第五十話 おなかいたい
四月の中山競馬場は、ソメイヨシノが舞って美しいらしい。
らしい、というのは、俺が今それどころではないからである。
「おなかいたい」
朝のホテルバイキングで「勝負の前だからしっかり食うか」とか思ってカレーを盛った過去の自分を殴りたい。
重いんだよ、今、そのカレーが。
「落ち着き給えよ」
隣から、いかにも“慣れてます”みたいな声が飛んできた。
金持である。
こいつは、こういう場所だと本当に馴染む。
なんなんだろうな、この男の“ちゃんとしてる場にいる時ほどちゃんとして見える能力”。
「無茶言うな。未だにちょっと信じられないんだぞ」
信じられないことに、ここは中山競馬場の馬主席で、俺は小綺麗な格好をして座っている。
いや、本当に小綺麗な格好なのだ。
天山さんに相談したら、「最低限、ジャケットくらいは着ておきなさい」と言われ、
金持にも「間違っても長靴で来るんじゃないよ?」と言われた。
結果、弥生ちゃん監修のもと、普段の俺からするとかなりちゃんとしている服装になった。
金持は「それはそう」とでも思ったのか、ちょっとだけ笑った。
「まあ、たしかに。桜井牧場の馬が四戦四勝で皐月賞に来るなんて、ちょっと前なら誰も信じないだろうね」
「だろ?」
そう。
今日は皐月賞なのだ。
皐月賞。
三歳牡馬クラシック第一弾。
頂点を目指すやつらの、最初の本番。
“ちゃんと凄い馬”が集まって、「最も速い三歳馬どいつだ」って決めるレースである。
そして、そこにルドルフがいる。
うちの。
あの。
他の当歳に「遅い」と言い放ち、弥生ちゃんを「弱っちい」と罵倒し、俺に舌打ちし、でも爺さんが見えないと拗ねていた、クソわがままな皇帝様が出ている。
「もっとも」
金持が視線を前に向けた。
「レースが終わるころには、うちのゴールデンビールに負けて落ち込んでいる君を僕が励ますことになるだろうがね!!」
こいつ、気を抜くとすぐ調子に乗るな。
ゴールデンビール。
ゴールドファームの三歳牡馬で、ここまで五戦五勝。
朝日杯勝ちの二歳チャンピオンでもあり、名実ともに世代トップクラスの一頭だ。
でも。
「ルドルフが勝つさ」
「その自信、どっから来るんだね?」
「馬から」
だって、ルドルフもここまで四戦四勝なのだ。
そのせいか、新聞も、ネットも、だいたい「二強」とか「二頭の争い」とか書いてくる。
一番人気、ゴールデンビール。
二番人気、サクライルドルフ。
ゴールドファームのエースと、小さな牧場から現れた皇帝。
なんだこの漫画みたいな構図は。
「その自信、馬主としては美しいが、友人としてはうっとうしいね」
「友人だったのか、俺たち」
「そういうことにしておいてやってもいい」
「上から目線だなぁ」
まあ、こういう軽口を叩ける相手が横にいるだけ、だいぶ助かっている。
一人なら今頃もっとソワソワしてたと思う。
そんなふうにじゃれあっていたら、近くの席にいた年配の馬主さんが苦笑していた。
あ、やばい。
馬主席で喧嘩してるアホ二人みたいになってる。
「……騒いですみません」
俺が小さく会釈すると、その人はくすっと笑ってくれた。
ありがたい。
「気にしなくていい。初めてのGⅠはそんなもんだよ」
「あ、どうも……」
「私なんて、昔は発走前にお腹痛くなってトイレに逃げたことあるからね」
正直、逃げたいです。
すると、また別の席の人が笑って口を挟んできた。
「桜井さんの馬、楽しみですよ」
「ありがとうございます」
「無敗の馬同士がぶつかるなんて、やっぱり盛り上がるからねぇ」
ごめんなさい、その期待、嬉しい半分プレッシャー半分です。
隣で金持が妙に得意げな顔をしているのも腹立つ。
「……なあ」
ぽつりと言う。
「ん?」
「やっぱり俺、まだちょっと信じられないんだよ」
「何がかね?」
「ついこないだまで「りんごー」とか言ってたうちの馬が、皐月賞を走るってこと」
言葉にすると、改めてすごい。
金持は、それを鼻で笑わなかった。
「だろうね」
「金持は信じられるのか」
「僕は」
金持は、少しだけ顎を上げた。
「そういうものを見たいから、この世界にいる」
その答えは、ちょっと悔しいくらいに格好よかった。
俺は、深く息を吐いた。
双眼鏡をきちんと持ち直す。
今さらできることは少ない。
見守るだけだ。
それくらいしかできない。
「一つだけ言っておこう」
「何?」
「君がどれだけ胃を痛めようが、もうレースは始まる」
「身も蓋もないな」
「競馬だからね」
それはそうだ。
胃痛も願望も祈りも、レースは待ってくれない。
場内に、ファンファーレが流れ始めた。
GⅠの、長くて、豪華で、ちょっとだけ現実味を消してしまうような音。
空気が、ぴたりと変わる。
さっきまで静かに喋っていた人たちも、もう誰も余計なことを言わない。
怖い。
でも。
きっと、クロエさんは余裕の笑みを浮かべて、岡部さんは全てをやりきった顔をしている。
そして、ルドルフは「当然のように勝ってみせましょう」みたいな顔をしている。
だったら。
俺も同じ顔をしてやるのが馬主ってやつの仕事かもしれない。
代理だけど。




