も、飯も、人間も、育成も、何もかもが一流。
同い年の連中だって強いのが何頭もいた。
でも、その中で一番速かったのは誰か。
「俺様だ」
胸を張って当然だろう。
そして今日、皐月賞。
春の中山、芝二千。クラシック第一冠。
要はここで勝てば――俺様が、この世代の王だと、誰もが理解するってだけの話だ。
周りの馬たちも、いい顔で順にゲート入りをしていく。
春の一冠に出てくるだけあって、どいつもただの飾りじゃない。
だからこそ、勝つ意味がある。
だが、ひとつだけ、気になる存在がいないわけではなかった。
サクライルドルフ。
最初に名前を聞いた時は笑った。
ずいぶんでかい名前を背負わされたな、おい、と思った。
俺様に次ぐ二番人気で、同じくカスタードを父を持つ異母兄弟。
だが、それはどうでもいい。
この世界、異母兄弟は山ほどいるし、親父はたまに会うとだいたい面倒くさい。
「おいガキ、女の趣味は早めに固めとけ」
とか、
「GⅠは勝てる時に勝っとけ。あとで取り返すのはだるいぞ」
とか、
「走れるうちに走っとけ。種牡馬生活自体は悪くねぇが、走る楽しさとは別だ」
とか。
たまに格好いいことを言うから余計に腹が立つ。
だから、あいつが気に入らないのはそこじゃない。
目だ。
俺様と同じ目をしている。
本気で「自分が勝つに決まっている」と思っている目だ。
その顔が、気に入らない。
「サクライルドルフ」
少しだけ声を飛ばしてやると、短い返事が返ってきた。
「なんでしょう」
なんだ、その落ち着いた返し。
「今日で無敗は一頭になる」
「そうですね」
「それが俺様だ」
ルドルフの目が、ほんの少しだけ細くなった。
「私も同じことを考えていました」
ああ、ほんとに気に入らない。
皐月賞だぞ。
もっとこう、「うおおおお」とかなれよ。
俺様は鼻を鳴らした。
「勝つのは俺様だ」
「そうですか」
「そうだ」
「なら、私以外に勝てるように頑張ってくださいね」
さらっと返してきやがった。
他の馬たちから小さな笑い声が漏れた。
「うわ、なんだあいつ」
「すました顔で煽るタイプかよ」
「俺あのタイプ苦手だわ」
「ゴールデンビール、やられてんじゃん」
「黙れ」
俺様は短く一喝した。
だが、少しだけ気分が上がったのも事実だった。
いいぞ。
叩き潰し甲斐がある。
俺様の上に乗る騎手が首筋を叩いてくる。
「大丈夫。行けるぞ」
その声は落ち着いている。
頼もしい。
朝日杯も一緒に取った人間だ。
俺様は小さく鳴いた。
「ヒヒン」
人間にはただの嘶きにしか聞こえんだろう。
だが俺様の中では、はっきりしている。
――当たり前だろう。今日は勝つ日だ。
ゲートに入る。
観客席は静かだが、その向こうに、たぶんうちの坊ちゃんもいる。
坊ちゃん、今日はどんな顔をしてるだろうな。
いいぞ。
見ていろ。
お前の期待は、今日も裏切らん。
ガシャンッ!!
ゲートが開き、世界が前へ走り出す。
最初のコーナーまでの流れ、位置、呼吸。
全部大事だ。
背中の騎手も同じ判断だった。
それでいい。
馬群が流れる。
人の歓声が、遠いようで近い。芝を踏む音、鼻息、蹄のリズム。
全部の中に、自分の鼓動だけが妙にはっきりしている。
向こう正面。
人間どもは「折り合いがどう」とか「ペースがどう」とか、勝手にいろいろ言うんだろう。
だが、俺様にとって大事なのは一つだ。
四コーナーを回った時、前へ出られるかどうか。
それだけだ。
俺様は、脚を溜める。
前へ行きたがる身体を、背中の人間がほんの少しだけ抑える。
そう、それでいい。
ここで行くのは二流だ。
三コーナー。
馬群が少しずつ密になる。
四コーナー。
ここからだ。
背中の手綱が変わる。
いい合図だ。
俺様は応える。
首を少し前へ出し、脚の回転のギアを上げる。
視界が開く。抜ける位置だ。
直線。
人間どもの歓声が一気に膨らむ。
中山の坂が、視界に入る。
嫌いじゃない。
強い馬が、最後に本当に強いかどうかを聞いてくる形をしているから。
「行け!」
背中の声。
おう。
俺様は一気に前へ出た。
先頭が近い。
いや、もう捉える。
抜く。一頭、二頭。歓声が膨らむ。
いい。
これだ。
これがGⅠだ。
これが主役の脚だ。
観客席が揺れる。
『ゴールデンビール先頭!!』
実況が耳に飛び込む。
その響きが、いい。
そうだ。
お前らは俺様の名前を叫んでいればいい。
瞬間。
横に何かの気配が、来た。
ルドルフだ。
「ほう」
思わず声が漏れた。
奴は前を見たまま、静かに言う。
「失礼」
こいつ……!
背中の騎手が、俺様に火を入れる。
いいぞ!
お前は、ここで叩き潰してやる!
サクライルドルフ!!
観客が何を叫んでいるか、もう聞き取れない。
だが熱は伝わる。
俺様は勝ちに行く。
当然だ。
残り二百。
俺様は突き放す。
いや、突き放したつもりだった。
だがルドルフは、離れない。
残り百五十。
今度は向こうが出る。
俺様も食らいつく。
だが、食らいつく、という感覚がまず気に入らない。
俺様が誰かに食らいつく?
そんなもの、今日の台本にはない!!
残り百を切った。
坂のてっぺん。
普通なら、ここで苦しくなる。
だが、ルドルフはそこでさらに伸びた。
まるで、「まだここからですが?」と言わんばかりに。
「ははっ」
思わず、笑いそうになった。
強いじゃねぇか。
本物だ。
だが――
「まだだ!!」
ここで負けてたまるか。
俺様は二歳王者だ!
カスタードの息子だ!!
ゴールドファームの看板だ!!!
こんなところで負けてたまるか!!!!
俺様はもう一度、首を前へ出した。
勝ちたい。
横のルドルフが驚いた気配が伝わってくる。
残り五十。
叩き合いになる。
芝が飛ぶ。
歓声が爆発する。
人間どもが総立ちになってる気配。
俺様とルドルフ。
どっちも譲らない。
どっちも止まらない。
こういうのを、人間どもはたぶん“名勝負”とか言うんだろう。
だが、こっちからすればそんな綺麗なもんじゃない。
意地だ。
矜持だ。
譲るか、譲らないか、それだけだ。
「勝つのは俺様だ!!」
声にならねえ叫びが、胸の中で弾ける。
叫ばずにはいられない。
ここで前へ出なきゃ意味がない。
だが。
だが――
ルドルフがもう一段来た。
「は?」
思わず思う。
まだあるのかよ。
残り二十。
あいつの方が前へ出る。
ここで終わるかよ!
認められるか!!
鞭が飛ぶ。
背中の人間が本気で勝ちに来てる。
それが伝わる。
だから、俺様も応える。
でも。
でも、届かない。
ゴール板が迫る。
このままじゃ、負ける。
俺様が!
この!俺様が!!
くそ。
くそ。
くそおおおおお!!!!!!
ゴール。
先に抜けたのは、サクライルドルフだった。
そのあとに、俺様。
止まらない勢いのまま流しながら、俺様は肩で息をした。
胸が熱い。
脚が重い。
頭の中が、ぐらぐらする。
でも、結果だけは、嫌というほどわかる。
負けた。
俺様が。
「はあ……」
思わず息が漏れた。
その時、横からルドルフの声がした。
「ありがとうございました」
「何だその爽やかなやつは!」
俺様は思わず怒鳴った。
ルドルフは、少しだけこちらを見た。
息は荒いくせに、少しだけドヤ顔していた。
「てめぇ……」
「なんですか?」
なんだその顔は。
悔しい。
めちゃくちゃ悔しい。
だが、強い。
こいつ、強い。
認めるしかない。
「……次は負けねぇ」
俺様が低く言うと、ルドルフは、少しだけ目を細めた。
「私もです」
「何がだ」
「次も負けません」
「てめえ」
この野郎。
ほんとに腹立つな。
その時、観客席の方から一際大きな歓声が上がった。
ルドルフの騎手が、観客席に向かって指を一本立てたのだ。
一本。
まるで。
――まず一つ目。
そう言っているみたいに。
くそ。
格好いいじゃねえか。
その瞬間、ようやく実感が追いついた。
俺様は負けた。
負けたが――
「ダービーで待ってろ」
俺様が低く言うと、ルドルフは前を向いたまま、短く答えた。
「もちろんです」
くそ。
その“当然ですが?”って返し方、ほんとに腹立つな。
でもいい。
俺様はゴールデンビールだ。
ここで終わる気はない。
悔しい。
だが、悪くない。
こんなやつに負けるなら、そう悪くない。
そう思ってしまった時点で、たぶん俺様もだいぶ競馬にやられている。
背中の騎手が、首筋をぽん、と叩いてきた。
「よく走った」
その声に、俺様は小さく鼻を鳴らした。
ああ、わかってるよ。
強い相手がいる。
そして俺様は、そんな相手と同じ時代にいる。
なら、この先も面白くなる。
俺様はゴールデンビール。
ゴールドファームの看板馬だ。
皐月賞二着で終わってたまるか。
あのドヤ顔皇帝に、次は土をつけてやる。
そう思うと、悔しさすら燃料になった。
歓声の中、俺様はゆっくり歩きながら、空を見た。
桜の舞う競馬場の空は、やけに明るかった。




